第57話 それは遺跡から
長っ!!
「ここか」
ウェスはセイスト地方の西側にあるという遺跡にやって来ていた。
ここは《ヴァルシャナ遺跡群》と呼ばれ、リスタニア王国建国以前からあったとされる場所である。
遺跡群といってもその大半は崩れ、探索は不可能となっている。
「ここは…、入れそうだな」
ウェスは適当な遺跡に目をつけると、松明を片手に足を踏み入れた。
ヒンヤリとした空気。湿気が多いのか、壁や床はコケが生い茂っている。
入り口から数十歩進んだ辺りで、ウェスはふと歩みを止めた。他の遺跡と違い、割りと形がしっかり残っていたこの遺跡。最初に狙われて然りの場所ともいえる。
とするならば、目ぼしいものは既に持ち出された後、と考えるのが普通だった。墓荒しも居るだろうし、盗賊も狙うだろう。トレジャーハンターも足を踏み入れそうな場所だ。依頼が無くとも、既に財宝や遺産等は運び出されているに違いない。
つまり、ウェスが辿り着いた答えは。
「無駄足か…」
ならば、いかにも人の入りにくそうな場所を探るのがいいだろう。
そう、思ったのだが。
「………」
松明の明かりの中に、一瞬入り込んだ自分以外の影。
どうやら先客が居るようである。
ただの墓荒しなら撃退は容易い。
盗賊であるならば、複数の可能性があり、こちらが不利。
トレジャーハンターなら交渉の余地ありだ。
だが、先程の影だけでは相手が何者かなど判るはずもない。
付け加えるなら、怪物の可能性もあるのだ。
やはり身を引くのが正解だろうと、ウェスは踵を返した。
『逃げるの?』
ウェスは背中にヒヤリとしたものを感じた。
『ねぇ、逃げるの?』
振り返ることができない。かといって進むこともできない。体が凍りついてしまったかのように、関節という関節が無くなってしまったかのように、ウェスの体はそこに張り付けられてしまっていた。
『ねぇねぇ、逃げるの?』
繰り返し訊ねる声は、可愛らしく、一見何の害も無いように感じる。
『逃げるなら逃がしてあげる。だけど、逃げないなら、私と遊んで?』
「あそぶ…?」
『そう。串刺しごっこ。たくさん串刺しにした方が勝ち! じゃあ私から!』
声はとても嬉しそうに言う。
「ま、待て!」
すぐに感じた身の危険。
ウェスは声を張り上げて、背後の声に制止をかける。
『なあに?』
「それは公平じゃない。先攻後攻はじゃんけんで決めよう」
『じゃんけんってなに?』
「手で、こう、グーとパーとチョキを作って…」
『手ってなあに?』
「手はお前にもついて…」
『お前ってなあに?』
「……?」
何かがおかしい。
後ろに居るのは何だ?
自分は何と話している?
沸き上がる疑問。
導かれぬ答え。
「振り返るぞ」
『振り返るってなあに?』
声を無視してウェスは後ろを見た。
通路の少し先に曲がり角。
その通路の突き当たりの壁に無数の小さな穴。
「串刺しって、あれか?」
恐らく何かしらの突き刺すようなものがあの穴から飛び出してくるのだろう。
『逃げるの?』
「…罠、か…」
『ねぇ、逃げるの?』
逃げるなら逃がす、とは言っているが、それも眉唾物。遊んでも必ず先攻を取られ串刺しにされる。
侵入者撃退用のトラップであることは間違いなかった。
『ねぇねぇ、逃げるの?』
ウェスは足を前に出した。
『逃げないの?』
声の対応が変わった。
『本当に逃げないの?』
トラップが解除されていないということは、この先に目的の物が残っている可能性が高い。
『本当の本当に逃げないの?』
「………」
『じゃあ死ね』
前方の壁の穴から何かが飛び出した。それは長く、赤黒く変色した巨大な針。
針の突き出た壁は徐々にウェスの所へ向かい動き始める。
「串刺し、だな…」
来た道を引き返し、光射す出口の方へ逃げ出すウェス。距離はそうは無いが、壁の移動速度は予想以上に速い。しかし、追い付かれるほどの速さではない。
古めかしい仕掛けなので本来の効果を発揮できていないのかもしれない。
「うわっ!?」
余裕を感じた矢先、駆けていたウェスの足が急に空を掻いた。
床が無い。
そう気付いた時、既にウェスは奈落の底へまっ逆さまだった。
『串刺し! くっし刺し!』
