第三章 第4話 『義理と告白』
手元から立ち上がる芳醇なパンの香りがユーガの鼻をつく。香ばしく、その食感がわかるほどの濃厚な香り。
扉を目前に、ユーガは大きく息を吸い、吐く。
……これでユーガの運命が決まるのだ。自信があるとはいえ、緊張はする。
できるだけのことはやった。
後は、祈るしかない。
目をつむり、ここにいない精霊を瞼の裏に思い描く。
「なんだ。結構いいもんだな。大魔導士様ってのを心に置いとくのは」
そんな自由奔放で、手の焼ける精霊に勇気を貰い、もう一度大きく息を吸い込み──
「お待ちどう!これが、俺の最高傑作だ!」
扉を勢い良く開け、ユーガは焼きたてのパンを食堂に運び入れたのだった。
***
ここはタイラ家の屋敷。『奉星城』から離れた都市のはずれにある建物だ。
ユーガが前もって聞いていたより巨大で、エトワールには無かった程の大きさの屋敷。
ここで働くとなると多忙だろう。
屋敷の中を歩いている途中、ユーガは部屋を数えるのは諦めた。
確か三十部屋までは頑張ったが、それ以上は嫌になってしまった。
家の大きさに対し、装飾品などは少ない印象。
しかし小綺麗にしてある廊下や部屋などはすっきりとしている。
厨房には一通り調理器具や施設が揃っており、材料を揃えれば料理には困らなかった。
ユーガの店のものよりも質の良い火の魔石を使っているようで、焼き窯の火力も火の安定性も段違いだ。
最初こそ扱いに苦労したが、二、三個試しに焼けば慣れ、ほとんど店のものと遜色ないものを焼き上げることが出来た。
「こちら、お茶になります」
「あぁ、ありがとうございます」
壮年の男──デネボラと名乗った男は、良い香りの立ち上がるお茶を運びながら食堂に入ってきた。
ユーガは振り返りデネボラに礼を述べる。
デネボラはタイラ家に仕え始めて長いという話を本人から聞いた。
しかし、ユーガ的にはこの男の実態を掴めていない。
厨房の使い方を教えてくれたのもデネボラだったのだが、最低限のことだけ話し、結局彼の人となりにはたどり着けなかった。
無用に口を開くことはない男だが、城での一件を見るに、只者では無いのだろう。
実際、彼が運ぶお茶の中身は全く揺れていない。どうやったらそんなことができるのか。
とりあえず、ミラがユーガへの斬首の命令を取り下げてくれたおかげで彼に敵意は無いようで安心だ。
まぁ調理に入る前に屋敷の案内に対して礼を述べたが、無言で腰を折るだけで何も言わなかったので警戒はされていそうだが。
「さて、準備は良いのじゃな?」
ミラは、異様に長い机の短い辺に座り、ユーガに顔だけ向けている。
机の上には皿やフォークやナイフなどが置かれ、いつでも食事を始められる用意が整っていた。
おそらくデネボラのおかげだろう。
「もちろん。待たせてごめんな」
ユーガはミラの方へ近づいていき、トングでパン・デ・チョコラットを一つ盛り付ける。
「……ふむ。デネボラ?」
「毒味は済んでおります」
ミラがまじまじとパン・デ・チョコラットを眺めた後、後に控えるデネボラに水を向ける。
デネボラはパンの隣にお茶を置き、いつもの調子で腰を折る。
正直、ユーガには自信がある。
これは、今まで自分が作ってきたパンの中でも最高傑作であり、しかもこれまでに皆が食べたことが無いものだと。
ミラから少し視線を移せば、長机の長辺にソレイユが座っている。
ユーガから彼に口出ししないように頼んであるので、黙って見守ってくれているのだ。
ソレイユには絶賛された、パン・デ・チョコラット。
しかしながら、デネボラが毒味をした際の反応を思い出して不安になる。
彼は一口齧り咀嚼し、感想も何も言わず、『問題ございません。どうぞお運びください』と述べたのだ。
彼は毒見という仕事を遂行しただけなので文句も何もないのだが、表情一つ変えなかった彼の反応に不安になるのは当然だ。
「貴様、約束は覚えているな?」
しばらく目の前のパンに視線を落としていたミラが、立ちながら様子を見守るユーガに目を向ける。
「あぁ、忘れるわけねぇ。──お前が俺のパンに満足しなかったら、二度と俺はソレイユに近づかない。挑戦の期限は日没まで」
「その通り。愚鈍な者もその程度は覚えておけるのじゃな」
