ディープレッドの飲み方
自分も何か物語を作ってみたいと思い、なんとか筆を進ませて書いた物です。
慣れない事をしているので、粗が目立つと思いますが、暖かい目で見守って下さると大変ありがたいです。
胸が苦しい。息が切れそうだ。
必死に両腕と足を動かして、夜の路地裏を走っていく。
「ハッ…!ハッ…! ふっ、は..!」
“アレ”を見て走り出してからまだ数十秒しか経っていない筈なのに、すでに心臓は数分間全速力で走ったかのような鼓動を打っていた。
それが、日々の運動不足による物なのか、“アレ”を見た結果による動悸なのかは分からないが。
(どちらにしろ、早く...!人がいるところに...!)
そんな邪魔な思考は振り払って、走るのに専念してただ前を向き懸命に薄暗い路地裏から出ようとする。
それが幸いしてか、目の前に街灯の明かりが見えてきた。
確かこの辺りにはコンビニがあった筈で、助けを呼べると安堵の表情を浮かべそうになる。
うるさいほどの鼓動が鳴る中、僕の脳内はまるで走馬灯のように、僕の人生を振り返っていた。
「なぁ、清。これから飲み行かね?」
大学の教室の中、家に帰る支度をしていると知り合い数人に囲まれて遊びの誘いをされた。
少しだけ挙動不審になりながらも、震える声でなんとか返答する。
「あ、ああ。ごめん。 僕、これから用事があるから早く帰らないといけないんだ」
「マジ? 前もそうじゃ無かったー? 付き合いワリーなお前」
頭を金髪に染めたチャラそうなクラスメイトは、僕が行く気がないことが分かると周囲の取り巻きを引き連れて教室から出て行った。
「...はぁ。 申し訳、ないな」
用事何て物はなく、ただ人とコミュニケーションを取るのが苦手で、それで飲み会だとかを避けるために嘘をついた自分に落ち込む。
僕の名前は崎守 清。大学生になったばっかりの冴えない男で、人の輪に上手く入れない俗に言うコミュ症だ。
また誰かに絡まれる前にさっさと帰ってしまおうと、慌てて荷物を纏めて教室から出ていく。
(...まぁ、声を掛けられるほど仲のいい人なんて、いないんだけど)
そんな陰キャな僕に声を掛けてくれたあの金髪の人に、心の中で改めて謝りながらそそくさと大学からも出ていった。
「...なんで僕、こんなになっちゃったんだろう」
とぼとぼと家に向かう帰り道、先程のことで意外と心労があったのか独り言をぽつりぽつりと呟いてしまっていた。
思い返すと子供の頃からそうだった。
内向的な性格で、通知表にはいつも「もう少し周りと関わってみましょう」と書かれていて、休みの時間は基本一人で過ごしていた。
そんな僕に友達だなんて出来る訳がなくて、無視されてるわけでもいじめられてるわけでもなく、ただあんまりクラスメイトと関わらない日々を送っていた。
ある日、先生が転校生を連れて来た。
少し目線が強い男の子で、親の転勤と共にこの学校に転校して来たらしい。
ちょうど、空いてる席は僕の隣だったもんで、その子は僕の隣に座る事になった。
最初は僕が避けているせいで、上手く話せず、ぎくしゃくした会話ばかりしていたが、一緒に授業を受けていくに連れて、段々と、本当に少しずつ、その子と会話が出来るようになっていった。
『なぁ、ここってどう言う意味だっけ...?』
『えっと、確か教科書の67ページに...』
隣同士になった僕たちは授業中も、こそこそと会話しあったりしていて、何気ないそんな会話が僕に取っては宝物のように輝いていた。
中学に上がっても一緒の学校に上がる事になり、クラスは違ったが、ずっと友達だぞとお互いに約束をして、僕は中学生になった。
その子と会話することで僕の人を避ける性格も段々と鳴りを潜めて、不安だった新しい友達作りも意外とすんなり出来てしまって、これから楽しいことばかりが待っている、そんな思いが芽生えていた。
「オメー、おっせんだよ!! 早く鞄持ってこいよ」
過去を思い出している最中、近くで聞こえた大声で強制的に意識が現実へと戻される。
声がした方を向いてみると、気の強そうな小学生達が大量のランドセルを抱えた子に文句を言っている様子だった。
「ご、ごめんケンタ君... 僕、足遅くって...」
「早く鞄持ってこねーとまた殴るぞ!」
「な、殴るのはやめて... 早く、持ってくから...」
そう言うがランドセルを抱えた子はふらふらと遅い足取りのままで、ケンタと呼ばれた子は苛立っているのが目に見えてわかった。
(...いじめ、だよな)
少し離れた位置にいる僕は並々ならぬ雰囲気に眉を潜めてそれを見ていた。
遊びの一環で罰ゲームをしている、そんな朗らかな空気ではなく、『殴る』と言ったようにあからさまな上下関係ができているようだ。
「ッチ。 マジお前使えねー。俺たち明日から無視してやってもいいんだぞ?友達やめちまうぞー」
「ご、ごめんね...! 僕、ノロマでグズで... ケンタ君に迷惑ばっかり掛けちゃって...」
「謝ればいいってもんじゃねーんだよ!」
卑屈そうに謝罪をしているランドセルの子に、ケンタは拳を振りかぶり、殴り掛かった。
「やめっ...」
それを見た僕は慌てて声を上げて、止めようと足を踏み出す。
が、脳裏に『僕が行って何になる?』と誰かが囁く。
瞬間、冷や汗が噴き出して足が止まってしまう。
ボゴッ、と殴られたランドセルの子は、抱えた大量のランドセルと共に地面に倒れ込み、土や砂で体を汚す。
「あっ!キッタネー!」
「俺のランドセル汚すなよ!!」
「やっぱ使えねー」
ケンタの周りいる取り巻き達は口々にランドセルの子に文句を言い始め、呆れたような顔で地面に落ちている各々のランドセルを拾い上げた。
「...明日からお前のこと無視するから。 話しかけたりしたらボコボコに殴るから覚悟しろよ」
ケンタも同様にランドセルを拾いあげて、冷たい表情で吐き捨てる。
ランドセルを持って先に行く取り巻き達のところに行けば、先程のいじめっ子としての雰囲気はなくなり、打って変わって朗らかな笑顔で小学生らしい会話をし始めた。
ランドセルの子は、地面に倒れたままぼうっとしている。
そんな様子に、遠巻きで見ていた僕は、ようやく動き出して恐る恐る彼に近寄って声を掛けた。
「...あの、君 だいじょう、ぶ...?」
「...! え、あ見てた...んですか...?」
僕の声に反応してその子は慌てて視線を僕の方へと向けて、驚いたような顔をしたが、すぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。
「う、ん... その」
「...なんでもないです。ごめんなさい」
それに僕が何か言おうと口を開くが、その子は足早に僕から去ろうと、急いで立ち上がり足を動かしていた。
「えっ、ちょっと」
同じように僕が何かを言う前に、その子は振り返って一言呟いた。
「...見ていたんだったら、なんで助けてくれなかったんですか」
その子はケンタと言う子に絡まれている時より辛い表情をしていた。
「見ないふりするんだったら、最後まで見ないふりをしてください。...さようなら」
そう呟く彼に僕はついぞ何も言えないまま、その背中が見えなくなるまで見送った。
僕は太陽が落ちる時間まで、一歩もその場から動けなかった。
中学生の時、僕の友達は、いじめを切っ掛けに自殺した。
最初はクラスに馴染めなかったせいで、周囲のクラスメイトととの関係がギクシャクしてしまい、その結果いじめに発展したそうだ。
だけれど、いじめを受けていた時期のはずに何回も出会い、遊んでいたはずなのに彼はそれを打ち明けることはなく、僕がいじめの事実を知ったかなり後のことだった。
「...また、僕は」
帰り道、静かに呟く。
(また...いじめを)
先程のランドセルの子のことを思い返す。殴られようとした時、止めようと声を出そうとしたが、結局は何も出来ずにそれを眺めていただけの自分が、本当に嫌いになる。
そして、それに『助けようとした』と言い訳して罪悪感を減らそうとしている事にも。
「...」
(どうやったって、僕のこの腐った性格は変わらないんだ...)
