第十話「空席の影、残された祈り」
朝が来た。
それだけで、異常だった。
誰もが、
「何事もなかった朝」を受け入れられずにいた。
黒衣の館・中庭。
円卓の席が、一つ空いている。
――ミラの席。
「……座らないの?」
ユンが言った。
冗談めかした調子。
でも、誰も笑わなかった。
「……無理だろ」
グロウが短く返す。
金属義肢が、以前より重そうに見えた。
レイは、その空席を見ないようにしていた。
見れば、
“そこにいない”という事実が、形を持つから。
「第八位消滅により、
使徒側の動きが一時的に止まった」
カイルが報告を読み上げる。
「だが――」
言葉が、わずかに詰まる。
「こちらの損失も、大きい」
誰も反論しない。
勝利とは、
失ったものの総量で測られる。
会議が終わり、
皆が席を立つ。
レイだけが、残った。
空席の前に立つ。
机の上に、
ミラの首輪をそっと置く。
「……ありがとう」
声は、小さかった。
返事は、ない。
◆
夜。
レイは、一人で封祈区画にいた。
聖痕は、
以前より静かだった。
静かすぎて、
何かが欠けたように感じる。
「……ミラ」
名前を呼ぶ。
それだけで、
胸が軋む。
その時。
「……泣くの、遅いね」
声。
振り返る。
そこには、
ミラの影が立っていた。
「……幻覚……?」
「半分、正解」
影は、曖昧に笑う。
「完全には、消えなかった」
レイの喉が、鳴る。
「……戻れるんですか……?」
「無理」
即答。
「私は“封印”になった」
影は、右腕を見る。
「……君の中の“拒絶”を、
少しだけ静かにするための」
レイは、拳を握った。
「……俺のせいだ」
「違うよ」
影は、首を振る。
「私、選んだ」
一歩、近づく。
「……だから、お願い」
レイを見る。
「自分を、犠牲だと思わないで」
影が、薄くなる。
「犠牲だと思った瞬間、
君は“武器”になる」
最後に、微笑む。
「……君は、
止める人でしょ?」
影は、消えた。
レイは、その場に座り込む。
初めて、
声を殺して泣いた。
◆
翌日。
館に、新しい命令が届く。
「……レイ=アルカ」
カイルが、真っ直ぐに告げる。
「君を、
前線から一時離脱させる」
「……!」
ユンが立ち上がる。
「それは……!」
「守るためだ」
カイルは、目を逸らさない。
「君は、切り札であり、
同時に、最優先標的だ」
レイは、静かに頷いた。
「……分かりました」
セリスが、近づく。
「あなたには、
“蓋であること”を
選び直す時間が必要」
レイは、右腕を見る。
聖痕は、まだそこにある。
「……行き先は?」
「北方」
カイルが言う。
「祈りが存在しない土地」
空気が、張り詰める。
「……祈りが……ない?」
「信仰も、神話も、
すべて捨てた土地だ」
レイは、息を吸う。
「……そこで、
俺は何をすればいいんですか」
カイルは、少しだけ言葉を探し、
そして、答えた。
「――何も壊さずに、生きろ」
レイは、初めて戸惑った。
それは、
今まで一度も与えられなかった命令。
夜明け前。
馬車が、館を離れる。
ユンが、手を振る。
「戻ってこいよ」
セリスは、祈らない。
ただ、見送る。
レイは、振り返らなかった。
遠ざかる館を、見ない。
その代わり、
胸に手を当てる。
そこには、
まだ消えない祈りがあった。
――壊さないために、生きる祈り。
物語は、
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