『青天を衝け』皆さんの評価は?
まずは、直近の3年間の3作品から。
渋沢栄一が主人公の大河ドラマ。
今年の大河ドラマの主人公になるまでは、あるいは新1万円札の肖像になるまでは、どんな人物だったのか、いやそもそも存在すら知られていなかったのではないか、かくいう自分自身も、そんな一人だ。
渋沢栄一は幕末に生まれ、明治、大正と活躍し、昭和6年まで生きた人物。91歳まで生きた。
幕末生まれでも、幕末に特に何をやったという印象が無いような人物は、いきなり明治編から始めてもよかったのでは?
なかには、そういう人物もいるということ。
現在の埼玉県深谷市に生まれた栄一は、やがて徳川慶喜の家臣として取り立てられる。
ここからは、幕末編、明治編、大正編、昭和編で。
幕末編
慶喜の弟、昭武に随行し、パリ万博へ。そこで経営学や銀行の制度、仕組みなどについて、スキルを身につける。
これが後に、約500以上の会社を設立し、やがて『日本経済の父』と異名をとるようになる、原動力となる。
明治編
パリ万博で西洋の文化、制度を目の当たりにした栄一は、いよいよそれを実行にうつしていく。
日本鉄道を創設し、鉄道事業にも乗り出す。
日本銀行や、理化学研究所の創設にも尽力する。
東京株式取引所は、現在の東京証券取引所。
第一国立銀行は、現在のみずほ銀行。
主な10社だけでも、名前くらいは聞いたことがあるようなところを、手がけている。
今の日本の上場企業の大半を手がけているといっても過言ではないほどだ。
また、地元である深谷市の絹産業の発展にも尽力したという。
逆に、当時創設したところで、渋沢が関わっていないところの方が少ないのではないか、と思うほどだ。
明治の末期には、帝国劇場を創立。
また、勲一等瑞宝章を授章している。
日本経済のために挙げた功績は数えきれないので、ここに書かれているのは、ほんの一部だ。
大正編
今や、押しも押されもせぬ、財界人としての地位を築き上げ、悠々自適に暮らしていた。
関東大震災の時は渋沢事務所も大きな被害にあったが、間一髪、難を逃れ、どうにか飛鳥山の屋敷まで逃げ延びた。
その時に、渋沢事務所が火災に遭い、事務所に保管してあった関係会社の文書や、徳川慶喜の伝記編纂作業のための貴重な資料などが焼失してしまう。
しかし、それでも、こんな時だからこそと思い、震災の被害に遭った人々を救うために、救護、救援、復興事業を推し進める。
内務大臣の後藤新平からの打診で、民の力を結集して震災復興を推し進める、と宣言した渋沢は、協調会、そして大震災善後会という組織を創設する。
その後、山本権兵衛首相から、帝都復興審議会の委員への就任を打診され、委員への就任を承諾する。
この時、既に83歳。晩年までやるんだったら、特殊メイクで老け役、というのも悪くはないが、どうせなら晩年の役は、ここぞとばかりに、ベテラン俳優にチャンスを与えるというのはどうか。手を上げてくれるベテラン俳優がいれば、の話だが。
昭和編
最晩年は、もう既に一切の役職を退き、楽隠居の生活を満喫していた。
と思ったら、永眠する間際まで精力的に活躍していたという。
最晩年になって、東京女子大学校の第三代校長を務めていた。
東京女子大学校とも、関わりが深い。
多くの有名大学とも、関わりを深めていた。
それらの有名大学で、後進の育成の方も、もちろん欠かすことはなかっただろう。
昭和6年、91歳で他界。また別の世界へと旅立っていった。
令和3年、大河ドラマ『青天を衝け』が放送される。
令和6年、渋沢栄一が肖像の、新1万円札が流通する。
『青天を衝け』の評価や、いかに。
『青天を衝け』は、幕末明治の作品にしては、視聴率も、視聴者評価も高かったようだ。
ただ、徳川慶喜に仕えてからの、幕末編が長く、明治以降の時代は駆け足になってしまったのではないか?という意見もある。
これについては、幕末は近代の前置きではなく、とことん幕末でやってほしいとか、
逆に、いやいや、幕末の争いなど、さっさと決着付けて、明治の近代化の時代をもっと長く、じっくりとやってほしい、という意見もありそうな感じがする。