そんな風に思っている時だった。
その場をつん裂くような悲鳴が、辺りに轟いた。
「!?」
うじうじと卑屈になっていた僕の背筋は張り、何事かと周囲の状況を確かめる。
既に日は落ちて暗い街道の、細い横道からその悲鳴が聞こえた。
「ど、どうしよう...」
周りには人がおらず、もし悲鳴の主が危険な状況であれば、助けられるのは僕しかいない。
「け、警察...」
警察に電話しようと携帯に手を伸ばすが、響いた悲鳴は尋常ではなく、連絡したとて間に合わないと言う予感が頭をよぎる。
決断しないといけない。そう、僕は思った。
その時だった。
明かりが無い薄暗い路地裏を考え事をしながら走っていたのがいけなかった。
横に備えてあったゴミ箱に足を引っ掛けて、バランスを崩し転げてしまう。
大きな音を立てながら、盛大に地面に突っ伏した僕は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
少し呆けて過去から現実に戻った僕が『転んでしまった』と気づく頃には、後ろから足音が近づいていた。
いや、それを足音として表現していいのだろうか。
けれどネチャ、ネチャと粘液性の物が地面をのたうつ音は”アレ“が僕に向かって移動していることに他ならない。
僕の後ろに迫っている存在は、怪物としか表現できない粘液だった。
黒く、黒く、見つめれば飲み込まれそうな体に十数個の目が不規則に移動していて、足や手と思われる部位は粘液性の体が身震いする度に現れては消えたりを繰り返している。
大きさは有に3mを超えていただろう。その大きさに見合った口がついており、今まさに”食事中“だ。
「あ、ああ... ああ...!!」
ただ動けずに情けない声を上げることしかできない。
顔は鏡を確認するまでもなく青く血の気の引いた怯えた表情をしているに違いない。
立ちあがろうと足を動かし、懸命にもがくが体に起きる震えがその行動を地面にのたうつ無意味なものにしていた。
『ボリ...ボリ...』
「ひゅっ... ぶ...」
咀嚼する音が聞こえる。そして怪物が口を動かす度に、声が上がる。
僕の声では無い。女性のものだ。
今、まさに怪物に下半身を砕かれているであろう女性の、声だ。
怪物には歯が無いようで、口全体で人間を押し潰して食べる。その度に骨が折れて、肺が圧迫され声として聞こえる音がするんだろう。
もしあれが助けを求める声にならない声だったとしても、どうせ助からない。
僕にはどうやっても助けられない。
女性の悲鳴が聞こえ、あるか無いかも分からない勇気を振り絞って、この路地裏に入ったのがいけなかった。
息を切らしてたどり着いた先で、名状し難い怪物と、体を貪られてこちらに血と涙まみれの顔で手を伸ばす女性の姿を見て、心が折れた。
どうしようも出来なかった。一目で勝ち目がないと、人間が敵う存在ではないと理解できてしまった。
体は自然と、怪物から逃げていた。
そもそも、相手が怪物でなくたって、暴漢相手でも同じことをしていたんじゃないか?
何が「助けになれば」だ。
僕が出来ることだなんて、一つも無いじゃないか。
今まで誰かを助けようだなんて、一回しなかった自分が、何か出来るはずなかったんだ。
僕はいじめに気づかないふりをしていた。
日に日に痣を増やしながらなんて事のないように笑う彼から、いじめっていう事実から目を背けて。
小学生の頃も、中学生の頃も、友達がいじめられていた時、周りから同じようにいじめられたくなくて、その友達と関わるのをやめてしまった時も、僕は卑怯者で屑なんだ。
変わりたいと思ってやった行動も、結果はこの通り惨めに地面にうずくまっている。
『バリ... ぴぁぁぁ... ばああああ』
怪物が何かを叫ぶ。それと共に肉片や白いカケラが飛び散る。
どうやらもう食べ終わったらしい。
今度は僕の番だ。もう震えることもしない体は、すでにこの結末を受け入れいるらしい。
まともに動いているのは僕のこの頭だけだ。
思い返すと、本当にどうしようも無い人生だった。
夢も目的もないままダラダラと人生を過ごして、人を見捨てるこの性分を直すことも出来なかった。
でも、きっとこれがお似合いな末路なんだろう。
「う、うう...!!!」
...本当にどうしようもない人間だ、僕は。
漏れ出る悔しさと無念から、手を握りしめて唇を噛む。
本当だったら親友も、あの子も、あの女の人も助けたかった。
(でもすぐにダメになってしまう。そんな人間なんだ...!)
『にあああーー みぃいい あああー』
ふわっと、体が浮き上がる。
「あ...」
黒い手を伸ばして僕をつまみ上げたようだ。
力が抜けた体はダラリと四肢を垂らして、息すら掛かる至近距離で怪物と見つめ合う。
その目は無機質で無感情で、これに対してなんの感慨も抱いてないようなものだった。黒と赤に塗れたその怪物は、人を殺すことをなんら思っていない。
それを見た瞬間、走馬灯のように過去の思い出が巡る。
幼稚園の時、ピクニックの時、受験の時が頭の中を駆け巡る。
色んなことがあった。
楽しかったことも、悲しかったことも。
そんな風に考えている頭に、親友が自殺したことがクラス会で発表された時が思い返される。
ピタッと、体の震えが止まる。
クラス会でみんなが不安そうな、罰の悪そうな顔をしている中で、あの怪物と似ている奴がいた。
この怪物と似ている表情をしている奴がいた。
親友をいじめていた、いじめっ子の奴らだ。
自殺したと発表されても、無表情で、心すら痛めてもいないような顔で、親のお陰でなんのお咎めも受けずにのうのうと卒業していったあいつらの顔。
それを思い出した瞬間、自然と拳が出ていた。
『ガァアアア!!!!』
その拳は至近距離で見つめあっていた目に当たり、怪物は叫び声をあげて、僕を掴んでいた手を離した。
ドサリと地面に落ちる僕は、恐怖するでも逃げ出すわけでもなく呆けたように怪物を見つめていた。
(...なんで、こいつらは平気で人にこういうことができるんだ? なんで人が死んだってのに、眉の一つも動かさないんだ?)
