第22話 脅迫状
あっという間にオールスターゲームも終わり、カープの選手たちは次戦のある横浜に足を運んだ。カープはペナントレースの前半を三位で折り返し、首位のベイスターズとはわずか三ゲーム差に迫っていた。
個人成績では、四番の紙屋はホームランを二十四本打って第二位、エースの前場は十一勝を挙げてハーラーダービーのトップをひた走っていた。
聡志は打率二割九分八厘と高打率でありながら、ホームランはいまだに開幕戦での一本のみだった。その原因は、聡志に対しては内角高めのストレートは禁物という情報が行き渡っていたからだった。残念ながら、四年目の聡志が大きいのを打てるツボはそこにしかなかった。
チームとしては、優勝を目指して何が何でも勝ち進もうという機運が盛り上がっていた。その大事な初戦。カープはベイスターズの外人選手ラミスチンに決勝タイムリーを浴びて敗れた。悪い流れのまま一勝二敗で三連戦を終えた。
次のスワローズ戦を二勝一敗で勝ち越し、戦いの場は甲子園球場へと移った。二連勝のあとの三戦目はサヨナラ負けを喫し、選手達はガックリと肩を落としてロッカールームに戻ってきた。
聡志がロッカーの鍵を開けるのとほぼ同時に、携帯電話が呼び出し音を鳴らした。待ち受け画面には欣二の名前があった。通路に出て着信ボタンをタップする。「もしもし」と電話に出るや否や、慌てた様子の欣二が何事か早口でまくしたてた。
もう一度落ち着いて話をしてもらうと、広島市内の井上丈太郎という男から、本日七月三十一日付で聡志宛てに内容証明郵便が届いたということが分かった。井上という名字は恭子と同じだとぼんやり思った程度で、特段思い当たる節はなかった。
「何が書いてあるか想像がつかんけど、たぶん心配はいらんと思うよ。明日は広島で試合じゃから、昼前にそっちに寄るよ」
実際のところ、聡志はそれ以上言いようがなかった。負けられない試合に負けたばかりでそんなものに構っている精神状態ではなく、動揺する欣二を煩わしいと感じるほどだった。
ところが、翌日帰省した聡志は内容証明郵便を開けて仰天した。
「貴殿は嫌がる私の娘(恭子)に自分が出場する野球の試合を応援しに来るよう命じ、その試合でヒットを打てばデートをするという約束を無理やり承諾させた。気弱な娘はその約束が原因でストレス過多となり、不眠症を発症した。精神科を受診するも長期間回復せず、今では重度のうつ病を患って入院している。これによる支払いが家計を圧迫し、今後の入院費用の支払いが困難になりつつある。これらすべては貴殿の自己中心的な欲求に起因するものであり、償いがあってしかるべきである。ついては二週間以内に当方に謝罪文を送付し、その後一か月以内に医療費、慰謝料等を含め、三百万円を支払え。要求に応じぬ場合、人気が出始めた堂本選手の裏の顔を洗いざらいマスコミに公表する」
左端に送付した日付と振込先が記載されていた。文字は震える手で書かれたらしく、全体的に揺れている。聡志は、高校時代から自分を応援してくれている恭子がこんな脅迫に関わっているとは思えなかった。すぐにでも恭子に会って確認をしたい。彼女が転校したときに引っ越し先を教えてくれなかった担任を、今さらのように恨んだ。
翌日の午前中、聡志は欣二と共に球団事務所を訪ねて対応を協議した。法務担当の野林は聡志から事実関係の聞き取りをして、根も葉もない言い掛かりによる恐喝だと即断した。続いて、万が一のため、聡志の代理人として球団顧問の野口弁護士を選任することを提案した。
同席していたマネージャーの大瀬戸は、聡志の肩をポンと叩いた。
「やり手の弁護士が味方についてくれるなら、千人力だよ」
「そう言うてもろうたら安心じゃ。良かったのう、聡志。あとは全部弁護士さんに相談しながら進めたらええんじゃ」
力強い助っ人を得て一番ホッとしたのは欣二だった。今までの人生でこれほどの脅迫を受けた経験はない。いざとなれば、育成契約の聡志に代わって自分が三百万円を出すしかないと腹を括っていた。
それから二日後の午前十時半、聡志は野林を介して一人で弁護士の野口明夫を訪ねた。欣二には自分がすべて対応するからと言って、同伴を断っていた。嘘と分かり切った脅迫状のことで、父親を煩わせたくなかったからだ。
事務所の応接室で挨拶が済んだあと、あらためて内容証明に記載されている内容についての事実確認が行われた。聡志は球団でのヒアリングと同様、父親の井上丈太郎とは面識など無く、恭子は高校時代の同級生とだけ説明した。
