第55話 イド
高く上がった火柱を、ウェスは少し離れた場所から見上げていた。
北門で何かが起こっている。彼はその場所へと急いだ。
街中はまだ騒がしかったが、避難は順調に進んでいるようだった。リリアや王宮の兵士達の先導がうまくいっているのだろう。
周囲に誰も居ない夜。
何かに急かされ走った夜。
これが初めてではない。
ウェスはそんな風に感じていた。
頭のどこかで燻っている火に、脳味噌をじわじわと焼かれていくような感覚。
このままではよくないことが起こる。
どうしてか解らないが、ウェスにはそんな確信があった。故に彼は足を早める。
そんな確信が起こってしまう前に、何かできることがあるはずだと。
だが、何ができるのか。
あの巨大な人形に対して何ができるのか。
何かできるのか?
決意が疑問に変わる。
なぜ今自分はあれに立ち向かうことを考えているのか。
述べるなら、まさしく蟻対象。踏み潰されて死んでしまうのが落ちだろう。
なぜそんな相手に立ち向かう必要があるのか。
そもそも、ウェスの性格上、そんな無茶をすることは考えられなかった。
ふと足が止まる。
逃げてしまえばいい。
無謀と勇気は違う。
生きるために逃げるのだ。
それが最善だと誰もが思うだろう。
足が動いた。
北へ。
そう。
疑問を持つことは正しい。
だが、己が意志を曲げるほどのものではない。
「そこ行くの。止まれ」
いつの間にか周囲には自分しか居ない。
呼び止められているのが自分だと分かったウェスは足を止めた。
「そう。それでいい」
声はどこからか響いてくる。その主の姿は見えない。
「誰だ?」
当然の疑問を投げ掛けるウェス。
「忘れてしまったのかい? それもいい。だが、僕の所有物は返してほしいな。ウェストール・ウルハインド」
ウェスの脳裏を何かが掠める。
全てを見透かしたようなその口調。ずっと昔に聞いたひどく懐かしい声。ウェスの人生の中で、一番接した回数の少ない声。だからそう感じたのかもしれない。だが、その声の主がどんな姿をしていたのかまでは思い出せなかった。
ウェスは自分の腰に携えた剣を見た。
退魔の剣。
魔術を斬る剣。
それは人に譲ってもらったものだ。
「さあ、その剣を返してくれ」
「断る。姿を見せないような奴と話すことはない」
「…僕は、いつでも君を殺すことができる。分かるかい? 僕らは対等じゃないんだ。ウェストール・ウルハインド」
声の主はどこからかウェスの命を狙っているようだった。
剣の持ち主を主張するくらいだ。この剣が魔術を斬るということは知っているだろう。
相手がどこに居るかは確認できないが、放たれるのは魔術ではない。狙うのなら、もっと物理的、直接的な攻撃のはずだ。
「だけどね、僕も無益な殺生はあまり好きじゃないんだ。…交換条件はどうだい?」
「交換条件?」
「今の君にとって、その剣よりも惜しい情報を僕は持ってる。君の連れの、あの神様のね」
ウェスの眉がピクリと動く。
「…言ってみろ」
「剣をそこの地面に突き立てて十歩下がるんだ。話はそれからさ」
声の言う通り、ウェスは剣を地面に突き立て、後ずさるようにして十歩下がった。
そして暫く待ち、相手の出方を確認する。
「警戒しているようだね。…当然か。《あの時》もこんな風だった。まぁ、立場も状況も全く違ったけどね」
「《あの時》…?」
「その様子じゃ、僕のことは頭の片隅にも残っていないみたいだね。…いやいや、しょうもない昔話さ。忘れているならそれもいい」
「そんなことより…」
「ああ、そうだったね。君の大切な仲間。クルリ・クルル・クルジェス」
声は名前まで知っていた。
「彼女はセイスト地方へ向かったよ」
「なぜだ?」
「僕が彼女に教えたからさ」
「教えた? 一体何を」
「セイスト地方、モロク谷を越え、パームリースを通り過ぎ、山を三つ越えて、森を抜け、湖のその先に《悠久の国》があるってね」
「《悠久の国》…?」
「神様の国さ。君達が神様と呼ぶ者達が暮らす国。彼女はそこへ向かった」
何故?
