1:他校のエースにからまれる
構成を見直して加筆修正しました。
それは忘れもしない、五月の高校バスケ関東大会予選でのことだった。
「ちっちゃ」
対戦したばかりの、さらに言うならば俺達晃河高校を接戦の末負かせたばかりの相陸高校の橘優星はコートですれ違いざまにそう呟いた。咄嗟に殴らなかった俺は褒められていいと思う。
身長193センチからすれば、163センチなんて小人だろう。それは認める。覆しようがない事実であり、現実だ。だけど、それを本人に聞こえる距離で言うか?しかも試合に負けて悔しがってる相手に追い打ちをかけるみたいに言うか?しかもしかも、俺とお前って試合では何度か顔を合わせたことあるけど話すのはこれが初めてだよな?初めての会話がそれ?俺の中で橘が『他校のエースSG』から『デリカシーがない巨人』になった瞬間だった。
もともと俺は橘には好意的だった。他校だけど、バスケ強豪校の相陸で1年からレギュラー入りをした実力に嘘はない。いついかなる時でも正確にボールをゴールネットに潜らせる技術は橘が日々努力をしている証拠だろう。ロングシュートを決めるあいつのフォームは、敵ながら見惚れる美しさがある。加えて190センチを超える長身にモデルばりの整った顔という、天は何物を与えてるんだと不平等感満載のステータスに敵視をする男子は多いけど、俺はあいつのバスケへの姿勢と実力を、純粋に尊敬してさえいた。
なのに、だ。
なのに、あの、デリカシーのない人のコンプレックスを抉る、最低の一言。
俺の橘への意識は180度ひっくり返った。真っ逆さまに地に落ちた。はい、最悪。
「チビが悪いかよ」
猫みたい、とよく言われるつり上がり気味の目に最大限の怒りを込めて、30センチ上を睨めつける。反論されないと思っていたのか、橘の垂れ目が驚いたように見開かれた。チームメイトに聞かされた余談だが、この垂れ目がイイ具合に色っぽいと女子に人気らしい。知るかそんなこと。
「あ」
橘の口が間抜けに開く。そこから出てくる言葉を待つつもりはない。俺は橘から顔を背けてコートを出た。垂らしたままだった汗が不必要にデカい目に入って痛みを感じ、リストバンドで乱暴に拭った。
「あー、クソ!」
「荒れてんじゃん、颯真」
「そりゃ荒れんだろ、1点差だぞ」
「橘のシュートえぐい」
「そうじゃない!いやそれもあるけど!」
「なんだよ」
「あいつ、俺に『ちっちゃ』って言いやがった!」
「あいつって?」
「橘!」
「マジか」
「颯真の地雷じゃん」
「そりゃキレるわ」
「あー!腹立つ!!」
俺はベンチに置いてたタオルを頭から被って視界を遮った。もちろん、橘を視界の端にさえ映さないためだ。
チームで連れ立って控室に戻って、監督から労いの言葉と反省点、次回に向けた激励をもらった後、簡単に部員主体の反省会を行って解散になる。
「俺この後の試合観てくわ」
「俺はパス」
「俺も帰るー。ラーメン食いたい」
「一緒に行く!大盛り!」
「颯真はどーする?」
「家帰る」
「え〜、ラーメン食いに行こうぜ」
「今ラーメンの気分じゃねえの」
俺はラーメンコールを振り切って一人で家に帰る途中、寄り道したコンビニで牛乳を買って、帰宅してすぐにそれを一気に飲み干した。
*
家の近所にある公園にはバスケットボールのゴールが一つある。コートがあるわけでもなく、二つあるわけでもなく、ただ一つだけ、遊具から離れた端にぽつんと佇んでいる。まるで存在感がないので使う人も少なくて、家のおもちゃのゴールが小さくなってからは、ここが俺の個人練習場所になっていた。
試合会場から帰ってきて、牛乳を一気飲みして、ベッドでふて寝して、夕飯食べて、――無性にバスケがしたくなって、外灯の下、俺はまた年季の入ったゴール相手に一人でシュートを打っている。
人気のない夜の公園に響くドリブルの音、靴が砂を踏みしめる音、ボールがリングに弾かれる音、あえなく外れたボールが情けなく地面に転がる音、それらを聞いて、俺は立ち尽くす。
身長はバスケで活躍するために必要な要素だ。俺の身長は去年から2センチしか伸びず、163センチしかない。同じ調子で成長したとして、一年後には165センチ。はっきり言って、バスケ界ではチビの部類だ。そしてこの欠点は努力で改善は見込めない。悪足掻きに毎日牛乳を飲んでるが、効果は微々たるものだろう。
身長で勝負に勝てない。それでもバスケで戦いたい俺は、努力でどうにかなる要素、スピードとテクニックを極めることにした。努力が報われて、今では二年にしてレギュラーを獲得するに至った。チビでも戦える。自分を見下ろす巨体達をテクニックで翻弄して、スピードで抜き去る瞬間が、俺に自信を植え付ける。身長差なんて努力で乗り越えられる。それを信条にしている俺に、俺にあいつは……
『ちっちゃ』
「それは!俺が!誰よりもわかってるっつーの!」
マジで失礼。マジでデリカシーゼロ。つか人の心ゼロ。同じ高校じゃなくてよかった。絶対友達になりたくない。
物思いから我に返って、転がっていたボールを目で探す。砂に塗れたボールは外灯の灯りがギリギリ届く場所で静止していた。俺は取りに行こうと一歩踏み出して、ボールの向こう、夜の暗がりに潜んでいる気配にぎくりと動きを止めた。
