第十一話「祈りの届かない地」
北へ向かう馬車は、音がしなかった。
蹄鉄を外し、
車輪には布が巻かれている。
――この土地では、
音は敵意とみなされる。
「……ずいぶん、静かですね」
御者に声をかけると、
彼は首を横に振った。
「静かなんじゃない」
低い声。
「聞いていないだけだ」
意味を問う前に、
馬車は止まった。
霧。
いや、煙に近い。
地面から立ち上る灰色の靄が、
視界を奪う。
「ここが、
《無祈の原》だ」
御者は、御者台を降りない。
「ここから先は、
あんた一人だ」
「……送りは?」
「ない」
即答。
「祈りを持ち込むと、
土地が壊れる」
レイは、荷を背負い、降りる。
馬車は、
振り返ることなく去った。
◆
空は、白かった。
雲ではない。
空そのものが、色を失っている。
歩く。
一歩ごとに、
聖痕が鈍く疼く。
だが、力は湧かない。
「……使えない、のか」
拒絶の聖痕は、
ここでは沈黙していた。
――祈りが存在しない土地。
つまり、
神も、加護も、
敵も、味方もない。
丘の向こうに、
集落が見えた。
木でも石でもない建物。
骨のように白い素材で作られている。
見張りはいない。
だが、
視線は確かにあった。
「……旅人だ」
声。
いつの間にか、
レイの前に人が立っていた。
少女。
年は、十六前後。
短く刈られた髪。
武器は持っていない。
「名前を」
「……レイ」
一瞬、迷ってから、
姓は名乗らなかった。
「祈りは?」
即座の質問。
「……ない」
嘘ではない。
今のレイには、
使える祈りはなかった。
少女は、じっと見つめ、
「……入っていい」
それだけ言った。
◆
集落は、静かだった。
誰も祈らない。
食事の前も、
眠る前も。
代わりに、
確認をする。
「刃は持っていないか」
「怒りは、今日何回出た」
「誰かを、壊したいと思ったか」
それが、この地の習慣だった。
少女――エナは言う。
「祈りは、
誰かを正しいと思わせる」
「正しさは、
殺しやすい」
レイは、反論できなかった。
夜。
火は焚かれない。
暗闇に慣れた目で、
人々は静かに過ごす。
レイは、エナと並んで座る。
「……怖くないのか?」
「何が?」
「神も、加護もない」
エナは、少し考え、
「……あるほうが、怖い」
即答。
「神は、
言い訳をくれる」
◆
深夜。
レイは、目を覚ました。
――音。
微かだが、確か。
祈りの震え。
この地に、存在しないはずのもの。
集落の外。
白い丘の影。
そこに、
“歪み”があった。
使徒。
だが、聖痕は反応しない。
力は、使えない。
それでも、
身体は動いた。
剣を抜く。
否。
――剣を、抜かなかった。
代わりに、
前に立つ。
「……来るな」
声は、震えていなかった。
使徒は、
首を傾げるような仕草をする。
そして。
立ち止まった。
祈りも、敵意も、
向けられていない。
ただ、
“拒絶しない人間”。
使徒は、数秒、留まり、
――消えた。
霧のように。
レイは、その場に膝をつく。
心臓が、遅れて騒ぎ出す。
◆
朝。
エナが、何も聞かずに言った。
「……あんた」
視線を向ける。
「ここで、
生きられるかもしれない」
レイは、答えなかった。
ただ、
自分の右腕を見る。
聖痕は、
薄く、眠っている。
――壊さずに、生きる。
その意味が、
ようやく、輪郭を持ち始めていた。
物語は、
**“戦わない強さ”**へ進む。




