第一章 第2話 『最悪な朝』
鼓動を全身で感じる。
息が荒くなっていく。
否定、しなくては。目の前の事実を。
受け入れては、駄目だ。駄目なのだ。
仮に、目の前に首を切られ、何か所も刺された跡のある母親がいたとしても。
「かあ、さん……?」
否定のための振り絞った勇気も、届かない。
母親はぴくりとも動かない。
クリーム色の服は赤黒く染まっていた。
「おぉ…ぇ”ぇ”ぇ”ぇぇ……」
這いつくばり、胃の中身を全て吐き出す、というところなのだが、空っぽの胃からは何も出てこない。
その場でなんどもえづく。
息ができない。
苦しい。
助けてほしい。
「え”ぇ”ぇ”っ………はっ……はっ………はっ……………はっ…………………。」
荒い息を何とか整えた。
唾液と胃液が混ざった液体を口の端から垂らし、ゆっくりと立ち上がる。
目が回る。視界がおぼつかない。
「だ、れか…」
そうだ。父さんは。
昨日から姿を見ていないが、父さんなら。
ふらつく足取りで、ゆっくりと歩みを進める。
「とうさん……」
寝室。
「とうさん………」
浴室。
「とうさん……!」
居間。
「とうさん!!」
店の中。
「とう、さん………………」
その場で膝をつき、崩れ落ちる。
誰もいない店の中、一人で顔を歪める。
どこを探しても父は見つからなかった。
父さんなら、きっと何とかしてくれる。
母さんのことも、きっとなんとか。
売り物のパンすら置かれていない店の中にいると、不安が増幅していくようだった。
「そう、だ………。」
助けを求めて視線をさまよわせていると、店の窓が目に留まる。
その窓から、遥か遠くに見える町を見据える。
町の人なら手を貸してくれるかもしれない。
もしかしたら、父さんも町にいるのかも。
そうだ、そうに違いない。
そう自分に言い聞かせ、なんとか立ち上がった。
普段は客が出入りする、店の正面のドアから店の外へと出る。
震えた足では立ち上がるのに苦労した。
でも、町まで行ければ僕の勝ちだ。
そのままの足で、丘を下っていく。
「だ、れか………。」
***
森の中は異様なほど静かだった。
鳥の声も、虫の声すらも聞こえない。
ただただ、自分が発する歩く音のみが響き渡る。
早朝の澄んだ空気には、少し肌寒さを感じた。
本来外に出るつもりはなかったので薄着のままで歩き続ける。
あたりには、夜の寒さの影響で少しだけ霧がでている。
太陽はまだのぼり始めで、霧もあり、まだあたりは少し暗かった。
そんな森の中を、何も考えずに進む。
というよりも、足を動かすことで考えないようにしていた。
心のざわつきも、進んでいれば和らいで──。
「あ………。やっと…ついた……。」
いつも走っているからだろうか、頂上から町までは異様に長く感じた。
丘から町への入り口は普通の旅人が入ってくるような正面の入り口ではなく、その逆の裏口なのだ。
裏と言っても、特別な事は無く、単純に入り口が二つある、というだけのことだが。
裏口からは広場が近い。
円のような形をしているこの町では、中心よりも裏口よりに広場があるのだ。
広場に向かっている途中に、ふと思い出す。
そういえば、今日はおいしいパンの料理を作ってくる約束だった。
そんなことをしている余裕は全くなかったのだ。説明して許してもらおう。
そう、町の人に頼れば、きっと何とかなる。
父さんも見つかる。
大丈夫。きっと。
いつもパンを売っている広場までたどり着く。
その間、誰にも会わなかった。まだ早朝だからだろうか。
といっても、いつもこのぐらいの時間には町に来ているし、普段は何人かには会うのだが。
──と、広場にたどり着くと、見覚えのある後ろ姿が目に入る。
「ぁぁあ!!ドムさん!!」
人に会えた。まだ何も解決していないのに、人に会えるだけでかなり安心する。
走ってドムさんに近づいていき、正面に回り込む。
大した距離を走ったわけではないのに息を切らしてしまい、背中で息をする。
そして、苦しいながらも顔を上げる。
「はぁ、はぁ……ドムさん、あの、かあさ──。」
ドムさんには、顔が無かった。
「え…………………………………、は…………?」
僕は今、何を見ているのだ?
思わず、しりもちをつく。
正確にはドムさんに無いのは顔ではなく、顔を含む、おなか側の半身であった。
とかそんなことはどうでもいいのである。
頭がしびれる。これは、まぎれもなくドムさんだ。
見慣れた紫色の服に、後頭部につけた花の髪飾り。
でも、もう、これは、ドムさんじゃない。
「ぁあぁぁぁ、ああああああああ!!!!」
無様に手をついて立ち上がり、走り出す。
どこに向かうかもわからずに。
「ぅあぁぁぁ、ぁぁぁぁぁ!!あああああぁぁぁあ!!!!」
見慣れた街並みがすごい速度で後ろに流れていく。
丘の上から町までは走るが、町の中を走るのは初めてだな、なんて感慨は微塵も無い。
「──────っ!!いっ………て……」
無我夢中で走っていると、何かに足を取られ、大きく転んだ。
鋭い痛みが膝に走る。
そして、何事かと後ろに目をやる。
「は…………………。」
見えたものに絶句する。
右腕を失い、右の頭から目にかけてが陥没したベストが、足を投げ出して民家の塀に寄りかかっていた。
左手には両手剣が握られている。
そして、ベストが寄りかかっている塀のある家のあたりには、大量の血が飛び散っていた。
「なにが…………っ」
僕はよろけながら立ち上がり、開け放たれた入り口からその家の中を覗き込む。
足が勝手に動き出していたのだ。何かを考えていたわけではない。
そして──。
「あ……あぁ……ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”!!!」
見るべきではなかった。
分かっていたはずだ。
家を守るように塀にもたれかかっていたベスト。その中にいるのは──。
キャシーが、多数の子どもたちを守るように、子どもたちに覆いかぶさった態勢で息絶えていた。
全員、目をくりぬかれたり、耳を切られたり、凄惨な状態だった。
中でもキャシーは、目をつぶされ、顔の皮を剝がれていた。
そして、なんどもなんども、ナイフで刺された跡が背中にあった。
家の中は、どす黒い、血の海だった。
だめだ。ダメだ。駄目だ。だめだ。
今日は、僕がおいしいパンのレシピをみんなに紹介する日なんだ。
ドムさんは一番期待してくれてたからしっかりと教えなくちゃ。
ベストさんのためにキャシーさんも喜びそうな料理にしよう。
子供たちもきっと喜ぶし、いつも僕が買い物をしてる雑貨屋のおじちゃんにも教えよう。
たまにパンを買いに来てくれるあの人たちにも、もちろん教えて。
教会の牧師さんにも食べさせてあげよう。
「なんで……。なんで…………?」
誰も、返事をしてくれない。
「なんで……?」
みんな冷たくなってしまった。
「なんでぇぇぇぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”!!!!!」
こうして、生まれて初めての最悪な朝がやってきたのだった。