「愚鈍て……そんな馬鹿なことした覚えないんだが」
苛烈な暴言にわが身を顧みる。
が、そこまでの醜態をミラの前でさらした覚えはない。
ため息をつきながら窓の外を眺めれば、空の橙色に染まった部分が引いていき、暗い空が一面を占めるところだった。
つまり、ちょうど日が沈み終わり、たった今ユーガの準備時間は終了したのだ。
妨害があったせいでギリギリになってしまったが、何とか間に合った。
時間いっぱいに使ったので、ミラのユーガが約束を覚えているかどうかの疑いも当然かもしれないが。
「けど、こっちの条件も覚えてるな?」
「無論じゃ。貴様のようなたわけと一緒にするでない」
「お前五秒に一回罵らないと駄目なのかよ!」
ユーガとしても、この勝負は重要なのだ。
それこそ、人生が左右されるほどに。確認は大事だ。
そんなユーガの叫びを「ふん」と鼻で笑い、ミラはナイフとフォークを手に取る。
そしてフォークをパンに突き刺し、固定する。
ミラはゆっくりとナイフをパンにあてがう。
彼女が少し力を入れると、さくり、と軽い音を立ててパンにナイフが入る。
それを見てミラが目を細める。
そのままナイフを入れていくと、内側からトロリとチョコレットが染み出してきた。
ソレイユが口を開けて、羨望のまなざしでミラを見ている。
彼にも後で焼いてやろう。
そのうちの一欠片をフォークで刺し、ミラはまじまじとそれを眺める。
薄く砂糖で覆われたパンが、食堂の暖かい色の証明で光り輝いている。
ミラは、それをゆっくりと口へ運び──
「─────」
ミラは、何も言わず、目を閉じてひたすらに咀嚼を続けている。
食堂の中に、彼女が食器を置いた甲高い音が響き渡る。
もちろん雑に置いたから響いたのではなく、部屋にいる彼女以外の全員が、ミラの反応に全神経を集中させているからだ。
「どうだ?!」
ゆっくりと咀嚼しているミラに焦れったくなり、ユーガは長机に手を着いて彼女に問いかける。
もう十分に味わったはずだ。
沈黙はユーガの精神を蝕んでいくのだ。
「なぁ、どうなんだよ?どう感じてる?!」
「─────」
彼女の返答はない。
彼女は上品なしぐさで口元を拭き、目を閉じたままでいる。
「聞こえてんのか?なぁ!」
ユーガの不安は最高潮に達している。
自分の最高傑作を、こんな所で否定されるのか。
「なぁ、なぁってよ!美味いのか?それとも不十分なのか?教えてくれよ!」
「うるさい」
「ごはぁっ?!」
詰め寄ったところに容赦のなく顎を下から撃ち抜かれる。
体ごと吹っ飛び、世界がひっくり返る。
壁際まで派手に転がり、上下逆さの状態の世界が目に映る。
遠くでソレイユが慌てて立ち上がったのが目に入る。
「痛って……急に殴るとか正気じゃねぇんだよ。せめて事前に……いや前もって言ったとしても殴るなよ」
手加減というものを知らないのであろうミラは、本気でユーガの頭部を破壊しかねない威力でユーガを吹き飛ばした。
常識が通じる相手ではないことは分かっていたがここまでとは。
「って、殴られたってことは……」
鼻と口からとめどなく血を流したユーガは失敗したことを直感する。
パンを食べ終わった直後の突発的な暴力。
これがパンへの不満以外何があるというのだろうか。
彼女の条件にもあるとおり、勝負に負ければユーガは二度とソレイユには近づけない。
それを、パンへの不満の発散のついでに、約束を破ればどうなるかを身をもって知れと、そういうことなのか。
ミラは、何も言わず、腕を組んでこちらを睥睨している。
「はは……そうか、俺の、負けか」
ユーガはふらつく足で立ち上がり、自嘲する。
「まぁ……分かってはいたんだけどよ」
そもそも、この勝負はミラに利がありすぎる。
彼女の勝利条件は一つ。実際の味に関わらず、ユーガのパンを不味いと、そう一蹴すればいいのだ。
故に、ミラが本当にソレイユと結婚したいならば、ユーガのパンを正当に評価する必要はない。
正当に評価した結果、ユーガのパンが気に入らなかったという可能性もあるが。
そんな負け戦を引き受けてしまったのはなぜのだろうか。
一時の気の迷いか。それともパン屋としての自信と誇りからか。
あるいは単に、おいしいもを食べて欲しいという、子供じみた発想からなのか。