「……どうも」
「……は?」
歯切れの悪い挨拶に、愛想のない返答。俺は目の前の現実が受け入れがたくて、目を擦った。改めて目を開いてみても、そこにはやっぱり橘優星が立っていた。
「は?」
今度は若干怒りが混じった一言になってしまったけれど、橘はいたって普通の顔をしたまま俺のボールを拾い上げた。
「今日はごめん」
思いがけない再会に身構えてた俺は、橘の静かな謝罪に肩透かしを食らった。予想外の展開に二の句が継げない俺の前で橘が立ち止まる。
「あんな失礼なこと言ってごめん」
失礼ってわかってたのかよ。
「まさか口に出てると思わなくて」
その言い回しもビミョーに失礼な気がしたけど、頭ん中で思う分には自由だから俺は口を挟まなかった。
「嫌な思いさせたよな」
「めちゃくちゃな」
俺が不機嫌に肯定すると橘はグッと眉間に皺を寄せた。
「ごめん」
橘は試合中に見るような真剣な眼差しで俺を見据えている。俺もしばらく高い位置にある橘の目を睨みつけてたけど、やがて溜息を吐いて区切りをつけた。
「いいよ、もう」
「……ほんとに?」
「三回も謝られたし」
「ほんとにごめん」
「四回目」
呆れた口ぶりで言うも、俺はすぐに耐えきれなくなって笑い声を漏らしてしまった。
「ふはっ、お前何回謝るんだよ」
俺は橘からボールを受け取った。緩くドリブルをする。
「言っとくけど、身長の話題は地雷だから、俺」
「だよな」
「だよなって納得されんのもイヤ」
「あ」
「冗談だよ。本気で困るなって」
俺が笑うと、橘も笑った。真顔もイケメンだけど笑うとさらにイケメンだった。
「俺、橘優星」
何回か試合で一緒になったし、橘はこの辺りのバスケ部の間じゃ有名だったから、名前なんてとっくに知っている。今更すぎる自己紹介だったけど、考えてみれば喋ったのは今日が初めてだし、形式的にしといた方がいいかと思って俺も名乗ることにした。
「中野颯真」
名前の交換をして、ちょっとだけ沈黙が過った。
橘が頭を掻いてからポケットを漁りだした。取り出されたのはスマホだった。
「これ、うちの猫」
脈絡なさすぎない?なんで唐突に猫?会話ヘタクソか?……とツッコミどころ満載だったが、猫に罪はない。俺は差し出された橘のスマホを覗き込んだ。そこには薄茶色の縞模様の毛並みに、クリッとした勝ち気そうな黄色い目をした猫が澄ました顔で映っていた。正直カワイイ。撫でたい。
「颯真のこと、うちの猫と似てるなって前から思ってて」
え、下の名前呼びなの?別に減るもんじゃないしいいけど。いいけどさ?
「それで今日すれ違った時にもそれ思い出して。うちの猫みたいにちっちゃくてすばしっこくて目が大きくてカワイイなーって思ってたら口に出てて自分でもビビった」
「へー」
カワイイとかいう単語が聞こえた気がしたけど、俺はスルーを決め込んだ。あれ、橘って天然?バスケしてる姿しか知らないからこいつの人となりが全くわからない。プレースタイルとか見た目から取っつきにくいクールキャラなんかなと思ってたけど、こうして話してみると意外と気さくだ。
「つまり、……悪い意味の『ちっちゃ』じゃないから」
橘は長々とした言い分をそう締め括った。俺は「うん」と短く納得を示した。橘は途端に安心したように表情を緩めた。女子が目撃したら卒倒しそうな威力がある微笑みである。
「っていうか、なんでお前ここにいるの?」
俺はようやく根本的な疑問を口にした。
橘は学校のジャージではなくフード付きのスウェットを着ている。どう見ても私服だ。
「そこの道、俺のランニングコースなんだ」
橘は公園横の道に視線をやった。
「え、じゃあ家この辺なの?」
「いや、ちょっと離れてる。……冬くらいからこっちまで走るようになって、時々、颯真がここで練習してるの何回か見たことあったんだ。それで、もしかしたら今日もいるかもって」
「マジか。全然気づかなかった。お前デカくて目立つのに」
「颯真いつも練習に集中してるからな。……あのさ」
橘が言いかけた時、俺のスマホが震え出した。ごめん、と断ってポケットから取り出す。画面には『斗真』の文字が表示されていた。
「もしもし。……まだ公園。……うん、わかったわかった。もう帰るよ。いや、迎えにこなくていいから。すぐそこじゃん。玄関の鍵だけ開けといて。……はーい」
「……」
「弟から催促きたから帰るよ」
「ああ……」
俺はベンチに預けておいたタオルやらペットボトルやらの荷物を急いでかき集めた。公園の出口に向かいながら橘を振り返る。
「わざわざ謝りにきてくれてありがとな。また試合で」
「颯真」
「ん?」
「……おやすみ」
「あ、うん。おやすみ」
橘に見送られて、俺は公園を後にした。数メートル走って金網越しにもう一度振り返る。橘と目が合った、気がした。外灯に照らされた長身が小さく手を振ってきたから俺も軽く片手を上げた。
今日の試合が終わるまでただの他校のエースだった男と、半日の間に喧嘩して、仲直りして、自己紹介し合った。目まぐるしくて奇妙な一日が終わった。明日からはまた部活に打ち込む平凡な日々の始まりだ。布団の中で目を瞑った俺はそう信じてやまなかったけど、たぶんそれは、盛大なフラグだった。