勇気ある人に
自分の意識が、深い水の底にあるような……ふわふわとした感覚。
これまで何度か経験した事のあるそれに、私はまた『いつかの過去』を垣間見ようとしているのだろうと、そう直感した。
バシャバシャと水が跳ねる音。
それに誘われるように目を開けると、私はどこかの河原に居るようだった。
当然ながら、そんな河原に見覚えは無い。私は根っからのインドア派だし、川の近くでバーベキューしたりするような陽キャイベントに参加した記憶も無いからね!
……となると、これは誰かの過去の記憶になるのだろう。
どこかにその記憶の主は居ないかと周囲を見回していると、川上から何か小さな物が流れて来ているのが見えた。
『あ、あれは……ウソッ、ワンちゃん!?』
流れの急な川を流れていたのは、シィダのようにまだまだ小さな仔犬だったのだ。
どうしよう……早く助けなきゃ! と思って川に飛び込もうとしたものの、ふわりと宙に浮いた身体は空を蹴る。まるで無重力の中で動く宇宙飛行士のような感じで、素早く動く事が出来ない。
おまけにこの夢の中──私が『過去視』と呼んでいるこの世界において、今回は物体に触れる感覚が感じられなかったのである。
触れたはずの川の水は、指先で感じる事が出来ない。幽霊にでもなっかのように、スカッと物質が身体をすり抜けていってしまうのだ。
『これじゃあ、あのワンちゃんが……』
いくら過去の出来事でも、あんな小さな仔犬を放っておける程、私は冷静な人間なんかじゃない。
このまま黙ってあの子が流されていくのを、指を咥えて眺めているしかないの……!?
『だ、誰か──』
あの子を、助けて──!
そう願った次の瞬間、すぐ近くで何かが水の中に落ちる音がした。
反射的にその音がした方を見ると、誰かが橋から川に飛び込んだらしい。
そのままその人物は、川に流されていく仔犬を目指して泳いでいく。
『あれ……? あの人……もしかして……!』
どこか見覚えのある暗めの金髪。
必死に泳いで仔犬に手を伸ばしたその少年は、私の願いが通じたように、無事にあの子を抱き留めている。
まだ幼さの残るその少年──以前にも夢の中で見た覚えのある、少年時代のムウゼさんに間違い無かった。
仔犬を確保したムウゼさんは、後から走って追い付いてきたナザンタさんらしき少年の姿を視界に捉えると、彼に向かって仔犬を高く放り投げる。
「えっ、兄さん!? ……っとと」
急に仔犬を投げ渡されたナザンタさんは、風魔法でふわりと衝撃を抑えさせたのだろう。優しくその腕の中へキャッチしていた。
それを見届けたムウゼさんは、
「後は任せた、ぞ……」
と満足げに微笑んで──
そのまま、どぶんと川の中に呑まれていった。
「ちょっ、兄さん!?」
『ムウゼしゃん!?』
過去のナザンタさんとほぼ同時に叫んだ私。
子供の頃のムウゼさんは、持ち前の正義感であの溺れていた仔犬を助けようと川に飛び込んだのだろう。
けれども流れの早い川で泳ぐのは、魔族とはいえ子供の身にはやはりキツいものだったはず。
流されていた仔犬に追い付いたところで体力が限界を迎え、一緒に溺れてしまうのを避けようと、仔犬だけでも助けようとしてナザンタさんに後を託したのだろう。
……だからって、それで死んじゃったら自己犠牲にも程があるよ!!
「待ってて兄さん! すぐにボクが行くから、絶対死んじゃダメだよ!!」
そう言って今すぐ自分も川に飛び込んでしまいそうな勢いのナザンタさんだったけれど、ふと視線を下に移せば、ぐったりとした仔犬が彼の腕の中で震えている。
こんな状態のワンちゃんを放置するのは、命に関わるかもしれない……。
けれども、つい先程ムウゼさんが流されていってしまったのだ。兄を見捨てる訳にもいかないだろう。
「ぼ、ボク……どうしたら……!」
涙混じりに狼狽えているナザンタさん。
私にも何か出来る事があれば良かったのだけれど、残念ながらこの過去の世界に干渉する力なんて無い。
「キュ……」
ナザンタさんに抱えられた仔犬が、力無く鳴き声を漏らす。
そのワンちゃんも、自分を助けてくれた少年が心配なのか、濡れた瞳が川の方を見詰めていた。
すると、どこからか颯爽と現れた白い犬が、その姿をあっという間に人の形に変えたのだ。
「溺れてる……って聞こえたが、誰かそこの川で溺れてんのか?」
「えっ……?」
その人物は、白い髪に燃えるような赤い瞳。そして、髪色がよく映える褐色の肌。
だけど「溺れてる」なんて誰も言ってないはずなのに、そう聞こえたというこの男性。
こ、これはもしかして……!?
「う、うん! ボクの兄さんがこの子を助けて、ポーンって放り投げて! でもそのまま居なくなっちゃって、でもこの子を置いていけなくて、だけど兄さんがこのままじゃ……!」
「あー、フィーリングで理解したわ!」
何だか今とそんなにノリが変わらない、けれどもちょっと見た目が若いこの人は……昔のエディさんに間違い無い!!
