EP 5
私は以前、この会社の普通の社員の一人だった。
イケメン社長とは廊下ですれ違う程度、しかも頭を下げて視線を合わせないようにしていたから、当初なぜ声を掛けられたかわからなかった。
「谷口千景さん、俺の秘書になってくれない? キミの記憶力は素晴らしいよ。仕事も早いし、ほとんどミスがないと聞いている」
総務を3年務めた。そして秘書の仕事を承諾し、そろそろ1年になる。
ただ。この1年秘書として働き、なぜ私が選ばれたかがわかった気がする。
要は、見た目が地味だから。女性とのお付き合いを邪魔しない、ということだ。
添え物でさえない。和食で言えば漬け物、いや箸置き、いや割り箸の箸袋の存在ですらない。となるともう爪楊枝??
(坂下様とのお食事の日も、秘書だと名乗るまで、範疇外だったもんな)
昼休憩のトイレ。鏡に映る自分を見つめる。髪は黒髪のまま後ろにしばってひとつにまとめているし、化粧も最低限、そしてこの黒ぶちメガネ。
地味。存在感なし。空気。鼻は低いし、目も一重、髪も天然おまかせウェーブ。
水道を出して手を洗う。飾り気のない爪に、指輪のひとつさえない。
(だからこそ仕事くらいプライドもって頑張らないと)
ついさっきのやり取りが思い出される。
社長からの提案に衝撃を受けた。
「だからさ、これ以上蛙化をどうにかしようってのも、キツイものがあると思うんだ。そこで千景、折りいって相談があるんだが。セクハラと取らないで欲しいんだけど、キミ確か恋人いなかったよね?」
はあ、彼氏いない歴26年ですがなにか?
「まあ……はい」
「だからさ、俺の蛙化を治すために、俺の恋人になってくれない?」
一瞬フリーズ。
「はい?」
「協力してよ、このままじゃ俺、一生結婚できないから」
「え?」
「特別給料払うから。ボーナス出すから」
「いくらです?」(←直球)
「カエル治ったら100万出す」
「やります」
こりゃ即答の案件。仕事内容を確認することもなく了承してしまった。こうもわかりやすくお金に釣られてしまうとは。
「千景、おまえなら大丈夫だと思う。今まで秘書と上司の立場だったけど、特にカエル化とか、冷めて嫌になったとかはなかったからね」
「でも治るんですかね。ってか完治するんでしょうか。どうなったらゴールなんです?」
「そりゃ俺がひとりの女性と愛し合うまでだ」
ひとり? でいいの? 今までの女性遍歴からいけば、あり得ない話だが。この社長なら、「ハーレムができるまで」でもおかしくない気が……。
ひとりと聞いて、逆に訝しんでしまう。
「……やっぱやめます」
「もう遅い。言質取ったから」
そう言って、スマホのボイスレコーダーを見せてくる。いつのまに録音? 用意周到!
こういうすかさずのところが、業界ではスピード感ある切れ者と呼ばれているのだが、怖い怖い。
「……わかりました」
「じゃあ契約成立な。仮恋愛ってことで。はい。ここにサインして」
一生の不覚だが仕方ない。これはもう仕事(100万円)だと思って、真摯に仕えるしかない。無になって。心を仏にして。いや、鬼にして、か。
私はトイレの鏡を見直し、髪の後れ毛を整える。
「もし嫌になったら辞表書けばいっか! よしっ!」
気合いを入れて、トイレを後にした。