ウルヴズに咲いた一輪の桜
雨が降りしきるモリニューの夜。
ピッチに立つ彼の姿を見つめながら、俺はふと苦い笑みを浮かべた。
ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC──
世間には「ウルブス」の名で知られるクラブ。俺は生まれた時からウルブズ一筋、父も祖父もそうだった。昇格も降格も、監督の交代も、エースの移籍も全部経験してきた。だからこそ、今目の前で繰り広げられるこの現象に、胸の奥がチリチリと焼かれるように痛むのだ。
日本人ウインガー、リョウ・ヒダカ。
その名を最初に聞いた時、正直ピンと来なかった。
「誰だよそれ」
「日本人ならミトマやクボみたいなやつ取れよ」
そんなふうに仲間たちとパブでビール片手に悪態をついたのを、今でも覚えている。
だが、彼のデビュー戦──エヴァートン戦だった。
前半22分、左サイドでボールを受けたヒダカは、瞬く間にDFを2人抜き去り、グラウンダーのクロスをファーへ。フニャなフィニッシャーでも決めざるを得ないような完璧なアシスト。さらに後半にはカウンターからスルスルと中に切り込んで絶妙なスルーパス、2アシスト目を記録。パブ中が静まり返り、そして爆発した。
「あいつ……本物だ……」
それからというもの、彼はチームの心臓になった。左サイドからの仕掛け、決定機を生む閃き、無理な体勢でもこぼさないボールコントロール。チームの点が入れば、ほとんどの場合、彼が関与している。子供たちは彼のシャツを着て学校に行き、街には「HI-DA-KA」のチャントが響くようになった。
でも、それが逆に怖かった。
ある夜、いつものパブ「The Gold and Black」で、俺は友人のトムと肩を並べてビールを飲んでいた。日高がプレミア月間MVP候補に挙がった直後だった。
「なあ、トム」
「ん?」
「俺たち、またあれを見てる気がしないか? あの、若くて、輝いてて、すぐにどっか行っちまう感じの…」
トムは苦笑しながらグラスを傾けた。
「まさにそれだよ。ジョタ、トラオレ、ルベン・ネヴェス、みーんなそうだった。輝けば輝くほど、ウルブズには眩しすぎる」
わかってる。
わかってるんだ。
俺たちはウルブズだ。タイトルを争うクラブじゃない。チャンピオンズリーグに常連で出るクラブじゃない。期待して、惚れて、愛して、そして別れを覚悟する。
それが俺たちだ。
でもな……せめて、もう1年……。
もう1シーズンだけ、この奇跡をこの街に留めてくれと、誰にともなく祈りたくなる。
ヒダカが今日もサイドを駆け上がり、相手DFを1人、2人、3人と抜いていく。
このプレーが、やがてアンフィールドやエティハドで披露されるのだと思うと、誇らしさと寂しさが同時に押し寄せてくる。
でもそれでも、俺は叫ぶ。
「いけぇ、ヒダカァ!!」
「仕留めろウルブズ!!」
なぜなら、俺たちは中位でも、ウルブズだからだ。
夢を見せてくれた者には、全力で声を上げる資格がある。
その先が、たとえ別れだとしても──。