EP 9
私は心を決めてぐいいぃと差し出すが、なかなか受け取ってもらえない。社長はすごく驚いていて、取り乱している。当たり前か。前触れもなく、即辞表なんだから。
「すみません。一身上の都合ですが……」
「こここ恋人契約ってのが嫌だった? 押し付けってかパワハラになってた?」
「いえ、これはもう私の心の問題で」
「やめる。わかった、恋人契約はやめるから。秘書は続けて欲しい。頼むよ」
「他にも優秀なお方が……」
「いないよ!!」
驚いた。大きな否定。もしかしたら私、なかなか評価されていた?
「千景みたいに仕事ができる人はいない。俺、千景が辞めたら困っちゃうよ。考え直して欲しい」
「ですが……」
「それに辞めたらどうやって食べてくの?」
確かに。
私は辞表を握り締める。私の気持ちはぐらぐらに揺らいでいた。辛くなったら辞めればいい、そう思ってバカみたいな恋人ごっこを引き受けてしまったけど。
よくよく考えてみれば、困ったことになってしまったのだ。
それは週休1日という勤務形態。迂闊だった。
これではもう『推し活』にかなり響いてきて、制限がかかってしまうこととなる。
(週に1回しか活動ができないだなんて……トーマくんんんん!)
最初『推し活』の総時間が減ってしまうのは仕方がない、多少は諦めよう、その代わり、クオリティを上げていこう♡
そう思っていた。けれど、先日。驚くべきことに同じVチューバーアイドルグループのユヅくんが引退を発表したのだ。
ハッとした。想像してみ?
『推し活』を制限されたその間に、トーマくんがいんた……いん、いんた……(←言葉にしたくない)でもしたら……。
これは取り返しのつかないことになるぅぅう!
そんなわけで、この辞表だ。
けれど、社長が全力で引き止めてくれた。それと同時に、頬を引っ叩かれたような世間の厳しさを見せてくれた。
そう。
働かざる者は食うべからず。確かに貯金はあるが、それも直ぐに底をつきるだろう。
「……わかりました。もう少し考えてみます」
辞表を折りたたみ、そしてスーツのポケットに入れ、社長室を後にした。
*
「嘘だろおい……」
しばらくは放心状態だった。
「そんなに俺の恋人役、嫌だったんだ……仮だぞ? 仮だぞ? そんな嫌だったのか……仮なのに」
辞表を出すほど……。秘書を辞めるほど……。
「なんとか引き止めたけど、」
胸が苦しくなってくる。ショックだった。
確かに千景を振り回している自覚はある。けれど、それは仕事上のことだけだから大丈夫だろうと、踏んでいた。
(ちゃんと18時には終わって、家へ帰しているし、それに……)
時々ランチを奢ったりしている。
けれど、それだけでは駄目だったのだ。
「千景は……俺から離れても平気なのか……」
直ぐに辞表を出せるということが、好かれていない証拠なのかもしれない。