疑問が湧いてくると共に、怒りや激情ともわからない感情が沸々と茹で上がってくる。
『グア... ピキャアア!!!』
怪物は明確に怒りの叫び声をあげて、こちらに血や粘液を飛ばす。
「なんで、だよ... なんで殴られたぐらいで怒るんだ?」
しかし、それに対しての起こる恐怖心は今までの事で既に枯れていた。
「...反撃されたぐらいで、逆上するんだったら、最初っから人なんか襲うな!!」
よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がって、怪物に向かってそう叫ぶ。
『......』
怪物は意に返さず、ただ敵意のこもった目で僕を睨む。
(どうやったって敵わない。...けれど、逃げる気もない。)
誰かにコイツを連れて行って被害を出す訳にはいかない。
だが、それ以上に怪物に立ち向かう理由はあった。
「...どうせ死ぬにしても、もう助けられなかったとしても、コイツのこの表情だけは殴りたい。 ...本当に今更だけど、贖罪なんてなりはしないけど、今! お前を殴れるのは僕だけだから! ...惨めに抵抗しながら死んでやる」
出来るんだったら、最初からこうしたかった。
これで何も変わらなかったとしても、助けられなかったとしても、僕がしたいと思ったことは、後悔する前にしておけばよかったんだ。
のそり、と怪物がこちらに向かって動く。
逃げない。
複数の手が瞬時に伸び、僕の退路を塞ぐようにぐるりと周囲を取り囲む。
逃げない。
口が開き、暗い体内が覗く。流動しのたうつ粘液の中には、未だに形を留めた腕や指があり、自分の末路を映し出している。
逃げない。
「......」
『グゥアアアア!!!』
大きく叫び声をあげてこちらを飲み込まんと迫ってくる。
だが、相手がどんな事をしようとも、自分がどうなろうとも
「もう逃げない!!」
漆黒の頭が自分の頭上に動いた時、こちらも右腕を大きく振りかぶって怪物めがけて拳を打つ。
狙いは、拳が当たった時に怯んだ目を。
「っっらあ!!」
ヌチャッとした感触と共に、何かが潰れる音が聞こえる。
怪物の動きが止まり、複数個の目がギロリと、拳が当たった部分に向かれる。
「...があああああっ!!」
右腕に走る激痛に視界が白と黒で明滅し、余りにも大きい痛みに体が崩れ落ちる。
殴った時にした潰れる音は、自分の右腕が砕かれる音だった。
見ると、怪物の体の中に自分の腕が取り込まれているようで、その周囲の粘液はうじゅるうじゅると動き、まるで臼のように僕の肉と骨をぐちゃまぜにして潰そうとしていた。
最初っから敵わないと思っていたはずなのに、いざ真っ向から立ち向かって見ると自分の無力さを改めて思い知らされる。
(...分かっていた。分かっていたんだ。勝てないってことぐらい)
怪物は“終わった”かと言わんばかりに、僕を飲み込もうとする動きをやめて、ただ僕の肉と骨をひき回すことに集中しているようだった。
だが、それでも僕の動きが止まらなかった。
そもそも、僕に勝つつもりなんか無かったからだ。
「ふんっ!!」
『ピキャ!?』
残っている左腕で、怪物の目を殴る。
てんで効いたようには見えないが、痛みはあるようで怪物は驚いた声を上げる。
今度はちゃんと目を殴れたようで腕は取り込まれず、もう一度振りかぶれる。
また目を殴る。取り込まれなかった。
目を殴る。取り込まれなかった。
殴る。取り込まれなかった。
殴る。
殴る。殴る。殴る。
『ギュオッ!! ピアッ!! ギュゥアアア!!!』
殴るたびに怪物は痛みによって声をあげる。
しかしダメージは与えられていないらしいく、目に傷の一つも出来ていなかった。
(...きっと僕を食べた後は無傷でまた誰かを食べにいくんだろう)
だから僕のやっていることは無意味なんだろう。
「...知ったことか。 一回でも、こうやってされる側の痛みを知りなよ...!」
そうやって怪物を殴りつけると、またヌチャッとした感触と何かが潰れる音が聞こえる。
左腕が取り込まれ、今度は雑巾を絞るように粘液はシワを作り、それに伴って左腕も捻り回される。
「グッ...! い、たい...!!」
このままでは盛大な音と共に左腕は引き千切れるだろう。
右腕の感覚はもう無くなっており、貪っていた粘液はじわじわと腕を伝って僕の体を取り込もうと動いていた。
だが、それでも僕は止まらない。
「右腕も、左腕が無くても...! 足でも歯でも使って、お前に痛みを教えてやる...!!!」
そう吐き捨てるように叫び、頭突きをかまそうと頭を振りかぶる。
怪物も今まで食べてきた人間とは違う気迫を感じ取ったのか、僕の両腕にかける力を強くする。
想像もできないような苦痛が神経を伝って脳に送られる。一瞬、視界がブラックアウトするがすぐさまに意識を取り戻して、この怪物に食らいつこうと睨み返す。
「これで... 止まると思ったか...」
ぐぐ、と顔を怪物に向けて、唇を噛みながら飛びそうになる意識を繋ぎ止める。
「お前が感じた痛みなんて... 僕が与えた痛みに比べればちっぽけだぞ... お前が今まで他の人を苦しめた分だけ...!! お前に痛みを与えてやる...!!!」
『....!!』
「ああああ!!!」
そうやって怪物に向かってがむしゃらに頭突きをしようとした。
きっと、これで死ぬことになるという予感は、今僕を突き動かしている思いに比べれば無視出来る。
怪物もなんのダメージにもならないこの攻撃に危険を感じたのか、咄嗟に触腕を生やして僕の頭を打ち付けようとした。
怪物の目が潰れるか、僕の頭が砕けるか、その時だった。
「見ていられないのよ。アナタ」
瞬間、爆発音と共に黒い粘液が辺りに飛び散った。
どうやら怪物の頭が弾け飛んだようで、その真横にいた僕に黒い飛沫のシャワーが掛かる。
すると、僕の両腕にかかっていた粘液は徐々に力を失っていき、拘束が解かれると共に支えが無くなった僕は足から崩れ落ちた。
「あら、意外と根性無いのね」
そうやって地面に突っ伏している僕の頭上から、子供のように高い声でありながら大人のような落ち着いた女性の声が投げかけられる。
朦朧とする意識の中と、何が起きたか分からない呆けた頭で、やっと誰かに話しかけられたことに気づいた僕は、辿々しく話す。
「あ、の... 怪物、は...?」
「ああ、死んだわよ。 あの程度、アタシには蚊を潰すより簡単なのよ」
地面から声がする方へと見上げると、そこにはまるで中世のお嬢様が着るような豪奢な黒いドレスに洋傘を持った金髪の少女だった。
「キミ、は...?」
僕の視線に気づいたようで、少女は少し微笑んで僕にこう呟く。
「アタシは... そうね、カラミーとでも名乗っておこうかしら。アナタの命の恩人って奴なのよ。死ぬほど感謝してほしいわ」
淡々とそう語るカラミーと名乗った彼女は、人間を貪るあの怪物より幻想的で現実離れした雰囲気を感じ取れる。
感謝してほしい、と言った彼女に何か言葉を出そうと口をパクパクと動かすが、何も声が出ない。
そういえば、怪物の危機は去ったものの、両腕からは血が流れ続けており、今もなお滴り落ちている。
その為、既に何かをする元気も、気力もないようで、このまま放っておけば死ぬことは誰が見ても明らかだった。
「...あら、本当に死にそうね。 うーん。人間が死んでも知ったこっちゃ無いのだけれど、折角助けたアタシの労力が無駄になるのは勘弁なのよ。 ...アタシは女の子しか噛まない美学だけど、仕方ないわね」
薄れいく意識の中、ふと首筋にチクリとした痛みを感じると、僕は眠るようにして意識を失った。
泥のように沈んだ頭の中には、ある出来事が反芻していた。
『すげーなお前!なんでも知ってんじゃん!』
(ごめんね...)