ウェスはそう問いかけようとしてやめた。
決まっている。
彼女が向かったのは神様の国。彼女の手がかりが無いはずがない。
「悠久の国…」
「さて、これで交渉成立だね。その剣はいただくよ」
「ま、待て!」
「待つわけないだろう?」
地面に突き立てていた剣がフワリと浮き上がる。そしてフラフラと、ゆっくりとどこかへ向かって移動を始めた。
だが、剣は動きを止めたかと思うとカシャンと地面に落ちた。
ウェスは慌てて剣を拾いに向かうが、それより先に男が剣を拾い上げた。
その横にはいつの間にか人が倒れている。
「もう少し持つかと思ったが…、これで限界か。剣のひとつも持ってこられないとは…」
先程までの声。
その声の主はこの男のようだ。
ウェスより少し高いその男は、黒いマントを羽織っていた。黒い髪、目尻の下がった瞳、高い鼻に、切れ長の口。顔のパーツは各々が個性が強く、一見バランスが悪そうに思えるが、それでも顔立ちはきれいなものだった。
「剣は返してもらったよ。ウェストール・ウルハインド」
「あ、あんたは…」
「おや、僕の姿を見て思い出したかな?」
「イド…」
男の口が大きく裂ける。三日月状に開いた口は真っ赤で、とても気味が悪い。それは綺麗な顔立ちという印象を一瞬でぶち壊すほどだった。
「そうだよ。イド。それが僕の名だ。嬉しいねぇ。そう呼んでくれる者はもう君くらいかなぁ」
「でもお前はあの時!」
「あれくらいで僕が死ぬとでも?」
「確かに確認した。お前が死んでいるのを!」
「何を以て死と見なすのか、それは人次第。君の見誤りだ」
「く…」
「それからウェストール・ウルハインド。明確な《敵》の前では隙を見せない方がいいよ」
ウェスの体をイドの剣が貫く。
剣はすぐに引き抜かれ、赤い液体が噴水のように噴き出した。
「ぐふっ…」
「左胸。つまるところ心臓を突いた。…即死じゃないところを見ると、逸れたかな」
「イ…ド…」
「それにしても、よく溜め込んでくれたね」
イドは退魔の剣を惚れ惚れと見つめて呟く。
「これだけあれば十分だよ。あの方の復活はより近くなった」
ウェスは自分の血液と共に、身体中の力が抜けていくのがわかった。
これまで以上な寒さを感じ、彼の瞼は急に重くなる。
「ウェストール・ウルハインド。やっぱり君は邪魔なんだ。ここで退場願うよ」
薄れ行く意識の中、気味の悪い男の笑顔がウェスの頭に焼き付いて離れなかった。
***
「不様だな」
声がする。
「大丈夫。君の命はまだ途絶えていない」
話し声が聞こえるが、彼の脳は言葉を理解しない。
「その傷を癒すにはまだまだ時間が必要だ。けれど、それを待っているだけの時間は君に残されていない」
霞む視界に微かに映る人影。
誰だ。
彼の頭にそんな疑問が浮かぶが、すぐに暗闇に沈んで行く。
浮いては沈み、沈んでは浮かぶ。穴の空いた浮き輪のように不安定で、不安な…。意識は混迷したまま、彼は何者かの言葉を聞き流す。
「君に力を貸そう」
「………」
「無言と言うことは同意と受けとる」
何を言っているのか分からない。
「…ああ、申し遅れた。俺はククロ。ククロ・クルル・クロノス。言うなれば、時間の神様だ」
「……あ…ぅ…」
「応えなくていい。君はそのまま死なない程度にじっとしていてくれればいい」
ククロと名乗った人影はは一息置く。
「心臓付近を貫かれ、辛うじて命はあるものの、瀕死、もしくは死ぬ直前。戦闘不能なんてレベルじゃない。先に待つのは本当の死だ。だが幸いにも俺が君を見つけた。君は幸運だ。俺が君の死までの時間を止めてやろう。その間に傷を癒すといい。…まぁ、その傷が癒えるまでは一年、いや、それ以上の時間が必要かもしれない。けれど最初に言った通り、君には時間が無い。刻一刻と時は刻まれ、無情にも流れていく。俺はその時間を止めることができる。時間の神様だからね。さてと…、話している時間も惜しい。君にとっては長時間。他の者にとっては一瞬。今と未来の狭間へ、ようこそウェストール。君の命は一時俺が預かろう。君にはクルリを助けてもらわないといけないからね」
「…う…、く、る…」
「あいつが望んでいるんだ。君に助けてほしいと」
周囲が青い光に包まれる。
「一年は退屈だろう。だがこれまでの君を見返すいい機会になる。そのきっかけを与えてやる。いいな。そこで何を掴むかはお前次第だ」
光はその強さを増し、すべてを青に染めていった。
「お前にしかできないんだ。ウェストール」
そして何も見えなくなった。
「あいつを、頼む…」
最後のククロの声は少し掠れていた。