「堂本さん、身に覚えがないのでしたら、警察に被害届を出しましょう。脅迫状を読む限り、用意周到な犯行とは思えません。脅されて怯む人もいますけど、こういうケースは強気に出た方が良いですよ」
野口は毅然として言った。
それにしても眉毛が太いと、今ごろ気づいた。聡志は、被害届を出した場合、恭子は知らなかったでは済まされず、警察に厳しい取り調べを受ける可能性があるのではと危惧した。
何かの間違いであって欲しいと願いながら答えた。
「別に怯むわけではありませんけど、いきなり被害届を出すのではなく、書かれている内容は事実とは異なるという返事を出して、相手の様子を見るというのはいかがでしょうか?私個人としては、彼女が病気で苦しんでいるのなら、何としてでも助けてあげたいと思っています。入院費の援助くらい、今すぐにでもしたいという気持ちなんです」
野口は予想外の言葉を聞いて呆れ、溜息をついた。
「なにを甘いことを言ってるんですか。あなたはありもしない約束を基に脅迫されてるんですよ。本当に病気かどうかも分からないし、少しでも支払えば、脅迫内容を認めたと同様です。相手はどんどん攻めてきます。それだけは絶対に同意できません。いいですね!それから、もう一つの様子見については、当事者のあなたがそう言われるのなら、その線で進めてみますか。早期解決のためには得策とは思えませんけど」
気乗りしない口調で答えつつ、聡志を正面から見据えて裏で何を考えているのかを推し量った。違和感を覚えたわけは簡単に見つかった。
「堂本さん、あなたが恭子さんを助けたい気持ちはともかくとして、今すぐ援助したいというのは、とてもじゃないけど理解できません。だって、そうでしょう。彼女は脅迫してきた相手の娘さんでしょ?しかもただの同級生。その人に入院費を援助する必要なんてないじゃないですか。あなたは、彼女とは同級生以上の、何らかの関わりがありますよね。それについて、私に包み隠さず教えてください」
依頼者が肝心なことを隠していては始まらない。さあ話せ、とばかりに不信感が太い眉毛に滲み出ている。聡志は蛇に睨まれた蛙そのものだった。蛇が怒って大きな口を開ける前に、恭子と交わした本当の約束について素直に説明した。
「なるほどね。そういうことだったんですか。純愛そのものですね」
野口の表情が急に柔らかくなった。二人の間で剣呑になりかけた雰囲気がほぼ正常な関係に回復した。それはともかく、聡志は冷やかしに照れている余裕などない。蛙が急に虎になった。
「ですから、私には脅迫などされる覚えはないのです。そこに書かれている偽りの約束ではなく、今説明しました本当の約束は、私たちが高校一年生の時にしたものです。応援に来るよう命令したこともないし、無理やりデートだなんて、考えたこともありません!」
野口がのけ反るほど大きな声で否定した。
「あなたの言われたことは十分理解しました。そうすると、私にも、なぜこんな脅迫文が送られてきたのか、その動機が何なのか、さっぱり分かりません。面白半分の脅しなのか、それともその文面の奥底に思いもよらない何かが潜んでいるのか」
野口はぞっとするように顔をしかめた。
「自分は人を傷つけたり、恨まれるようなことは一切せずに生きてきたつもりです。なのに、会ったこともない井上という男から、いきなりこんなものが届くなんて」
聡志は右手でグーを作って左手のパーを思い切り叩いた。
「長くなりそうですね、動機まで探ろうとすれば。どうしてでたらめな言いがかりで金銭を要求してきたのか。下手をすれば、こっちがうつ病になりそうです」
野口が軽く言った冗談に、聡志はしばし目の前のお茶一点を見つめて固まった。あの明るかった恭子が本当にうつ病で苦しんでいるのだろうか。だとしたら、その病気の本当の原因は何なのだろうか。
前方から「ゴホン」という、わざとらしい咳が聞こえた。
「今後の打ち合わせについてですけど、試合がある日に行う場合は、あなたの都合の良い時間に短時間で済ませます。できるだけ配慮するつもりですので、その点はお任せください」
野口は事務的な説明をしたあとで、
「今日はここまでにしましょう」と言ってノートを閉じた。
面談が終わって、野口は素早く回答書の作成に着手した。相手方の要求を一蹴すべく、「事実無根で要求には応じかねる」旨の通知を書き上げると、その日のうちに配達証明付きで井上に送付した。
それに対し、井上から野口の事務所に返信が届いたのは、一週間後の八月十一日だった。前回同様、文字が大きく揺れていた。




