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第56話 流れる時間

流れるだけです。

 彼の見上げた空は真っ黒だった。

 いや、それは空なのだろうか。そもそも、上も下も彼には分からない。自分がどこを向いて何をしてどんな状況なのかも分からない。

「いい子に育ってね」

 聞こえた音。その音が何を意味しているのか彼には理解できない。

 ただ、その音はとても心地よく、とても安心することができた。優しく、体に染み渡るような音。

 ずっとその音に身を委ねていたかったが、それは長く続かなかった。


「こんなふざけた話があるか!!」


 とても恐い音。

 心の奥底から恐怖という恐怖が吹き出すような音。

 何か恐ろしいものがそこにある。いくつかの音が反響して噛み合わない音楽が流れているような、とても不快な気持ちになる。

「これを」

 優しい音とも、恐い音とも、また違う音が響いた。凛として、涼やかな鈴の音のような音。

「嘘をつき続けることができるなら、これを巻いてあげるといいわ」

 鈴の音が濁る。

 次の瞬間、フワリと暖かい何かが彼に巻き付いてきた。

 とても暖かくて、哀しくなるくらい、それは心地よいものだった。

「大丈夫」

「お前は絶対守るから」

 優しい音と、恐い…、今は恐くない音が彼の耳に届いた。


「おにいちゃん」


 また別の音。

 いや、声が彼を呼んでいる。

「おにいちゃん!」

 不意に彼の視界が開けた。

 少しチクチクする緑の上に彼は寝転がっていた。目の前には雲一つ無い真っ青な空。その手前に、可愛らしい女の子の顔があった。

「うわっ!?」

「イタッ!」

 驚いた彼が体を起こすと、頭に痛みが走った。体を起こした瞬間、女の子の額と彼の額がぶつかったのだ。

「お兄ちゃんのばかぁー!」

 女の子はわんわん泣きながら額を両手で押さえて何処かへ走っていってしまった。

 彼も額を押さえながら女の子の行く先を見る。

 そこには大きな人が二人。苦笑いしながら彼を見ていた。

『たよりはかぜにのりはこばれる。いかなるじゃまがあろうとも』

 女の子が掌を彼に向け何か口を動かしている。

 いけない。

 まずい。

 やばい。

 キケン。

 衝動的に彼はそう感じとり、その場から逃げるようにして走り出した。

『ふぉろーうぃんど!』

 彼の背中を後押しするような追い風。これでなんとか逃げ切れそうだ。彼はそう思った。しかし、風は徐々に威力を増し、突風となり、走っていた彼の体が僅かに浮き上がる。跳んだわけではない。彼の体が風に流されているだけなのだ。

 ついに彼は体勢を崩し、前のめりになる。そして顔面から下の緑に落下。


 …しなかった。


 彼はいつの間にか椅子に腰掛け、不真面目に前を眺めていた。手に持っているペンはずっと使われないまま、飼い殺しの状態であった。それは机の上に広げられたノートも同じだった。新品のように綺麗なページが、残念そうに彼の顔を見つめている。

「ここがわかる人!」

 そんな声がしたかと思うと、沢山の手がピンと真上に延びた。

 部屋の前に立っている若い女の後ろに、重要なところが抜けた文字列が並んでいる。

 彼は手を挙げない。手を挙げていないのは彼だけだった。

 分からないわけではない。分かっているから挙げなかった。分かっていることを他人に見せびらかすようなことをしたくなかった。分からないフリをしている方が楽なのだ。

「あんな簡単なの分からないの?」

「無理だって。こいつケンカは強いけど魔術の成績最低だもん」

 その通り。

 彼らの言葉に嘘偽りは無い。真っ直ぐに、正直に自分の思ったことを口にするのだ。真っ直ぐすぎるが故に己しか見えていないのだ。今の彼らに与えられた特権のようなものである。

「それになんで暑いのにマフラー巻いてんの?」

「実は首が無いとか?」

 他人の事を考えるようになったら最後。その特権は剥奪され、少しずつ曲がっていく。角度を変えて物事を見るためには己が曲がらなければならない。真っ直ぐなまま角度を変えたいのであれば、対象に曲がってもらうほかないだろう。それにはそれ相応の力が必要だ。彼らにそれは無い。だから真っ直ぐなのだ。