本当のところはユーガ自身にもわからない。
「ごめんな、ソレイユ。俺から誘っておいてやっぱ無理、っておかしいけどよ」
「ユーガ……」
ただ勝負は勝負。
ここはおとなしく引き下がるとしよう。
ユーガはおぼつかない足でソレイユの近くまで行き、謝罪する。
彼をこんなにも振り回してしまったのだ。本当に申し訳がない。
「ミラも……ごめんな、不味いもん食わせちゃってよ」
殴った後に再び席に着き、黙ったままのミラに向き直る。
彼女はユーガに一瞥もくれず、正面を向いているのだが関係がない。彼女がどう受け取ろうと、ユーガはユーガの言いたいことを伝えるだけだ。
思えば、ミラは彼女なりの恩赦をくれていたのではないか。
デネボラほどの執事が居れば力づくでユーガにソレイユを諦めさせることも可能だっただろう。
しかし彼女はユーガの得意分野で勝負をしかけ、ユーガが納得できるように誘導してくれたのではないか。ユーガが戦ったと、戦ったうえで手に入らなかったのだと納得できるように。
ここで下手に食い下がれば、彼女の厚意を無下にするのではないか。
「じゃあこれ、片づけちゃうな」
そうのパン言って、残りのパンを下げようとした時──
「待て。いつ妾が不味いと言った?」
「へ?痛てっ!」
ユーガの方を向かないまま、ミラはパンを取ろうとしたユーガの手の甲を叩く。
「何言ってんだ?美味しくなかったんだろ?」
ジンジンと痛む手をさすりながら、ユーガはミラに疑問を呈する。
「何度も言わせるな。不味かった訳でも、美味でなかった訳でもない」
「ん?てことはつまり……?」
ミラは大きくため息をつき、
「ユーガ。貴様の勝ちじゃ。……大変美味であった」
「え、えぇぇぇぇ?!まじで?!どんなどんでん返し?」
「どんでん返しも何もなかろう。妾が感想を述べたのは今が初めてじゃろうが」
「ま、まぁそうなんだけど……あれ、何で俺殴られたの?」
「貴様が気に入らなかったからじゃ」
「パン批判されるよりも傷つくんだが?!」
ユーガは流石に声を上げて抗議する。
もちろんパンを批判されることも傷つくのだが、それはむしろ改善につながるので燃えてくる。
だが、単純な人格否定は普通にめっちゃ傷つく。
「それに、妾は食後の余韻を楽しみたいのじゃ。それを邪魔されたからのう」
「それは……言い訳できねぇな」
確かに、思い返せば余韻に浸っていたであろうミラの周りでうるさく騒いでいた覚えがある。
流石に反省だ。
しかし、ユーガには引っかかる点がある。
「にしても、何で美味いって言ってくれたんだ?」
「ん?率直に感想を述べただけじゃぞ?」
「そうじゃなくて、勝負に勝ちたいなら、不味いって一言言えば済む話じゃんか」
「あぁ、確かに、そうじゃったな」
「気づいてなかったのかよ!」
聡明そうな彼女ならば当然考えていたであろうことに対し、今気づいたのかのような態度を取るミラ。ユーガは思わず声が高くなる。
「まぁ、戯れはさておき。貴様、旅の長さに関して妾が尋ねた時を覚えておるか?」
流石に考慮はしていたか……、と安心なのかよく分からない感情に襲われるユーガ。
彼女が話しているのはおそらく城での一件だろう。
「あぁ、あの時か。ごめんな、どんくらいかはっきりと分かってなくて」
ユーガは頭を掻いてユーガは謝罪を口にする。
ここで彼女が負けたということは、期限の分からない結婚の延期を意味する。ユーガとしても、申し訳ない気持ちもあって。
「そこはさして重要ではない。……貴様、妾を欺くこともできたであろう?」
「────」
「そこで、敢えて本当のことを話すとは。愚かなものよのう」
ユーガは当初考えていたことを言い当てられ、絶句する。
彼女はあの時すでに、ユーガが選びうる選択肢が見えていたのだろう。
固まったままのユーガを気に留めずに、ミラは「ふん」と鼻で笑い、
「まぁその時の義理を立てたまでよ。実際、パンは美味であったしな」
と興味なさげに言い、彼女は再びユーガのパンを食べ始めた。
それが、ユーガとミラの勝負の結末であった。
-◆◇◆-
皆が寝静まる中、ユーガは一人歩いている。
穏やかな夜だ。
聞こえるのはユーガが踏みしめると微かに軋む廊下の床の音だけ。