上の方から愉しげな声が聞こえる。
逃げられるような希望を持たせておいて、奈落に突き落とす。随分と悪趣味な仕掛けだ。
深く深く。何処まで落ちて行くとも知れない穴。
このまま落ちても死んでしまうだろうが、先程の声の言う通りなら、この先に針山でも待ち構えているのだろう。
だが、ウェスは奇妙な既視感を感じるのだ。
すぐ下に、無数の針が見てとれる。それに突き刺さったいくつもの骨。人の物、獣の物。
この先にあるのは間違いなく死。
呆気ない幕切れ。
『串刺しー串刺しー』
遠くから聞こえた声。
声だけの声。
『はーい、グシャッ!』
奇妙な浮遊感。
奇妙な空気の流れ。
奇妙な声が消え。
そして暖かい何かがウェスの腕を掴み、落下が止まる。
「大丈夫?」
ソレはウェスの腕を掴んだまま心配そうに訊ねてくる。
彼は上を見上げた。
そこに居たのは金髪の少女。
彼女はどういうわけかフワフワと浮遊しながらそこに居た。
「取り合えずゆっくり下ろすから、じっとしててね」
少女の言葉にウェスは頷く。
二人は下の針を避け、比較的隙間の空いた場所へと着地した。
「暗いなぁ」
少女が呟く。
「松明は逃げる途中で落としたからな。予備もないし、仕方ない…」
「大丈夫、ほら」
少女はピンと人差し指を立てる。するとその指先から小さな光の玉が出現し、辺りを薄明かるく照らした。
「お前、魔術士か」
ウェスが訊くと、少女は曖昧な表情を浮かべた。
「うーん、まぁ、そういうことにしといて」
他人のことなので、特に詮索はしまいと、ウェスはそれ以上を訊かなかった。
「ああ、礼がまだだったな。本当に助かった。あのままだとこいつらみたいに串刺しになってるところだった。ありがとう」
「気にしないで。たまたま気が向いたから助けただけだし」
少女はプイと顔を背ける。
何か悪いことを言ってしまったのだろうか?
考えてみたがウェスに思い当たる節は特に無かった。
しかし、彼女の先程の物言いだと、ここに突き刺さっているモノ達のいくつかは彼女に見捨てられたようだ。
「ほら、こっち」
針の間を縫い、少女が歩き出す。
「何かあるのか?」
「ここ出なきゃなんないでしょ? だから出口まで案内したげるよ」
「助かる」
ウェスが少女の後についていくと、小さな横道が現れた。
ジメジメした通路。
狭く、人一人がなんとか通れる程度。ウェスは腰を屈めてその通路を歩いていく。
そこは通路と言うには程遠く、良くて横穴といったところだ。
「待って」
少女が立ち止まる。
「どうした?」
「《デモニスウォール》」
「デモにス…、なんだそれ?」
「そんなことも知らずに遺跡探索? すぐ死ぬよ?」
「………」
少女はため息をついた。
「《デモニスウォール》は大型の《スライム》の一種。透き通る体とその巨体を活かして、透明な壁に化けている難敵だよ。体に触れた者を瞬間的に麻痺させて、あとはゆっくりと体に取り込んで徐々に溶かし、自らの栄養にする。生き地獄を味わいたいのなら、どうぞ無警戒に進んでね」
少女は体を壁に寄せ、ウェスに道を譲ろうとする。
その先には確かにおかしな部分があった。少女の指先の光がおかしく反射している空間。恐らくそこに《デモニスウォール》というスライムが待ち構えているのだろう。
「遠慮しておく」
「まぁ、見つけさえすればどうってことはないんだけど。移動能力は低いし、対策はいくらでも立てられるから。ま、焼くか、核を壊すかすればいいんだけど。できれば焼くことをおすすめするよ。物理攻撃じゃ核まで届かない可能性が高いし、下手に触れれば負け確定だしね」
「覚えておく」
「このサイズならあなたの剣でもやれると思うけど、ここは私がパパッと焼いちゃうよ。《もしも》の時困るしね。私、回復系の魔術は憶えてないから」
少し下がって、と少女に促され、ウェスは通路を数歩引き返した。
淡い光が消え、真っ暗になった通路から、何かブツブツと聞こえてくる。
『命焦がれる強き赤。我と我等に仇為す者を焼き払え!』
魔術の詠唱。
『レッドブリス!』
通路いっぱいに炎が広がる。後ろに居たウェスも熱気を感じるほどの炎だ。
