プロローグ
よくあるファンタジーものです。ゆっくり生暖かい目で見守ってください。
強い雨は男の体を叩き続けていた。自慢の青いマフラーもぐっしょりと濡れてしまっている。しかし、男はそんなことも気にせず走っていた。地面は相当ぬかるんでいて、踏み締める度、グニュリと気持ちの悪い感触が彼の足を絡め取ろうとする。それでも彼は走らなければならないのだ。腕に抱えたその少女を助けるために。
「先生!」
扉が開くと、叫ぶ声と湿った空気が共に部屋を満たした。
その声が届いたのか部屋の奥から初老の男性が現れた。
「マルコー先生! 大変なんです!」
マルコーと呼ばれたその初老の男性は目を丸くし随分驚いた表情で、ずぶ濡れの男を見ていた。
「なんだい、ウェストール。今日の診察はもうとっくに終わったよ?」
「この子を今すぐ見てやってください! かなり衰弱しているんです!」
ウェストールと呼ばれたずぶ濡れの男は捲し立てるように言うと、抱えていた少女をマルコーの前に差し出した。
再び驚いた顔をしたマルコーは、慌ててウェストールを奥の診察室に案内した。少女をゆっくりベッドに置く。医師であるマルコーには少女はかなり危険な状態だということがすぐにわかった。
「この子は私が診よう。しかし、ウェストールお前もずぶ濡れだ。隣の部屋で身体を乾かしなさい」
「ありがとうございます」
ウェストールは深々と頭を下げた。
マルコー医師に言われた通りウェストールは診察室の隣の部屋に入った。そこにはマルコー夫人が大きなタオルを持って待っていた。
「さぁ、これで身体を拭いて」
「すみません」
タオルを受けとると、ウェストールは頭の水分をわしわしと拭き取った。
「何か暖かい飲み物を出すわね」
「ありがとうございます」
身体を一通り拭き終えると、ウェストールはテーブルの横に置いてあった椅子に腰かけた。
そしてあの少女のことを考えた。名も知らない少女。たまたま仕事先で見つけたのだが、その時すでに相当衰弱している様子だった。けれど、マルコー先生に任せればとりあえず大丈夫だろう。
そしてまた別の事が頭を過る。緊急事態だったとはいえ仕事をほったらかしてきてしまった。依頼主に謝らなければならない。正直言ってかなり面倒くさいが、信頼を落としたとなると頭が痛い。
「コーヒーでよかったかしら?」
マルコー夫人がコーヒーの入ったカップを持って現れた。
「ええ、いただきます」
ウェストールはカップを受けとると少しコーヒーを啜った。
苦い。
カップを置き、砂糖を入れようとしたその時。
「ウェストール! ちょっと来なさい!」
隣の部屋からマルコー医師の叫ぶ声が聞こえた。
何かあったのだろうか。疑問に思いながらウェストールは診察室へと向かった。
診察室のドアは開ける前に内側から勢い良く開いた。ウェストールが驚いていると、中から物凄い形相のマルコー医師が現れた。
「お前は一体何を拾ってきたんだ!?」
「拾ってきたって…」
連れてきたのは瀕死の少女。それをまるで物のように言うマルコー医師の態度にウェストールは顔をしかめた。彼の知っているマルコー医師は優しい人だ。相手が人だろうと動物だろうと分け隔てなく接することのできる名医。少なくともウェストールはそう思っていた。
「…すまない。言い方が悪かった。ただ、少し混乱してしまってな」
マルコー医師は額を押さえた。
「とにかく中に入ってくれ」
促されるままウェストールはマルコー医師の後についていく。
ベッドにはうつ伏せに寝かされた少女が横たわっていた。
「背中の傷が一番酷かった。何か鋭利なもので切り裂かれていたんだ」
「……なんでこんな」
今は縫い合わされているが、痛々しい傷跡が少女の背中に刻まれていた。
「だが、見る所はそこじゃない。傷の縫合が終わった途端こいつが姿を表した。お前には何に見える?」
少女の背中に丸い、幾何学模様が見える。
「これは…、《聖印》?」
「恐らくな。歴史書で見たものと同じだ。王都に居る《占いの神様》にもこれと同じものがあると言うが…」
「は、ははっ、まさかこの子が《神様》だとでも言うんですか?」
「さあな。真実はこの子が目覚めたときに訊ねるしかないだろう」
ウェストールは複雑な気持ちだった。あの場所に少女を残していけば必ず命を落としていた。そんなことできない。しかし、助けたこの少女は神様かもしれないという。
どうやらとんでもないものを助けてしまったようだ。
後悔ともとれる気持ちを胸に、ウェストールは助けた少女をただ眺めることしかできなかった。