現在ユーガ達はタイラ家の屋敷に泊まっている。
晴れて無職となったソレイユと、この国に来て日の浅いユーガに行く当てなど無かったのでミラが屋敷の部屋を貸してくれたのだ。
無数にある大きな窓からは月の光が差し、廊下を歩くのに支障がない程度に照らしている。
ユーガはそんな月の明かりを頼りにゆっくりと歩みを進める。
そして間もなく、目的の部屋の前に到着した。
「ソレイユ。入っていいか」
軽く扉を叩き、ユーガは中の住人に声をかける。
「おうユーガ。良い夜だな」
「悪いな、こんに夜遅くに」
扉を開けたソレイユは、堅苦しい近衛の服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に身を包んでいる。
……それでもユーガの持っている一番良い服よりも値が張りそうだが。
「問題ないぜ。どちらにせよ、普段から俺は二時間ぐらいしか寝ないからなぁ」
「……それはそれでやべぇけどな」
彼の生態は不明だが、おそらく常人には到底理解できないものなのだろう。
ソレイユはユーガを部屋に通し、部屋にある質のよさそうな椅子に腰掛ける。
ユーガも机を挟んだ位置にある椅子に腰を下ろした。
暖色の光を発する魔石で、明るすぎない程度に部屋の中が照らされている。
「お、この匂いは」
部屋に入った時から、良い香りがユーガの鼻についていた。
机の上を見れば、ソレイユが入れてくれたであろう紅茶が置いてある。
匂いからするに、いつもの銘柄だろう。
「いつもありがとな。ソレイユの入れる紅茶まじで美味いわ」
「当たり前だろう!何せ、近衛騎士団副団長……を追われた男だからな」
「いやまじですまん」
ユーガは深々と頭を下げる。
そんなユーガの様子にソレイユは慌てて、
「いやいやいや、そんなつもりで言ったんじゃねぇよ!前にも言ったが、そもそも俺が職を失ったのとユーガは何も関係ねぇよ。気にすんな」
ユーガは「そうか?」と言って恐る恐る顔を上げる。
「そうだ、茶菓子を出そう。俺が副団長室に隠しておいたやつ」
そう言って、ソレイユは別の部屋に消えていく。
まもなく戻ってきたソレイユは手に甘い香りを漂わせた茶菓子を乗せた皿を持っていた。
「ま、食べろよ。高級だぜ?」
「そう言われると食べるのちょっと遠慮しちゃうんだが」
そう言いつつ、ユーガは茶菓子をつまむ。
豊かな甘みが口の中に広がり、なるほど、確かに高級なものだと実感する。
しかし、そんな甘い口内とは裏腹に、ユーガの胸の内には苦いせめぎあいが起こっている。
──話すべきなのだが。信じてもらえないかもしれない。
このような前座を挟んでいるのはユーガの意気地のなさが原因だ。
本来ならば、さっさと本題に入るべきなのだ。
琥珀色のお茶から視線を上げ、ソレイユに目を向ける。
当たり前だが、彼はユーガの葛藤を知らない様子でお茶を啜っている。
ユーガは逃げ出すという甘い考えを追い出すように、頭を振ってお茶を口に含んだ。
甘い茶菓子の味をお茶が中和してくれた。
「……よし」
ユーガがソレイユの部屋に赴いたのは、ソレイユと話をするためだ。否、ソレイユに話をするためだ。
それは、ユーガが彼に同行を求めるのならば避けては通れないこと。
──ユーガの、目的について。
「ソレイユ」
「ん?なんだ?」
ソレイユには事前に話したいことがあるから、夜に彼の部屋に行くつもりだと伝えてある。
そのため、彼もユーガから何かしら伝えられるであろうことは知っている。
心の準備ができていなかったのは、ユーガ自身だけなのだ。
ユーガは、大きく息を吸い込む。そして、
「これから俺が話すことは、信じられないと思う。でも全部、本当のことなんだ」
瞼の裏に、ユーガがこれまで見てきた、聞いてきたことが浮かび上がってくる。
幸せな記憶、惨劇、悲痛、苦痛、絶望。
暗い色で塗り固められた回想に、どうしてもためらいがちになってしまい、開きかけた口を何度か閉じる。
ユーガ自身でもじれったくなる程のそれを、ソレイユは急かすことなく待ってくれている。
ユーガはそんなソレイユに心の中で感謝し、ようやっと、言葉を紡ぐ。
「この話は、勇者と俺、そして大魔導士──ティアにまつわる話だ」
長い、ユーガの自分語りが幕を開けた。