ジュアッ! という音が聞こえ、鼻をつくような異臭が立ち込め、二人の足元をスライムが溶けた液体が流れていった。
「あちち、やっぱ狭いところで炎はだめだなぁ」
ぱんぱんと服の裾を払いながら、少女はぼやいた。
「もう少しでこの通路出られるから」
少女の言う通り、《デモニスウォール》を倒した場所から少し進むと開けた空間に出ることができた。
「ここは遺跡の下層。外まで出るのはちょっと大変だよ」
「ああ、でもここまで来れば目的も果たして帰れそうだ」
「目的って何?」
「財宝か遺物を持ち帰ること。仕事なんだ」
「墓荒し?」
「まぁ、似たようなもんだな」
本当にそうなので否定したりはしない。
「ふーん。でもさぁ、この遺跡はやめときなよ。財宝を持ち帰るような余裕はないと思うよ」
「そうか?」
「トラップにかかって、怪物のことも知らない。せいぜい次の部屋まで生きていられたらいいとこ」
「ぐ…。それならお前はどうなんだ? この遺跡に詳しいみたいじゃないか」
「まぁね。私の庭みたいなものだし」
「住んでるのか?」
「まぁ、似たようなもの」
少女はニヤニヤ笑いながらウェスの顔を見る。
「な、なんだよ」
「ううん。なんか私たち似てるなって」
「似てるか?」
「似てるよ」
「……………あ」
「……と…」
途端に音が途切れる。
それなのにウェスは構うこと無く話し続けていた。
彼には分かっていた。それがおかしいということが。
けれどもどうしようもないのだ。それが当たり前であるかのように口や体は動き、意思とは関係なくことが進んでいく。
「そろそろ頃合いかな」
「…なっ?!」
ウェスは我が目を疑った。
少女と話している自分を見ている自分がここに居たのだ。
「これは? それにお前は!」
「自分を見直すことができたかい?」
懐中時計を片手にすかした顔の男が立っている。
「ククロ…、とか名乗ってたな」
「ああ」
「時間の神様だと言っていたな」
「ああ。一応証拠を見せようか?」
ククロは穿いていたズボンの裾を上げる。彼の踝の辺りに、最近ではすっかり見慣れてしまったお馴染みの印があった。
「ならこれは…」
「過去。君が経験してきた人生そのもの。かいつまんではあるけどね」
「………」
ウェスは自分の腰に手を当てる。しかし、その手は何も無い空を掻いただけだった。
「ああ、今の状況を忘れてないかい? 君の剣は…」
そうなのである。
彼の剣は今手元に無いのだ。
「イド…」
ウェスは彼の目の前で話している、彼と少女を見つめる。
「それから変な気は起こさないように。ここは過去。既に過ぎ去ったもの。既に起こった事象。今に居る君が干渉できる場所じゃない」
「何故こんなことをする?」
「ふーん。強いて言うなら俺個人の感情によるところが大きいな」
ククロは無表情に答えた。
「俺はもう脱け殻。脱け殻は棄てられる。必要ない。お役御免。バイバイ。さよなら。もう会うことはないだろう」
「な、何を?」
「使えなくなったモノは棄てられ、次の新しいモノが使われる。まぁ、使えなくなったモノの最後の抵抗といったところさ」
「意味がわからん」
「つまりだ。俺は要らなくなったから次が必要なんだ。すなわち…」
ククロは過去の虚像を指差した。
「あれだ」
彼が指差したのは、過去のウェスが会話を交わしている相手。
金髪の少女。
「彼女とは遠からぬ縁でね」
「お前はあいつを知ってるのか?」
「ああ勿論。俺たちの間で彼女の名を知らぬ者は居ないほどだ」
ウェスはエモシアルの言葉を思い出していた。彼女もそんなことを言っていたのだ。
「知ってるなら教えてくれ! …全てをだ!」
「ああ。俺はその為にここに居るんだからな」
「あ、ありがとう!」
ウェスが礼を言うと、ククロはにこりと笑って話し始めた。
「俺達の名前は三つの部分からなっているのは知っているだろ?」
「気にしてはいなかったが、確かにそうだな。だが、他国にはミドルネームというものもあるようだし…、なにか関係が?」