『俺たち、中学行って同じクラスになれなくても親友だからな!』
(本当に...)
『...あんま、クラスで上手くいってなくって、さ』
(あの時、いじめっ子に囲まれて殴られてる君を見た時...)
『あ、あ!! 助けて!!助けっ!』
(...逃げて)
『あの時、お前に助けてって言ってごめんな。俺のいじめにお前を巻き込むところだった。本当にごめん』
葬式の時に、読み上げられた遺書にそう書かれていた。
(ちがうよ...! 僕が悪いんだ...!僕が...)
あれを見た時から、僕はいつもあの時の光景を夢に見るようになった。
周りから殴られて、顔をぼこぼこに腫らして、倒れ込んだら蹴られて。
それで、偶然通りがかった僕を見つけた時、顔を、明るくして。
必死に手を伸ばして、声を上げていた。
そうやって助けを求められた僕は逃げていて。
そうしたら親友は静かになって、逃げながら僕は振り返った。
いじめっ子達から蹴られながら、親友は僕を見ていて。
親友が浮かべていたあの表情は。
あの表情は。
あの表情を作ったのはいじめっ子じゃない。
僕だ。
視点が切り替わり、薄暗い路地裏に僕は居た。
女性が僕の目の前で、血を吐きながら言う。
『助けてくれないんだったら、駆け付けてこないで』
(ごめんなさい...)
『あなたが来たせいで、絶望が深まった』
(僕のせいで...)
『ねぇ、あなたは何のために来たの?』
(分からない...)
『...あなたが代わりに死ねばよかった』
僕がずっと、考えていたことだ。
「さっさと起きるのよこのあんぽんたん」
深い悪夢にうなされている頭に、シャレにならない激痛が走る。
「いっったぁ!?」
何かを考える前に与えられた衝撃によって体は勢いよく起き上がり、急激に意識を覚醒させていく。
「やっと起きたのよこの寝坊助。 アタシにここまでさせといて、うんうん五月蝿く魘されてるんじゃないのよ。もう一回死にたいのかしら」
「あ、え、と...」
いまいち状況が把握出来ずにオロオロと挙動不審になってしまう。
周囲を見てみると、まさにお城にあるような豪華絢爛な室内で、置いてある調度品は素人が見ても貴重なものばかりだった。
僕が寝ているのはそんな部屋の中にあるソファのようだが、今までに座ったことのないような座り心地でいくらでも体を沈められそうだ。
「...なに辺りを見渡してるわけ? あんたがするべき事は他にあるんじゃないのかしら」
そんな風に僕がしていると、不機嫌そうな声で僕が寝ているソファの横にカラミーと名乗ったはずの少女が佇んでいた。
「あっ、君は... えっと、カラミーさんだっけ...? あの、どうして僕はここに...」
そうやって頭をおさえながら、カラミーに問いかける。
未だに頭が痛く、赤く染まったおでこを手でさする。
と、ここで違和感を覚え、慌てて自分の両腕を確認すると
「あれ...!? りょ、両腕がある!?」
何と怪物にすりつぶされたはずの右腕と、引きちぎれた左腕が何の傷もなく存在していた。
自分の意志で何ら変わらずに動き、まるであの出来事が無かったかのようにさえ錯覚してしまう。
「ギャーギャーとうるさい奴なのよ。 まずは命の恩人に感謝が先なんじゃないのかしら。無礼な奴はアタシ嫌いなのよ」
そんな僕を呆れたように見つめるカラミーは、ずずいと顔を僕に近づけた。
一見少女に見える彼女だが、その小さい体から感じ取れる気迫は並大抵のものではなく、その圧に押されて縮こまってしまう。
「ふんっ、情けないわね。あの“古の落とし仔”と相対してた気迫はどこにいったのかしら」
淡々と告げる彼女に、また疑問を投げ掛けようとしたが、先程までの彼女の素振りから踏みとどまる。
まずやらないといけない事といえば
「色々、気になる事はありますが ...まずは、僕をあの怪物から助けて頂き、本当にありがとうございます...!」
「...もう少し感謝してほしいけれど、それで我慢してあげるのよ。 次の言葉が感謝じゃ無かったら、地獄見るところだったから気をつけなさいよ」
やっと聞けた、と言わんばかりにカラミーは嘆息して、ソファの向かいにある小さい椅子に座り、テーブルに置いてあった紅茶に手をつける。
「...あの、あなたは何者なんですか? なんで、僕の腕が元通りに...」
「しっ。 今は優雅なティータイムなのよ。邪魔しないでほしいわ。 でも、何も答えないのも可哀想だから、三つだけあなたが気になるであろうことを教えてあげるのよ」
そう言うとカラミーは紅茶を一口飲んで一息を置くと、紅茶を味わいながらこう答えた。
「先ずアタシは何者なのか。 ベラベラと身の上話を語る義理はないから一つだけ答えてあげる。アタシは吸血鬼って奴なのよ」
「きゅう、けつき...?」
「知らない訳ではないでしょ? 人間ってばアタシをモデルにした小説を出すくらい吸血鬼を好きじゃないの。 吸血鬼にも色々いるけれど、アタシ程にになるとあの君の悪い粘液くらいは簡単に捻り潰せるわけなのよ。 納得いったかしら」
正直、今彼女が言った事は信じられないが、一瞬であの化け物の頭を吹き飛ばしたことを思い返すと、不思議と納得してしまう。
「あなたが何なのか分かりました... じゃあ」
と僕が質問しようとすると、カラミーが僕に向かって勢いよく指を立てる。
「あんたが質問をするんじゃなく、アタシが教えると言ったはずよ。勝手な事をするのはやめてもらえるかしら」
「えっ、あ すいません」
「それと、何者か名乗ったら、相手はまた名乗り返すのが礼儀なのよ。 アタシは礼儀知らずは嫌いよ」
反論を許さないカラミーさんの言動に押されつつも、自分がまだ自己紹介さえしていないことに気づく。
すると、慌てて口を開く。
「僕の名前は崎守 清って言います。えっと、大学生をやっております...」
「ふーん。 まっ、男の名前なんて覚える気なんてないけれどね」
「じ、じゃあなんで名乗らせたんですか!?」
「うっさいのよ! それがマナーだからに決まってるでしょ!」
「ヒッ...!」
またもやカラミーの気迫に押されて縮こまってしまう。
そうして大人しくなった僕を見て、一息をつくとカラミーは面倒くさそうにまた口を動かした。
