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第十一話 恭子の消息~憧れの甲子園出場

 関東に暑い夏が訪れ始めたころ、井上恭子は奥多摩にある祖母の家にいた。奥多摩は東京都の西に位置する多摩地域にあり、山林の多い町だ。離婚した母親の邦江と共に、前の年の十月に引っ越して来ていた。

 恭子にとって嬉しかったのは、その家は狭いながらも一軒家で、自分にも三畳の個室がもらえたことだった。ベッドと机があるだけの殺風景な部屋だったが、天井に貼った一枚の写真がいつも恭子に生きる力を与えてくれた。ベッドに仰向けで寝ると、雨粒のせいでピンボケになった大好きな人が空振りの三振をしていた。

 祖母の家での暮らしは楽ではなかった。使えるお金は僅かな貯金の取り崩しと年金のみ。それだけでは要支援状態の祖母を抱えた母子家庭の暮らしは賄えなかった。


 恭子は高校二年生になった四月から、授業が終わるとスーパーのレジでアルバイトを始めた。中高生が学校や部活の帰りに菓子や飲み物を持ってレジに並ぶ。たまに同じ学校の同学年の生徒が来たときは、顔を合わせるのが疎ましかった。下を向いたまま、商品のバーコードを読み取り機に当てる。ピッ、ピッという音が虚しく鳴る。

「ありがとうございました」

 目を合わせないように小声で言う。

「ここでバイトしてんだ」

 同じクラスの並木美千代とは、店が混まない時間にレジで口をきくようになった。

「恭子って、広島から引っ越して来たんでしょ。いいなあ、私もいろんな所に住んでみたいわ。ずっと奥多摩じゃつまんないし」

「ううん、ここは、住むにはとってもいいところだと思うわよ。東京といっても山も湖もあるしね」

 二人は学校の昼休みに向かい合ってお弁当を食べるようになった。

「ねえ、恭子。恭子の趣味ってなに?」

「野球観戦よ。最近は行けてないけどね。好きな選手が目の前でヒットを打ってくれるように応援するの」

「へー、そんな趣味あるんだ。見えないなあ」

「でもね、その人のヒットを見るのは、いまだ叶わない夢なんだけど」

 西の空を見上げて寂しそうな顔をすると、美千代も一緒になって西の空を見上げた。それがおかしくて、二人で顔を見合わせて笑った。


 その夏の全国高等学校野球選手権大会は、甲子園球場で八月十日に始まった。宮島臨海学園は、一回戦で静岡県代表の浜松舘山寺高校と対戦した。

 相手チームのユニフォームの色は聡志たちの白とは違って明るい青で、陽光を浴びた湖の色を表しているようだった。県予選では、「やらまいか」精神に負けず劣らずファイト満々のプレーを実践し、かつ、常に全力で走る姿が、基本に忠実なプレーを象徴していた。

 勝敗を分けたのは、八回の表、ツーアウトから相手のセカンドがややイレギュラー気味のゴロを弾いたのが発端だった。次の打者は狙ったわけではないが、また同じところへゴロを打った。すると、今度はお手玉をしてランナーが二人たまった。続く大原は浮足立っている方向へ強いゴロを打とうと流し打ちをした。

 だが、大原が打った打球はゴロではなく、一、二塁間への強烈なライナーだった。セカンドはダッシュしてジャンプし、体が地面と平行になって飛んでいた。なおもこれ以上ないくらい体を伸ばしてグラブを差し出した。

 捕られたかと思われた打球は、グラブの網の先端にあたってファーストの後方に跳ねた。すでにスタートを切っていた二塁ランナーは本塁へ向かった。ファーストからキャッチャーへ球が送られたが一瞬の差でセーフ。キャッチャーは打った大原が二塁に向かったのを強肩でアウトにした。

 スリーアウトチェンジ。記録はヒットだったが、セカンドはスコアボードを見上げる元気もなかった。

 浜松舘山寺高校はこの一点を追いつくことができず惜敗した。

 試合終了後の整列で、背番号四は体を半分に折り曲げて号泣した。顔を上げることもできない。一礼の挨拶が済んだあと、宮島臨海学園の選手たちが彼を囲んで励ましの声をかけた。キャプテンの大園は、「ガッツあふれる素晴らしいプレーだったよ」と労った。

 相手チームのナインは彼の肩を抱いてアルプス席の前まで連れて行った。救われたのは、相手監督がこれ以上ないくらい清々しい顔をして、スタンドに大きく手を振ってお辞儀をしたことだった。

 応援団席には、背番号四の両親と思われる人がいた。我が子の気持ちが乗り移ったのか、二人とも赤い目にハンカチを当てている。監督や選手たちに惜しみない拍手をして、ハアハアと口でしかできない荒い息をした。

 選手の家族としての長い、長い甲子園への旅がいま終わった。

 球場の観衆も、テレビを観ていた視聴者も、背番号四の将来に幸あれと祈ってエールを送っていたに違いない。


 続く二回戦の相手は、吉祥寺南高校だった。大都会にコンプレックスのある大原は、西東京代表と聞いただけで気後れした。そこへ持って来て、関東の大学を卒業した監督は、

「お前らの方が東京のチームより応援する人数が少ないぶん、緊張しなくて済む」

 などと冗談っぽく言ったため、かえって緊張感が増した。

 地元では、どこそこの家の息子が甲子園に出場するという情報が隅々まで行き渡っている。それどころか、大原が住んでいる町内では「大原毅君 祝 甲子園出場」と太く書かれた横断幕まで張られていた。案の定、大原は試合中ガチガチになり、平凡なフライに足がもつれてエラーを犯し、三振を重ねた。

 試合は投手戦となった。宮島臨海学園のエース南別府は緩急自在のピッチングが冴えわたり、相手のバッターはタイミングを合わせ切れず凡打の山を築いた。結局、フォアボールで出たランナーを盗塁と送りバントでサードに進め、聡志がスクイズで決めた一点を守り切って辛勝した。

 アルプス席で応援していた欣二と一樹、ゆりの三人は、勝利を見届けるや否や歓喜のハイタッチをした。

 唯一の心残りは、聡志が二試合連続でノーヒットに終わったことだった。

 三回戦の相手は大阪の強豪、淀屋橋高校と決まった。超高校級と言われるエース高谷を擁する優勝候補で、二回戦まで余裕で勝っていた。欣二はこの試合が甲子園での見納めになるのでは、と不安な気持ちを抱えながら、三人揃って応援団御一行様のバスに乗った。


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