「俺の場合だと、最初の《ククロ》。こいつがファーストネーム。個人を表す名前になる。そして最後の《クロノス》。これは君達のファミリーネームと同意だ。そして真ん中の《クルル》。これは産まれた日付だ。俺達の間で使われているマイナーなものだがな。しかし、これは俺達が使う《神術》に大きく関係してくる。つまりだ。こいつで使える神術の方向性は大体分かるようになっている」
「じゃあ、あいつの力というのは…」
「俺と似てるね。ただ、全く同じ神術は無いから、《時間》ではない。まぁ、彼女のは掟破りな神術なんだけれど…」
「早く言え」
ウェスが食い付く。
「わ、わかったよ。そんながっつかなくたって答えるからさ」
ククロはウェスから少し距離をおいて再び話し始めた。
「彼女の神術は《輪廻》だ」
「輪廻…」
ずっと知りたかった答え。しかし、ウェスはいまいちぱっとしない様子だった。
「わかってる? 輪廻だよ。りんね! ぐるぐる廻るどこに在るかも判らない不可思議な円。早い話、廻るものなら何でも操れると言ってもいい」
「廻るもの?」
「そう。車輪に歯車。体内の血液に魔力。食物連鎖に時間。生物の生き死にだってそうだ」
考えようによっては、この世の中は回っているものばかりだ。それ単品で始まりと終わりがあるものはそうそう見つからないだろう。
それら廻るものを全て操ることができたのなら、それは驚異以外の何物でもない。
「俺達が魔術を使えないことを知ってるかい?」
「ああ」
とはいっても彼がそれを知ったのはごく最近である。
「でも本当なのか?」
「本当も本当。ここで嘘をつく意味もない。彼女が魔術を使えるのは、魔力が世界を廻り、巡っているものだから。魔術として使用され、霧散して空気中に帰り、あらゆる場所を巡り、再び力を蓄え、マジックスポットから溢れ出す。ちゃんと廻っているだろ?」
ククロの言葉には不思議と説得力があり、ウェスは自然と頷いていた。
「他に聞きたいことはある?」
ウェスはククロの不審な言葉が気にかかっていた。
本人の自虐様から訊きにくい部分であったが、訊いておかなければならないところでもあった。
「あんたが使えなくなったモノっていうのは?」
ククロは不機嫌そうな表情になった。
「君もズケズケと訊くな。プライバシーって言葉知ってる? いや、まぁ、別にいいんだけど。ここも要説明な部分だし」
「すまん」
「謝んなよ。俺が惨めだ」
ウェスは無言で頭を下げる。
「えっと、つまり君は、僕の代わりが彼女であるところが気になっているんだろ?」
「ああ」
「《アレ》が欲しいのは彼女の力だけ。入れ物も固有名詞も関係ない。己が目的を果たすための道具に過ぎないんだ」
「《アレ》?」
「《アレ》はアレ。《あいつ》、《あの御方》、《クソッタレ》。言い方はいくらでもある。あー…」
ククロは両手で頭をかきむしった。
「もう遠慮は要らないな。《あんな奴》の束縛なんかもう関係無くなるってのに…」
かきむしったククロの髪の毛はボサボサになってしまったが、それも気にせず彼はぼやくように話す。
「いいか、ウェストール。確と聞け。君は最早無関係ではない。彼女を連れ帰った時点で君の行く道は決まった。惨めで情けない死か、瀕死でもぎ取る短い未来。そのどちらかだ」
「どっちにしろ死ぬと?」
「人はいずれ死ぬ。それが早いか遅いか」
当たり前のような正論でククロは言葉を返す。
「俺はデスティクとは違うからな。その辺の分岐がはっきりと解るわけじゃない。だが、俺は時間を操ることができた。曖昧にだが未来を見ることができたんだ。でもそこが限界。はっきりとした未来をつかむことはできなかった。運命は絶対に変わることはないんだ。変わったかどうかなんて誰にも分からない。デスティクにもフォトナにも。彼らは方向性を見ているに過ぎない。故に未来は一つだ。例え君がフェイリアと呼ばれる存在だろうと。運命に左右されず、あたかも君が運命をねじ曲げたように映るかもしれないが、実際のところ運命をねじ曲げるという運命の上を歩いているんだ。まぁ、深い意味はない。俺の持論だからな。聞き流してくれ」
「…やっぱりあんた達の話は抽象的でよくわからないな」
ウェスは肩を竦めた。
「ははは。俺達も意味が分かってないことが多いくらいだからな。…っと、話が逸れた。《アレ》の話の最中だったな。だが、その前に訊くことがある」
