第五話 横恋慕
九月の最後の週に秋の県大会が始まった。聡志は紅白戦で猛打賞二回の活躍をしたことが認められて、ベンチ入りメンバーに選ばれていた。宮島臨海学園の一回戦の相手は投手力の弱い大竹商工だった。この試合で大原が三打席連続二塁打を放って貢献し、十対〇でコールド勝ちを収めた。
恭子は大原の打席を見ないようにして、ひたすら聡志の出番を心待ちにしていた。試合に勝った喜びよりも、五回でゲームセットになった悲しみの方が大きかった。
試合後のベンチは、大原の独壇場だった。
「ちゃんと見てくれたかなあ、かわいい恭子ちゃん。彼女がスタンドにいるだけで、俺のパワーが何十倍にも膨れ上がるのさ。次も応援に来てくれたら、絶対に打つ!」
聡志はそれを聞いて我に返った。しまった、忘れてた。まだ思っていたのか。あれから既に二ヵ月以上も経っている。
大原に恭子のお断りを伝えるのに気が咎めて、ずっとそのままにしておいたのだった。さすがにまずかったかと心が揺れた矢先に問い詰められた。
「おい、堂本、恭子ちゃんからいまだに返事が来ないけど、ラブレターはちゃんと渡してくれたんだろうな」
当然渡しているだろうという口ぶりで聡志を睨んでいる。もう逃げようがない。
「ええ、それはもちろん、渡しましたけど。ええっと、だけど、怒らないでくださいよ。彼女は、好きな人がいるとか……」
「なんだと?何でそんなことを隠してたんだ。それで、その相手とは、一体どこのどいつなんだ?」
これ以上ない恐ろしい形相で聡志の胸ぐらに掴みかかろうとしている。聡志にはその場を取り繕う言葉が浮かばなかった。本当のことを言わないとタダでは済まないと覚悟したところへ、そばにいたキャプテンの大園が助け舟を出してくれた。
「大原、お前なんかモテるわけなかろうが。田舎もんのくせにいくら標準語に似せて喋ったって、三枚目の宇宙人みたいな顔じゃ無理だっちゅうの」
それを聞いたナインが声を立てて笑った。キャプテンに言われては返す言葉がない。大原はヒーローになった試合後に最悪の失恋を経験して、誰もそばに寄せ付けなかった。
続く県大会の二回戦は雨中の展開となった。初戦で際立った活躍をした大原は、この日も先発メンバーに起用された。監督やナインの期待の大きさに応えるべきところ、この日は前日と打って変わってスイングは波打ち、守備ではぬかるみに足を滑らせて転んだ。
試合は三対二で九回裏まで進み、宮島臨海学園は一点差で負けていた。ツーアウトランナー一塁からピンチヒッター堂本の名前がコールされた。一回、二回と素振りをしてバッターボックスへ向かう。何としても塁へ出るんだと気合を入れた。
ちょうどその時、三塁側応援席にいる女性からひときわ大きな声援が飛んだ。
「堂本くーん、頑張ってー」
聡志は恭子の声を聞くなり、
「あっ、まずい」
と首をすくめた。続いて聞き覚えのある男の声援が聞こえた。チラッと応援席に目をやると、不思議なことに合羽を着た恭子と傘を差した一樹が前後に立っていた。
大原はベンチから身を乗り出して声の元を探った。応援席の一番上で男女二人が立ちあがって応援している。そのうちの一人は間違いなく恭子だった。
大原の頭は瞬間湯沸かし器のように沸騰し、ベンチの最前列から、わざとピッチャーに聞こえるように叫んだ。
「堂本、苦手のストレートは捨てろ!」
相手バッテリーは、敵の陽動作戦かと疑った。半信半疑で外角をストレートで攻めた。すると、聡志のバットはかすりもせずに空を切った。
「まだまだ練習が足りないな。お前が打てるのは、真ん中低めのカーブだけだ。しかも、クソボールしか打てないんだ。アッハッハ」
大原は、聡志が紅白戦で一本だけ大きいのを打ったことさえ野次の対象にした。それは、右膝を地面にこすりつけるようにして打ったときの偶然の産物だった。
顔を真っ赤にした大原の堂本口撃は止まらなかった。監督は苦々しい顔をしてナインに目をやった。自分から大原に注意をしても良いが、長い目で見て、それではこのチームに将来はないことを分からせたかった。
バッターの弱点を確信したピッチャーは、真ん中やや高めのカーブでツーストライクとしたあと、また外角にストレートを投げて空振りの三球三振に切って取った。ゲームセット。大原はスタンドの恭子が涙を拭くのを見届けて、フフッと笑った。試合後の整列でわざと聡志の横に並んだ。
「堂本、彼女の前で残念だったな」
最後のバッターになって放心状態の聡志に捨てゼリフを吐いた。大原がざまあみろといい気になっていたのは、そこまでだった。
「コラ、大原、お前は、敵に味方の弱点を教えてどうするんだ!」
一塁にランナーで出ていた大園が、整列の挨拶が済んだあとで怒鳴りつけた。
監督はベンチ前に選手を集め、全員の顔を睨んだ。そのあまりの迫力に圧倒され、唇を噛んで震える者や怖くて下を向く者もいた。
「どうして大原の為すがままにさせておいたんだ。試合に勝つ気はあるのか。全員、一蓮托生の関係なんだぞ。チーム一丸となって勝利に向かおうとしない者は、この場から去れ!」
凛とした声が響き渡ったあと、邪心に満ちた大原に三歩前へ出るように命じた。監督はその場で無期限の背番号剥奪を申し渡した。
「監督、キャプテン、悪いのは、下手くそな僕なんです。ストレートの打てなかった自分が悪いんです」
聡志が涙を浮かべて懺悔の言葉を口にした。大原は深く頭を下げたままだった。張り詰めた空気の中で、声を出す機能を失ったかの如く全員が押し黙っていた。
その晩、大園は大原を野球部のグラウンドに呼び出した。
「お前はこのまま野球を辞めては駄目だ。今辞めたら、一生後悔するぞ。ここは、心を入れ替えて踏ん張れ。野球部のみんながお前のことを心配しているのを忘れるな」
大原は母親以外から優しい言葉をかけられたことがなかった。
「俺は正直言って、明日退部届を出そうと思っていました。キャプテン、よく俺の気持ちが分かりましたね。俺がいたら迷惑じゃないんですか?ベンチに入っても役に立てないかもしれませんし」
「何がベンチだ。一から出直すんだ。甘えんな、バカ野郎!」
最後まで言うか言わないかのうちに、大園が強烈な一撃をくらわせた。大原は暗い地面に転がされ、無限に広がる夜空が視界に入ったとき、やっと軽薄な横恋慕から目を覚ました。