「で、アタシのことは教えたから、次はあんたの状況を教えるのよ」
「僕の... なんで、両腕があるのか、とかですか...?」
「そうね。まずあんたは一回死んだわ」
「し、死んだ!?」
ガタッと思わず体を動かす。
それを煩わしそうに見つめながらカラミーはこう続けた。
「そもそも、人間如きが両腕失って血をダラダラ流して死なない訳ないじゃないの。 失血死よ失血死」
「でも...」
「『こうして生きてる』 ...最後まで話は聞くものよ。 あんたは確かに死んだわ。それで新しい存在になった」
「新しい...?」
「あら、察しが悪いわね。 吸血鬼になったのよ、あんた」
なんでもないことのように呟いたカラミーは紅茶をあおり、ティーカップを置く。
「僕が... 吸血鬼に?」
「だからそうと言ってるのよ。 なに?あんた吸血鬼じゃなくてオウムになったの?」
「いや... あんまり信じられないっていうか、あの... 本当に?」
「じゃあ嘘と言ったらあんたはどうするのよ。 教えると言った以上、嘘は誓って言ってないわ」
「...本当、なんだ...」
自分の両手を見つめて、開いたり閉じたりを繰り返す。
まさか漫画やアニメの存在だと思っていた吸血鬼と出会い、そして自分がそれに仲間入りするだなんて。
「あの... じゃあ、僕もあなたみたいなことが出来たりするんですか?」
若干の期待を込めてカラミーにそう問いかける。
「...質問には答えないと言ったけれど、アタシとあんたが同列だと思われるのも癪だから答えてあげるのよ。 あんた、今人間より弱いわよ」
「へ...?」
「アタシ、首を噛んだだけで血は吸ってないの。 だから吸血鬼にはなるけど、吸血鬼の力は殆どないのよ。でも、女の子しか噛まない主義のアタシが噛んであげたのだから感謝してほしいわ」
「じゃあ変わったところは...?」
「神を讃える歌を聞くと動けなくなるわ。あなた程度だと失神までいくわね。 あと心臓に杭を打たれると死んじゃうわ。あなた程度だと別に杭を打たなくても死ぬだろうけど。 ああ、吸血鬼って別に太陽に晒されても灰にはならないから安心してほしいのよ」
(な、なんだかな...)
あんまり嬉しくない。
吸血鬼になったとはいえ、ほとんど人間と変わってないな。
少しだけ期待していただけにダメージは中々で、ちょっとだけ落ち込んでしまう。
そんな僕を横目にカラミーは相変わらず面倒くさそうな顔をしてこう続けた。
「それで、最後に。 あなたがこれからどうすればいいか」
と静かに呟いた。
「...確かに。 もしかしたら、それが一番聞きたいことかもしれません」
僕は頷いて、これからの行動を思案する。
(正直、町にあんな化け物が居たことも驚きだし、人間とほぼ変わらないとはいえ吸血鬼になったんだ)
何はともあれこれからの身の振り方は教わりたかった。
「今まで通りの生き方はできないのよ。 吸血鬼や、“古の落とし仔”みたいな人間に仇なす存在を殺す機関から追われ続ける毎日を送ることになるわ。だから、長い期間、一つの場所に留まることはおすすめしないのよ。 少しでも怪しまれれば拠点を変える事を頭に入れて、これからどうするのか考えなさいな」
「なんていうかそれは...」
「でも、そうして逃げ回った結果、死んだ方がマシな末路を送った同族も数多く居たのよ。あなた程度じゃ数週間で追い詰められて、よくて即死。悪くて実験体のまま一生を送ることになるわね」
(...思っていたより辛い人生が待っていそうだ。 いや“人”生じゃないか...)
これからどうしようと真剣に考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
見たところ吸血鬼として過ごした人生が長そうなカラミーに、他にアドバイスがないか尋ねようとした時、ちょうどカラミーがこちらを見つめていることに気がついた。
「...恨み言、言わないのね」
「恨み言、ですか?」
そう呟いたカラミーは、今まで浮かべていた無感情な表情から、少しだけ目を俯かせて僕に問い掛ける。
「あんたを助けたのはアタシの勝手よ。 その結果、死ぬより辛い結末があるかもしれないって言われたら、普通はアタシを責めるのよ」
「...それは」
そう言うカラミーに、僕は何も言えず沈黙の時間が流れる。
押し黙っている僕にカラミーはチラリとこちらを見て、反応を待っている。
「...でも助けてくれたのは事実です。 そして、僕がしたくても出来なかった事を代わりにやって下さったんです。だとしたら何を責めることがあるんでしょうか」
「『したくても出来なかった事』って、古の落とし仔を殺す事? まぁ、自分の両腕をひり潰した原因だもの。恨みを晴らしてくれてありがとう、ってことかしら」
お互いが黙っている間に、新しい紅茶を淹れたカラミーは、カップに入った赤い紅茶を飲みながら、一人でに納得したように相槌を打つ。
僕は少し苦笑しながら
「あはは... それもあるんですが。 ...僕は、あの顔をした奴に罰を与えたかったんです」
「顔? あの黒い泥に顔だなんて無いのよ。そもそもあいつに決まった姿なんてないのだから」
「えっと、そう言うことじゃなくてですね... 人を傷つける事になんの感慨も抱いてない。表情ひとつすら変えない奴... 僕はそれが許せなくて ...味合わせてやりたかった。される側の気持ちを...」
思い出す度に、腹の底からドロドロした黒い感情がグツグツと泡立つ。
...許せない。
「あなた凄い顔してるのよ。 はしたないからやめなさいな」
「えっ、あっ ごめんなさい」
カラミーに言われて、無意識に全身に力を入れていた事に気がつく。
唇も噛んでいたようで、口から少量の血が垂れ落ちて、カーペットを汚していた。
「...ちょっと。やめてよね。 アタシ、他人の血を見ると気分が悪くなるのよ」
カラミーの方を見ると、顔を青くして気分が悪そうにしていて、それを見た僕は慌てて血を拭った。
「...あの 吸血鬼なのに血が苦手なんですか...? それって色々と、大丈夫ですか?」
「何が言いたいのかしら。 吸血鬼は別に血なんか吸わなくたって生きていけるのよ」
(”吸血“鬼なのに...?)
