義経伝説の真偽
平家を滅ぼすために戦い、檀ノ浦の戦いでは八艘飛びを見せたりもした、源義経。
その後、兄の頼朝と対立して、平泉まで落ち延びる。
藤原秀衡の擁護を受けるが、まもなく秀衡が病死。
後を継いだ泰衡は、頼朝の命令を受け、義経を追討するべく軍勢を差し向ける。
平泉へ逃げる途中の『勧進帳』の話もあり、
泰衡の軍勢の攻撃を受けた時に、武蔵坊弁慶が立ちふさがり、いくら矢を撃っても弁慶は倒れず、立ったまま絶命していたという『弁慶の立ち往生』の話も、真偽は別として有名な話。
『弁慶の立ち往生』は、進退極まる、つまり進むことも退くこともできずに、どうすることもできなくなるという意味で使われるようになっている。
頼朝と義経は、なぜ対立したか。それについても、専門家の間でも議論がなされている。
頼朝は、政治の手腕には長けていた。
頼朝は、戦は弱かった。
義経は、戦には強く、様々な逸話も残している。
義経は、政治には疎かったという。
義経は平泉で戦死したというのが定説とされていたが、実は義経は死んではおらず、青森や北海道の方まで逃げ延びた、その後大陸に渡り、チンギス・ハーンになったという説がある。
義経=チンギス・ハーン説は、江戸時代中期以降、明治以降に広まったとされる。
義経=チンギス・ハーン説をもとにした書物も出版されている。
大正13年に小谷部全一郎という人が書いた、
『成吉思汗【チンギス・ハーン】ハ源義経【源義経】也【なり】』という著書が出版されると、たちまち話題作になったという。
このことを、モンゴル人に伝えたら、
「そんなことは、根も葉も無い嘘だ!」
と、怒ってしまうから、彼らの目の前では言わない。
もし仮に、義経=チンギス・ハーン説が本当だとしたら、以下のことが考えられる。
1 義経は平泉から、津軽、蝦夷へと逃れ、自分は平泉で死んだことにして、大陸へと渡る。
そして、モンゴルまで行き、チンギス・ハーンと名乗り、そこで世界帝国を築くことを宣言する。
2 モンゴルから日本に渡ってきた少年が、そのまま住み着き、頼朝の弟の義経だと名乗り、やがて頼朝とともに平家と戦い、平家を滅ぼした後に、平泉へと向かい、平泉から津軽、蝦夷へと渡り、そこからモンゴルに渡り、チンギス・ハーンと名乗る。
2の説は、1の説よりもかなり無理がある。
3 実はチンギス・ハーンと義経は、一卵性の双子で、幼少時に生き別れ、一人は頼朝の弟の義経と名乗り、平家を滅ぼした後に平泉へと向かい、津軽、蝦夷を経由して、モンゴルへと戻っていった。
2と3の説は、ほとんど創作だが、義経=チンギス・ハーン説そのものが、ありもしない創作である可能性もふまえてのこと。