「あほくさ」

 彼はそう呟き立ち上がる。


「馬鹿もやすみやすみ言いなさい!」


 彼の目の前の女の人は怒っていた。

「家を出たい? まだ早すぎるわ!」

「君が何を思ってそう言っているのか分からないが、出ていきたいのなら相応の理由があるのだろう?」

 女の人の隣に居た男の人は、落ち着き払ってこそいるものの、口調には苛立ちがみられた。

「ただ漠然と。このままじゃいけない気がするから」

 彼は答える。

「理由になってないわ! ちゃんと本当の事を教えて!」

 女の人はますます声を張り上げた。

 本当のことも何も、彼の言葉は本心だ。本心をいくら告げても女の人は理解してくれない。

「君は本当に出ていきたいのかい?」

 彼は頷いた。

「ならば、その《漠然》という部分を別の言葉に代えてごらん?」

「………」

 漠然は漠然。それ以外なんの意味も持たない。

 眠たいから寝る、お腹が空いたから食べる。そんなニュアンスに似たものだったが、それを言葉にするとなると、適切なものが出てこない。

 男の人はため息をついた。

「それが言えなければ、君の申し出を許可することはできないね」

「…分かった」

 本当は分かっていない。二人の言葉を理解したわけでもない。何も分かっていない。分かりたくない。

 だからその夜、彼は窓から外に出たのだ。


「気が利くなぁ。いっそのことうちで働いてくれないか?」


 髭面の体格のいい男は羊を両脇に抱えながら言った。

「さあ、どうでしょうか。この先目的が見つからなければそれもいいかもしれませんね」

「そうかい。それじゃあ見つからないことを祈るとしようかな」

 髭面の男は冗談を言いながら笑った。

 彼も笑った。

「しかし、お前はいつでもマフラーをしてるな。セイスト地方は暑いわけじゃないが、それでもなぁ」

「いいんですよ。俺はこれが気に入ってますから」

「ほぉ、変わってるな」

「新手のファッションだと思えばなんてことないです」

「ほぅ、それは面白いな。羊の毛で俺も作ってみるか」

「旦那さんの体格だと、結構な毛が必要そうですね」

「言うようになったな、お前」

 髭面の男は心底楽しそうに笑っていた。


「なかなか筋がいいな」


 彼は思わず身構えた。

「そう警戒しないでくれ。俺はガリス・ガーランド。しがない賞金稼ぎさ」

 彼は怪訝な顔でその男を見つめた。

「こんな時間に剣術の練習か」

「………」

 彼は男を無視して再び剣を降る。ただし、警戒は解かずに。

「なぁ、お前、俺の相棒になってくれないか?」

「はぁ?」

「俺とお前はうまくやれる」

「何を根拠に?」

「直感だ」

「魔術も使えないような奴を仲間に入れても、足手まといになるだけだろ」

「ほぉ、お前は魔術が苦手か」

「使えない」

「それなら気にするな。俺も使えんからな!」

 ガリスは豪快に笑ってみせる。彼は拍子抜けしたような顔で男を見ていた。


「交換条件といこうか」


 彼は地面に突っ伏していた。

「こいつの命が惜しければ、その剣を地面に突き立てて十歩下がれ」

「イド! 貴様っ!」

「ガリス・ガーランド。君と僕は対等じゃない。わかるよな?」

「くっ…!」

「ガリスさん! 俺のことはいいで―ぷがっ!」

「黙ってろ糞ガキ」

 離せ。

 その汚い足を退けろ。

 あの人の足を引っ張りたくない!