僕がカーペットの血を拭きながら怪訝そうな顔をしているのを見たのか、カラミーは少し不機嫌になって棘のある声で喋った。
「それに、アタシには“コレ”があるから、別に血が飲めなくても大丈夫なのよ」
というと、ティーカップを掲げて中にある赤い紅茶を揺らした。
「中身はただの紅茶だけれど、これを美味しく飲むのが長生きの秘訣なのよ。血を飲まずに数百年生きた吸血鬼だなんて他に居ないでしょうね」
得意げに語るカラミーの表情の裏側には、少しだけ悲しそうな感情があるように見えた。
「えっと、本当にすごい人、なんですね。 ...じゃあずっと人を襲わずにきたんですか?」
もしかして人間の味方みたいな人なのかな、という視線をカラミーに向けると、カラミーはため息を吐いてこう言った。
「まぁね。 ...別にその必要がないから襲わないだけで、人間が好きな訳じゃないから勘違いしないでほしいのよ。あんたを助けたのもただの気紛れで、最初は見殺しにする気だったのだから。 まぁ死んでるから見殺しにはしてるのだけれど」
僕が言わんとしている事を察してか、眉間に皺を寄せて紅茶を飲んだ。
「あはは 気紛れでも助けて下さってありがとうございます」
「ふんっ。 ...それで、これからどうするのよ、あなた。 帰るんだったらあっちの通路を真っ直ぐよ」
カップを傾けながら、目線だけをこちらに向けてこちらを見る。
僕は少しだけ逡巡し、思い切って今までのやり取りで思い付いた事を打ち明けてみる。
「あの、帰る前に一つだけお願いしていいですか?」
「...あら、大した度胸ね。内容だけは聞いてあげるから話してみるのよ」
カラミーは眉を上げて興味深そうにして顔を向けてくる。
心内で大丈夫だろうかと心臓を鳴らしながら、口を開く。
「先程、僕に『三つだけ』教えて下さりましたよね?」
「そうね。それがどうしたのよ」
「ほかに、教えてほしいことがあるんです」
「...ふぅん。何が聞きたいのかしら。 一応、言っておくけど人間に戻る方法なんて無いのよ。アタシ達は死者なの。死んだ者が生き返ることが無いように、吸血鬼は人間に何て戻れないわ。 それを踏まえて質問を考えるのよ」
そう言う彼女は今までの僕を歯牙にも掛けないような表情から、真剣な顔で射殺すような視線で僕を見つめる。
「そして、あなたのお願いを聞くのはこれ一回だけよ。後から、やっぱり『あれも聞きたいです』なんて言おうものなら、教会から討伐される前にアタシが殺すのよ。 たかだが産まれて百年も経ってない若造が、アタシに願いを聞かせるっていうのはこういう事なのよ。 ...その覚悟してるのかしら?」
ブワ、と全身から冷や汗が噴き出すような底冷えする威圧感が全身から漂う。
(...息ができないほど空気が張り詰めてる)
僕はソファに座りながらその威圧感を一身に受け、周囲の空気が一変した事を感じ取った。
やはり、このカラミーという吸血鬼は、『怪物』の一人なんだと改めて思い知らされる。
いつもの僕だったら、ここで怖気付いてお願いを取り消しておめおめと逃げていたかもしれない。
だが、僕は意識を失いそうな重圧の中、冷静にカラミーを見据える。
「はい。覚悟はできています」
体には震え一つなく、静かに一言。
カラミーにそう答えた。
「...口ではなんとでも言えるのよ。 まっ、約束した以上、それを反故にしないって信用してあげる」
とカラミーが言うと、部屋中に漂っていた吐きそうなほどの威圧感は無くなり、カラミーはいつものつまらなそうな表情に戻り紅茶を飲んだ。
「でも、吸血鬼同士の約束... いえ、『契約』は口約束だなんて生優しいものじゃないわ」
と言った瞬間、カラミーの指先から赤い血が噴き出す。
その血は空中に浮遊し、粘土のように形を変えながら、『僕を見ている』ように感じた。
「『汝、我に一つの願いを聞かせる事を許す。 それ以上はなく、慈悲も無い。 この契約を破る命の価値は汝に無く。2回の強欲を見せし時、汝、命を失え』」
空中の血はカラミーが言葉を続けると共に、明確な形を取っていき文字のような印を作る。
赤く、鈍く光を発するそれは絶えずに流動し続け、その動きは路地裏で僕を襲ったあの怪物に似ているような気がした。
カラミーが最後の言葉を告げると共に、印は霧散するかのように消えて、まるで何も無かったかのような静寂が戻ってくる。
「...吸血鬼の契約をしたのよ。 さっきのアタシの血があなたを監視し続ける。それであなたが契約を破った時、つまりアタシに2回目の頼み事をした時、代償としてあなたの命が無くなるわ。 絶対に、何が起ころうとも、あなたは死ぬ」
そう静かに呟くカラミーは、僕の目を見据えてまたこう続ける。
「それで? あなたの質問は何かしら。 吸血鬼の契約をした以上、あなたの質問は嘘偽りなく、必ず答えるのよ。アタシも契約を破った瞬間、罰があるから、吸血鬼の契約は絶対の約束事にしか使わないのよ。だけれど、覚悟があると答えたあなたに免じて使ってあげたわ」
「...それはですね その...」
改めて伝えるとなると、少し迷っててしまって口を開いたまま言葉を出せない。
そんな僕を急かす訳ではなく、目の前にいる吸血鬼の少女は優雅にくつろいで僕の質問を待っていた。
「...僕が」
「僕が?」
「僕が、あなたみたいな吸血鬼になるにはどうしたらいいですか!!」
思わず大きな声を発してしまい、慌てて口に手を押さえてソファに座り直す。
「...アタシみたいな吸血鬼? あなた本当に言ってるの?」
「本当です! ...あの路地裏で、あいつに襲われてから。 いや、もっと前から... 力が欲しかったんです。 あの化け物に襲われて、僕は何も出来ないまま、死んでしまって、あなたに吸血鬼にしてもらいました。 あなたは気紛れで僕を助けたと言っていましたが、どんな理由でも誰かを助けられる力を持つ人に... 僕はなりたいんです」
僕は唇を噛みながら、今までのことを思い返す。
親友のことでずっと地面を俯く日々を送ってばっかりだった僕が、『自分を変えたい』と思って走った路地裏で、誰も助けられずに死んだ。
それでもあの怪物の顔を見て、思い出した。