ククロは真剣な面持ちでウェスを見詰めた。息が詰まるくらい糞真面目な顔だった。
彼は横で垂れ流しになっている過去の映像を指差し、重々しく口を開いた。
「あの後、何が起こるか君は憶えているか?」
ウェスは過去の虚像を見る。
そこには打ち解けた様子の金髪の少女と過去の自分。
『俺はウェストール・ウルハインド』
『私はクルリ・クルル・クルジェス。よろしくね、ウェストール』
『ああ、よろしく頼むよ。クルリさん』
今とは呼び方が違うぎこちない二人。自己紹介を終えた彼等は、これから、協力をして遺跡を出ようという話をしていた。
「この後はしばらく遺跡をさ迷うことになるな。そして…出口まで……」
ウェスは首を傾げた。
「………」
何かがおかしい。
モヤモヤした黒い煙のようなものがウェスの記憶を不鮮明なものにする。
「どうかしたかい?」
ククロがウェスの顔を覗き込む。
滲み出るような汗をかき、呼吸も苦しそうで、瞳の焦点も定まらない。
ククロが見たウェスの顔は、先程までとはおよそ別人であった。
「なんだ、これ…は…」
並んで歩き始める虚像の方を見詰め、ウェスは譫言のように呟いている。
彼には分からなかった。
遺跡が危険であったのは確かだ。何度も危ない目に遭ったことも彼は記憶している。
しかし…、しかしだ。
何故あんなことになったのかが思い出せない。「仕事先でたまたまお前を見つけたんだ」。一年前、ウェスがクルリに初めて出会ったのはこの場所である。それは間違いない。
この状況からどうしてクルリを連れ帰らなければならなくなったのか。その部分の記憶のみ、すっぽりと抜け落ち、穴が開いたように、真っ黒な写真が連なるように、何も写し出さない。
「なんだ…。なんなんだ?!」
頭を抱え混乱するウェスを、ククロは冷たい瞳で見下ろしていた。
「どうする? この先を見るかい? 俺は時間の神様。ここから先をしばらくとばすこともできる」
「と、とばす…?」
「ああ。目を背けたまま進むことができる。だが、この先を知る機会はこの一回しかないということも同時に伝えておこう」
ウェスは唇を噛んだ。
鉄臭い味が彼の口の中に広がる。
「そんなもの…」
断れるわけがない。
「決まってる…」
今しかないのであれば、今を逃すのは救いようのない馬鹿。阿呆。臆病者。
「見、せろ」
捻り潰した蛙のような声。しかし、力のこもった声であった。
その言葉を聞くと、ククロの頬が緩んだ。
「わかった。…でも、いいんだな? 欠落した部分が決していいものとは限らない。むしろ、その逆の可能性の方が…」
「いいと言っている…」
汗も引いていない、呼吸も整っていない、視線も定まっていない。しかし、それらを捩じ伏せ、ウェスはククロを睨むように見上げた。
ウェスの狂気じみたその表情にククロは気圧されてたじろいだくらいだ。
「君は本当に大丈夫か?」
その形相は変わってはいなかったが、「大丈夫だ」と答えたウェスは先程までより幾分落ち着いてきてはいるようだった。
「そうか。それじゃあ心してかかるんだな。…ほら、言ってる間に《その時》だ」
***
それは全く記憶に無い光景だった。
それを理解するために、ウェスは吐き気を堪えながら、何度もその光景を反芻した。
ふわりと揺れる緑色の糸のようなもの。それはゆらゆらと漂いながら、ウェスの後ろで動きを止めた。勿論、過去の虚像の方だ。
それはやがて溶けるように空気中に消えたが、すぐに異変が起こった。
ようやく出口に辿り着き、喜んでいた二人。
そんなとき彼は腰に手をかけた。
そこにあるのは剣。
魔術を斬る剣。
彼が退魔の剣と呼んでいた代物。
「やめろ…」
何度も虚像に向かって叫んだ。
やめろやめろやめろ!
何度叫ぼうとも無意味であることは承知の上だったが、彼はそれを止めることができなかった。過ぎ去ったものであることも知っていたが、身を呈して止めようとした。
だがすべては無駄。
無情にも刃は振り下ろされ、少女の背中を斬りつけ、血飛沫が飛び散った。
「俺が…、クルリを…、…斬った…?」
目の前だった出口の外は、雨が降り始めていた。