 彼は何度も言葉にしようとしたが、奴がそれを許さない。

「分かった。だが約束だぞ。この剣とそいつを交換だ」

「ああ、僕も無益な殺生はしたくないからね」

 嘘だ。

 こいつの言葉を信用しちゃいけない。嘘なんだ。あれもこれも全部嘘なんだ。

 彼にはそれが分かっていた。

 なぜか知っていた。この後何が起こるのかも。彼の思い通りに人々が動く。それは彼の望まぬ未来。変えようの無い未来。変わること無い未来。それを知っている。

「ぐあっ!!」

 ガリスと呼ばれた男が死ぬということも。

 ガリスの突き立てたその剣が、起死回生の鍵になることも。

「ははっ! こうもうまくいくとはね!」

 倒れたガリスの後ろには浮遊している血塗られた短剣が一本。

「さて…」

 イドが剣を抜き取った。

 剣を舐め回すように見つめてニタリと笑う。

「こいつがあれば…!」

 奴の足が彼から離れた。

 これは好機だ。

 今しかない。

 今しか。

 今、やらないといけない。

「うわあぁぁぁぁぁぁ!」

 彼は走ってイドを突き飛ばした。呆気なく転んだ。

 転んで倒れた拍子に剣が奴の手を離れる。

 離れた剣は宙を舞い、弧を描きながら、そして地面に突き刺さった。

 奴の肉ごと。

「………心臓を、貫かれてる。し、死んだ?」

 イドからの反応はない。

 もう生きてはいまい。

 彼が剣を引き抜くと、まだ暖かい血液が吹き出した。赤はベタベタと広がり、地面に吸い込まれていく。

 彼は剣を携え、ガリスの下へ駆け寄った。

「運の…いい奴だな…」

「ガリスさん! 早く病院へ!」

「いい。残念だが…、はっ…、俺はここまで…ゴホッ、ゴホッ!」

 ガリスが咳き込むと赤い飛沫がその口から飛び出し、ゴポゴポと血が溢れてきた。

「その剣は、お前…やる…。短い付き合…だったが、お前…見てわ…かった。お前なら、俺よりうまぐ…、あづがえる…」

「ガリスさん!」

 既に息は無かった。

 ガリスは死んでいた。


「何暗い顔してんの?」


 彼が飲めない酒に手をつけていると、カウンター越しに彼と同年代の男が話しかけてきた。

「剣を持って一端の冒険者かな? しっかし、なんでマジそんな暗い顔してんの? 世を憂いているとかそんな馬鹿げたことは考えてないよな?」

 馴れ馴れしい奴だと、彼は顔を背けた。

「おお、その反応はご尤も。俺はレフってんだ。最近あんたをよく見かけるけど、飲めない酒を飲みに来てるわけじゃないだろ?」

 レフという男には彼が下戸だということがわかるらしい。

「あの掲示板が気になるか? あれは依頼を―」

「知ってる。以前はそんなことをやってたからな」

「へぇ、あんた賞金稼ぎか。でも《以前》ってことは今は?」

「今は休業中だ」

「いずれは復帰するのか?」

「未定だな」

「ならちょっといい話があるんだ」

「断る。うまい話は裏があるからな。それで、あの人は…」

「賞金稼ぎか賞金稼がなくてどうするんだよ。いいから聞くだけ聞け」

 彼はチビッとグラスに口をつけた。

「セイスト地方の西側に遺跡群があるのは知ってるか?」

 彼は首を横に振った。

「まぁ、それはどっちでもいいんだ。本題は、そこに探しきれていない財宝や歴史的遺産が残ってるらしい。なんでもいいからそれを見つけてきてくれという依頼さ。報償金は持ち帰ったものの価値の半分。期限は無期限。いつでもいいんだ。でかいものを引けば一気に金持ちだぜ?」

「…本当にうまい話だったな。期限を無期限にしている辺り、思うように進まないのを見越しているみたいだ。まぁ、大方その遺跡には罠やゴーレムなんかが数多く配置されてるんだろ」

 レフは頭を掻いた。

「やー、最初こそ大勢の賞金稼ぎが乗り込んだって話だが、帰ってくる数があからさまに少ないんだ。つぅわけで、誰も請けたがらないってわけ」

「だろうな」

「しっかし参ったな。依頼主がちょっとうちの店の都合上うるさい人でね。これ以上進展がないとなると、さすがにやばいなぁ…」

「分かった。請ける」

「は?」

 レフは目を丸くした。

「その依頼を請ける」

「い、いや、そんなつもりで言ったわけじゃ…」

「いい。なんとなくやってみようと思った」

「なんとなく、って…。死ぬかもしれないのに動機がそれでいいのかよ!?」

「死ぬわけないだろ」

「なにその自信」

「死ぬような依頼を突き付けたのはお前だろ。第一、賞金稼ぎってのはそんな仕事さ。いつどんな依頼で命を落とすとも限らない。依頼の情報も信頼性に欠けるものが多いからな。ひとつ間違えばあっという間だ」

「そのくらい俺も知ってるよ。帰ってこなかった奴等を何人も見てきた。だから見てりゃたいていわかるのさ。あいつはどうなる、とかな」

「俺も帰ってこないと思うか?」

「五分五分だね。帰ってくるようにも見えるし、帰ってこないようにも思える」

「役に立たない眼力だな」

「うるせぇ! …で、受けるなら受けるで手続きしてもらうけど?」

「ああ、分かった」

「取り合えず、あんたの名前は?」

「ウェストール・ウルハインド」

 彼はそう名乗った。


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