僕が今までしたかった事を。それで立ち向かった。
結果、死んでしまったとしても、構わないほどの思いで戦った。
けれど、終わりだと思っていたあの時に、彼女が僕を吸血鬼にしてくれたお陰で、僕は今、変わろうとしている。
「...もし、ほかにあんな怪物が居たとして、また誰かを苦しめているんだとしたら。 ...許せない。 それを無視して、ビクビクと何かから怖がって逃げるのはもう嫌なんです! これは僕のエゴかもしれない。余計なお世話で、ただ何も出来ずに死ぬだけかもしれない! ...でも、逃げて、逃げて逃げて... 何もできない自分になりたく、ないんです」
周囲から孤立し、誰からも救いの手が差し伸べられなかった人をまた見つけた時、もう逃げずにちゃんと向かい合えるように。
「どうせ人間の社会には戻れないんです。 ...お願いします! あなたみたいな吸血鬼になるには、どうしたらいいんでしょうか!!」
僕は思いの丈をぶつけると共に、立ち上がり深々と頭を下げる。
とてつもなく図々しいお願いだが、今僕に出来る誠意の示し方だったら土下座でもなんでもしてやる。
そんな風にしている僕を、カラミーは静かに見ていた。
「...頭を上げなさい」
静かに僕に向かって呟いた。
「...しょうがないわね。 全く面倒くさいお願いをしてくれるのよ」
はぁとため息を吐くカラミーに、僕は勢いよく顔をあげて喜びの表情を見せる。
「って言うことは、教えて下さるんですか!?」
「うるさいのよあんた。 そもそも、契約の関係上何を聞かれても答えないといけないのよ。あんたの話を聞いて、感化されたとかじゃないから、勘違いしないで」
僕の表情に煩わしそうな反応をして、カラミーはまたため息を吐いた。
「はぁ... それで『アタシみたいな吸血鬼になるにはどうするか』よね。 ハッキリ言うのよ。 ...無理ね」
「無理、ですか...」
「そ、無理よ。 吸血鬼の契約をしていなかったら気休めぐらいは言ってあげられたけど、嘘偽りなく答えるって約束しちゃったから直球で言うのよ。 アタシは吸血鬼の中でも特別なの。人間上がりの木端吸血鬼が成れる存在じゃあないのよ。 そもそもアンタがどれだけ力をつけようとも、アタシにはなれないわ。絶対に」
そう言い放つカラミーは、まるで侮られたかのように、苛立たしげにカップを置いた。
僕はその様子を見て、慌てて謝罪しながらもあまり残念がらずにいた。
「あの... なんていうか... なんとなく、そう言う予感はしてました」
カラミーの言葉は歯に着せない物言いだが、自分で言いながらカラミーのように一瞬で化け物を倒す自分を想像出来ずにいたので、気落ちはせずに苦笑した。
「その... 無茶な事を言ってしまってごめんなさい。 図々しく頼んだばっかりなのにおかしな話ですが、カラミーさんにはこれ以上迷惑は掛けられないので、これからは自分で色々と考えて生活しようかなって思います。 ...じゃあ、あんまり長居するのも申し訳ないので...」
そう言いながら僕は笑顔を浮かべて、ソファから立ち上がる。
あんな仰々しい契約を結んだ割にはあっけない結果に、若干苦笑しつつ、気まずい空気の中で僕はカラミーに頭を下げた。
「ちょっと待つのよ」
僕がこの場から立ち去ろうとすると、後ろから制止する声が掛かる。
振り返ると、そこには、どこから取り出したのか、先程は無かったもう一つのティーカップに紅茶を注いでいるカラミーの姿があった。
「...帰るのはちょっと早いのよ。 あんた、まだ紅茶を飲んで無いのよ。アタシのティータイムに同席したってのに、紅茶の一つも飲まないのはちょっとマナー違反じゃなくて?」
「は、はぁ...」
僕は困惑しつつも、カラミーの言葉に従ってまたソファに座り直すと、ことりと目の前に真紅の紅茶が注がれたティーカップを置かれる。
カラミーはというとまた自分のカップに紅茶を注いで、静かに僕の事を見ていた。
「...えっと」
「どうしたの? 飲まないのかしら」
今までの表情とは違って、挑発的な悪戯っぽい笑みを浮かべたカラミーが僕を見ている。
紅茶を前にして、僕の脳裏には、カラミーが『マナー』に厳しかったことがよぎっていて、直感的にこれが『カラミーに試されている』状況なのだと理解する。
「まぁ、別に飲みたく無いのだったら大丈夫なのよ」
「あっ、いえ! その... もちろん頂きますよ」
妙な緊張感が僕の体を駆け巡る。
目の前にあるティーカップを改めて観察する。
上品な花の装飾があしらわれているカップで、ソーサラーに置いてある。
にわか知識だが、ティータイムには俗に言うお茶請けとしてのお菓子が置かれているはずだが、テーブルにはそれらしいものは見当たらない。
(吸血鬼だからお菓子は食べないのかな...)
つまり集中するべきは、目の前のティーカップを“どう飲むか”である。
さっきまではどんなプレッシャーがあったとしても物怖じせずに言葉を発せていたのに、この状況になってからと言うもの、緊張が体に湧き上がってきており、じわりと背中に嫌な汗が滲む。
「...頂きます」
少し震える手でカップの取っ手に指を入れようとするが。
確か、紅茶を啜るだったり、受け皿に音を立ててカップを置くことは海外じゃあマナー違反だったと記憶しているが、うろ覚えな不明瞭な知識なため、一挙一動にその不安が浮き出てしまう。
なんとか音を立てずに、受け皿からカップを持ち上げて、口に寄せる。
口元にまで持っていくと、中にある紅茶からは気品の高い匂いが鼻腔をくすぐり、口をつける前から注がれている紅茶のレベルの高さが窺い知れる。
(...匂いを嗅いでいるだけで、唾が出てくる)
ゴクリ、と生唾を飲み込むと、意を決してカップの中身を飲み干そうとした。
内容物が舌先に触れた瞬間、今まで味わったことのない刺激が口内に広がって、思わず叫んでしまう。
「まっず!!??」
辛い、苦い、酸っぱい、とも表現できないような複雑で難解な味が舌の上で暴れ回ってくる、
というか紅茶に触れた部分が、じぐじぐとかぶれたような違和感があり到底、ティータイムに嗜むものではない。
(ど...毒かなんかじゃないのか...!?)
