第六話 恭子と一樹の出会い
そのころ、一樹は奨学金を受けながら工業高校に通っていた。部活には入らず、学校が終わると家の近くのコンビニに直行した。アルバイトをして一家の暮らしを支えるためだ。そんな一樹の唯一の楽しみは、聡志が試合に出ることを期待して野球の応援に行くことだった。
今日負けたばかりの県大会二回戦も、間断なく降り注ぐ雨の中で聡志の登場を今か今かと待っていた。
一樹が座っていたのは応援席の一番上の段で、その一つ下の段に合羽を着た小柄な女性がいた。座ったまま応援団に合わせて手拍子を打ってはいるが、終始下を向いてつまらなさそうにしている。
野球の強い学校では、生徒の応援は半ば強制だと聞いたことがある。おそらく、来たくもない応援に無理やり駆り出されたのだろう。一樹は気の毒になった。
ところが、九回裏の攻撃で聡志が登場した時の彼女の興奮たるや、並大抵ではなかった。
「ごめんなさい、このバッターの打席だけ、立たせてください」
後ろで傘を差す一樹に声をかけると、急に腰を浮かせた。
「えーよ、俺も立つつもりじゃったから」
二人して立ち上がった。
「堂本くーん、頑張ってー」
応援団の生徒たちは大きな声に驚いて声の主を探ろうとした。振り返ろうにも、合羽を着ているせいか首が思うように回らない。
恭子の声援を聞いて一樹も勇気づけられた。
「打て、打て、堂本ー、聡志ー、絶対打てるぞ、思い切って振れー」
恭子は背後から聞こえる応援で強力な助っ人を得た気分になった。聡志はバッターボックスに入って、いつものように左腕を前から後ろに大きく一回転させて構えた。
二人で大声を出して応援したにもかかわらず、聡志は僅か二球でツーストライクと追い込まれた。もしも次の一球で仕留められたらすべてが終わる。恭子は雨をものともせず、バッターボックスの聡志に向けてスマホを構えた。
「堂本君、打ってね。神様、お願い」
三球目のストレートを空振りした瞬間、グラウンドの風景が現在から思い出に変わった。涙を拭いたハンカチで、濡れたスマホを慌てて拭いた。
「私たちって、ちゃんとしたデートもしないまま、お別れになるのね」
一樹は悔し気な顔で茫然とグラウンドを見下していた。正気に戻したのは、普段聞き慣れない言葉だった。
「えっ、何か言うた?デート、っとか」
頭のうしろからの声に、恭子はびっくりして振り返った。
「あら、今の独り言、聞こえました?」
顔が赤くなっている。一樹は声をかけたことを後悔しつつ、申し訳なさそうに頷いた。
絶え間なく合羽を叩く雨の音がしていた。選手が消えたグラウンドは、物悲しさを醸し出すばかりだった。
恭子は見ず知らずの人に話すのをためらいながらも、自分自身に踏ん切りをつけるかのように話し始めた。
「私と彼との二人だけの秘密だから、誰にも言っちゃ駄目ですよ。実は、堂本君が私の目の前でヒットを打ってくれたら、デートをする約束をしてあったんです」
「へー、そんなの聞いてないぞ。あいつも隅に置けんなあ。今度会ったら冷やかしちゃろうか」
一樹は羨ましそうな表情から一転、秘密を知って得意気な顔に変わった。
「だから、駄目ですって。誰にも言わないことが暗黙の了解なんですから」
赤面しながら手を横に振った。胸が熱くなるのを感じて、少し冷ましたくなった。
「ところで、あなたは臨海学園の生徒じゃないようですね」
一樹が同じ高校の制服ではなく、黒のシャツを着ているのが気になった。
「あっ、ボ、ボク?うん、違う高校じゃ。そのう、ボクは堂本聡志君と幼馴染で同級生なんじゃ。あいつは市内の堂本電器の一人息子で、ボクの家は彼のお父さんにも、よう世話になっとります。で、ええと、中学まで野球部で一緒にやっとった。今は奴の大ファンとして、都合のつく限り試合の応援に来ちょるんよ」
恭子が真剣な顔をして耳を傾けるので、しどろもどろであれこれ喋った。慌てて頭のてっぺんに手をやって照れ隠しをした。
「そうだったんですか。道理で親し気って言うか、気持ちがこもった応援だなって感じたんです」
「そういう君も聡志が出た途端に立ち上がって、後ろから見とっても熱心な応援じゃったよ」
恭子は「うふふ」とはにかんで、「でもね」と続けた。
「私、もうすぐ、この町を離れなければならないんです。だから、大好きな人が最後にヒットを打ってくれることを祈って、彼からも私が見えるようにして、思い残すことのないように応援したかったんです。結果は残念でしたけど、彼がバッターボックスに立つのを見ただけで涙が出そうになったから、もう、それで良しとします」
風が強く吹いて横雨になっていた。一樹のシャツは雨をびっしょりと吸い込んでいる。
「かっ、合羽の間から、雨が染み込んどらんかね。濡れると風邪をひくよ」
自分のことにはお構いなしで、彼女の体のことを気遣った。
「えっ?ああ、大丈夫です。体まで冷たくなってないから。どうもありがとう」
恭子は一樹のちょっとした優しさが嬉しかった。
ベンチ前で監督に説教を食らっていた選手たちもいなくなり、応援団はとっくに引き揚げて二人だけが残っている。
「それで、今の話じゃと、ど、どこか、遠くへ行ってしまうんかね?」
まるで、自分の彼女とお別れするかのように、恭子の顔を覗き込んだ。
「そうね、ずっと遠くへ。堂本君にはこのことを伝えてないの」
一樹は恭子の瞳に吸い込まれるように頷いた。二人は遠く離れる運命だというのに、なぜか聡志が羨ましくなった。
「うまく写ってればいいなあ」
恭子がかすかに呟いた言葉は、今度は一樹に聞こえなかった。
「将来、あなたとまたどこかでお会いしそうな気がします。本当にそうなれば嬉しいな。堂本君のこと、もう一度一緒に応援したいから。初対面なのに、恥ずかしいことをいっぱい話してしまいましたね。あなたのような、優しくてすてきな友達がいるから、堂本君は頑張って来れたのね」
二人はお互いの名前も聞かないままで球場をあとにした。
恭子は、いつものように泣いて帰るしかなかった。もう会えなくなると思うと、とめどなく涙が溢れた。