胃の奥底から胃液が這い上がってこようとするのを必死に堪え、噴き出す訳にもいかず口を押さえてなんとか一口つけた分を飲み込む。
熱いお茶も喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、これに限っては違うらしく、お腹の中でもその不快感はハッキリと分かる状態で、胃の中に居座った。
「ふふ そうはっきりと反応されると逆に嬉しいわね。 一応、聞いておくけどどんな気分なのかしら?」
「...匂いのいい香水をふりかけた泥水を飲んだ気分です。 うっぷ...! ...はぁ。 あの、これ本当にただの紅茶なんですか...?」
「ええ、ただの紅茶なのよ。 しかし、『資格がない者が飲むと毒になる』紅茶だけれどね」
「毒、ですか!?」
そんなのただの紅茶なんかじゃない、と思わず言ってしまいそうになるが、カラミーは平然とその紅茶を飲んでいて、まるで違う物を飲んでいるかのような様子に、口をつぐんでしまう。
「これは『薔薇の棘(エピーヌ デュ ロズィエ)』って言う銘柄の紅茶なのよ。 人間の間には出回っていない、吸血鬼が飲む紅茶で、特殊な品種の薔薇の花を使って作るの」
そう言うとカラミーは、ティーポットの蓋を取り外し、中身を僕に見せる。
何度見ても血のように真っ赤な色に驚きつつも、カラミーの静かに説明を聞いていた。
「これに口をつけて飲み干せるものは数えられる程度なのよ。 これを飲める吸血鬼は、特別強い力を持つものばかり。 いつしか、『本当の血液』と言う意味で『真紅』と名付けられたわ」
はぁと何回目になるかも分からないため息を吐いて、またカップの中に紅茶を注いで、美味しそうに口をつけている。
「う... 酷いですよ... 僕なんかに資格がないことは当たり前じゃないですか。 ...その、弱いですし、吸血鬼になったばっかりですし... で、でも! もう後悔しないって、決めましたから... 資格がない吸血鬼でも、僕は人を助けますよ...」
どんなに言われようが路地裏で固めた決意を崩すつもりはない、と言う意味を込めてカラミーを見つめる。
けれど、カラミーはそれを気にする様子はなく、しかし否定している様子に見えない表情で静かにこう言った。
「あら。 誰があなたに『資格がない』といったのよ」
「えっ?」
思わない言葉に、マヌケな返事を返してしまう。
しかし、あんな不快感を味わった後なもで、納得出来ず慌てて反論する。
「で、でも一口つけただけで、あんなに苦しんだのに...」
「そうね。 飲み干せないと言う点では『資格がない』とも言えるのよ」
「だったら...」
「だけれどね。 普通の場合だと、死ぬのよ」
「へっ?」
またまたマヌケな声を出してしまい、今度は反論する言葉も出てこず口をパクパクさせていしまう。
「『資格がない者は飲み干せない』。 それの真の意味は、『次に口をつける時は来ない』から。この紅茶に認められていない吸血鬼は、その毒性に倒れ伏し、それが最後の食事となる。 しかし、あなたはカップを離さずに持っているのよ。 ...認められたのね。あなた」
「え、えーと... あっ! そういえば、僕は吸血鬼の力がないって言ってたじゃないですか! だから、吸血鬼への毒が半端にしか効かなかったんじゃあ...」
「...あなたが力を殆ど持っていないから耐えられた? それは違うのよ。 確かに、あなたは人間より弱い吸血鬼なのよ。でも吸血鬼である以上は、その毒からは逃げられない。 ...紅茶は単純な腕力だとかで、判断なんかしないわ。 ...あなたの中で眠る『精神』こそが、あなたの『力』なの。 自分の中で何者かが一線を超えた時、何がどうなろうとも相手に屈さないその心こそが、あなたの『強さ』。 ...それが、あなたが紅茶に認められた理由だと思うのよ」
そう言い放ったカラミーは、空になったティーカップを置いて、僕を見据えた。
「アタシのようになりたいと、言ったわよね、あなた。 ...いえ、キヨシ」
「は...はい」
「アタシは確かに『無理』と答えたわ。 ...もちろん、契約の中で喋ったことだから嘘じゃあないし、撤回もしないのよ。 ...あなたが本当に知るべきは、あなたの強さ。あなたの強さこそが、あなたを人助けへと導く灯台なのよ。 あなたが成るべきは、『誰か』なんかじゃない。 ...あなた自身よ」
最初は呆けていた僕も、徐々に彼女が紡ぐ言葉の一つ一つを聞き漏らさないよう真剣に耳を傾けていた。
「...そもそも、アタシのようになったって人なんか助けられないわよ。 だから、アタシがあなたに教えられるのは、あとこれ一つだけ」
というとカラミーは、僕のカップに入った『真紅』を指差す。
「紅茶の美味しい飲み方を教えてあげる」
息が震える。
心臓がうるさいくなるほど鳴り止まない。
「ぼ、僕が... 成れる、でしょうか。 人を助ける存在に」
「あら、そう言っていたのはあなたなのよ。 アタシが知るわけないじゃない。 でもね... もし、あなたが自分を誇れるような存在になった時は、またお茶会を開いてあげる。 その時が来るまでは面倒を見てあげるのよ」
「...」
僕の人生は一度、あの路地裏で幕を閉じた。
だが、僕はその昔から生きてなんていなかった。
大事な友人を見捨てたあの日から、僕は友人と共に僕の心も殺してしまった。
だから、『これから』なんだ。
路地裏であの表情を見た時から、煮えたぎるほどの思いと共に激しく胸を打ったあの時から、僕の心はまた動き出した。
「...やります。 誇れる自分になる為に、どんな事だってします。 この決意だけは、どんなことが起ころうとも揺るぎませんっ!! ...逃げる僕には、もう戻らない!!」
その決心とともに、カップに残っていた自分の紅茶を飲み干す。
口内を通っていく度に頬や舌がその刺激に悲鳴をあげる。
食道や胃は、異物を排除しようと痙攣を始め、脳内はそれに警鐘を鳴らし、体は防衛反応なのかぶるぶると震えていた。
だが、僕は。
紅茶を飲み干した。
「...よろしい。 あなたの『覚悟』、このカラミーが見届けたわ。 その覚悟を忘れないようにするのよ」
「...カラミーさん。 あなたに一つ言っておくことがあります」
「ふぅん? なにかしら」
「あなたは先程、『アタシのようになっても人は助けられない』と言いましたね」
「ええ。 ...アタシは今まで人なんか助けたことなんかないのよ。あんたを吸血鬼にしたのだって気紛れだと言ったでしょう。 そもそも、あなたが死んでるようじゃ、助けたなんて言えないんじゃないの?」
「違います」
僕はハッキリと、震えの一つなくそう言い切る。
「あなたは確かに助けてくれました。 ...僕の心を。 死んでいた僕の心を、体ごと動かしてくれた。 ...ただの偶然で、あなたにその気はなかったかもしれません。 でも、あなたに助けられた存在が目の前にいる事を、忘れないでください。 ...本当にありがとうございます。カラミーさん」
静かに、僕は頭を下げた。
目の前の恩人に、僕が感じているこの感情を1ミリでも伝えたくて、深く、頭を下げた。
「...ふぅ。 よく恥ずかしげもなくそんなのセリフを吐けるのよあんた。 まっ、感謝の言葉が聞きたくて介抱したんだし、是非ありがたがって頂戴な。 ...全く、調子の狂う若造なのよ」
やれやれと憎まれ口を叩くカラミーに、僕の口角も自然にふっと笑い、頭を上げてこう言った。
「...教えてください。 『美味しい紅茶の飲み方』ってやつを。 もっとこの紅茶に認められるには、どうしたらいいのかを!」
「いいでしょう。 着いてくるのよあんた。 ...教えてあげる」
そういうとカラミーは立ち上がり、どこからか取り出した日傘を僕に向ける。
「...はいっ!!」
歩き出し、この部屋を出る彼女を背を追って、僕は走り出した。
これから僕はどうなるのだろうか。
それはきっと誰にも分からない。
これは、生きていながら死んでいた僕が、死んでから生きていく物語。
続きを読む時はどうか、紅茶の香りとともに。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
続きそうな展開ですが、ラストまでのストーリーを思いついていないので取り合えす短編にしてみました。
もし、何か感想やアドバイス等あれば、コメントして下さると幸いです。
これからも何か作品を投下していきたいなとも思っていますので、批評のほどをよろしくお願いします。