服とか髪型はちょっと違うけれど、白い犬と人の姿の両方になれる褐色イケメンなんて、エディさんしか知らないからね!
「ちょっくら待ってな! この俺様が、坊主の大事な兄ちゃんをサクッと助けてきてやっからよ!」
そう言うと、エディさんはいきなり川に飛び込んだ。
既にこの頃には大人だったエディさんは、人狼特有のスタミナの恩恵なのか、それとも魔王の相棒になる程の実力の持ち主だからなのか。
しばらく水の中に潜っていたかと思うと、次に水面から顔を出した時には、しっかりとムウゼさんを見つけ出していたのだ。
ああ、良かった……!
ムウゼさん、エディさんに助けてもらえたんだね。
無事にムウゼさんも仔犬も助かって一安心したところで、水を飲んでしまっていたムウゼさんがゲホゲホと咳き込みながら、水を吐き出していた。
しばらくして落ち着いたところで自己紹介を始めた三人の元に、先程助けた仔犬の母親らしき犬が現れる。
最初は仔犬を攫われたと警戒していた母犬だったけれど、エディさんが事情を説明して誤解が解け、ワンちゃん親子はムウゼさんの頬をペロペロ舐めてお礼をしてから、嬉しそうに去っていった。
「……それにしても、ムウゼだっけ? お前さん、まだ若いのに勇気があるじゃねーか! まあ、最後に自分が溺れてちゃカッコはつかねぇけどな!」
「む……返す言葉もありません……」
二人して全身びしょ濡れのまま、エディさんにわしわしと頭を撫でられるがままのムウゼさん。
何というか、今の彼らの関係性そのまますぎて、ちょっと笑ってしまったのは私だけの秘密だ。
「だけど、その心意気は気に入った! お前さんら、まだ若いがウチで働いてみる気はねぇか?」
「ウチって……エディオンさんのところ?」
「おう! 将来有望でやる気があって、何より俺様の直感にビビッと来たからなぁ。働きに応じて給料も当然アップしていくし、まだ新体制になって間もないから、上の役職だってどんどん狙っていけるぜ?」
「……俺達には身寄りが無いので、仕事が貰えるというのなら大変ありがたいお話です。ですが、その……何の仕事なのですか?」
身寄りが無い……って事は、この時点では二人の故郷であるゼルム村は、あの大火災で滅んだ後か……。
「お前さん達の得意な事で構わねえよ? 料理でも魔物討伐でも、掃除が得意でも良い。何がやりたい?」
「えっ、何それ! お料理でも良いの!? ボクね、ボクね! お菓子作るのが得意! ……母さんと一緒に、よく作ってたから!」
「そうかそうか、ナザンタは料理が得意なんだな。じゃあ、ひとまずお前さんは料理人候補って事で決まりな!」
「……俺は……ナザンタのような特技は、何も……」
キラキラと眼を輝かせるナザンタさんとは対照的に、ムウゼさんは暗い顔で俯く。
するとエディさんは何を思ったのか、突然ムウゼさんの腕や背中、お腹などを次々に触り始めたではないか!
「なっ、何を!?」
「んー……。鍛えればなかなか……うん、イケるんじゃねーの……?」
「な、何が……!?」
「いやホラ、筋肉の付き方をチェックしてんのよ。お前さん、何か身体鍛えたりしてんのか?」
「と、特には……! 普段やっている事といえば、食糧調達に魔物を狩るぐらいで……」
「ほー? ムウゼが狩り、ナザンタが料理担当ってこったな?」
「そうだよ〜! 兄さんったら凄いんだよ! この前も大きな魔物を一人で狩ってきてくれて、二人で食べ切れない分は近くの村で売ってお金にしてきたんだ!」
「ほうほう……一人で魔物を、ね……?」
ナザンタさんの説明に、一人頷くエディさん。
「……じゃあお前、やっぱウチで働け! 騎士候補で!!」
「「騎士……?」」
二人揃って首を傾げる兄弟。
「そうだぜぇ〜? いずれはこの魔族大陸全土を……更には人類大陸までもを支配する、新ヴィオレ魔王のヴェルカズの騎士としてスカウトするぜ!」
「ちょちょ、兄さん! ま、魔王ヴェルカズってまさか……!」
「先王陛下とその一派を悉く粛正し、未だヴィオレの各地で反発する残党をも残らず始末しているという……あの……?」
まだ子供のムウゼさんとナザンタさんは、顔を真っ青にしながら互いに視線を交わらせる。
それを見て、何故だか嬉しそうに笑うエディさん。
……若い頃のお父様、そんなヤバヤバな感じだったんです??
そんな相棒を誇らし気に思ってそうなエディさんも……相当アレなのでは……?
今の優しいお父様とエディさんからは想像も付かない壮絶な過去に宇宙猫になりつつ、私は彼らの会話に意識を戻す。
「んで、俺様はそこで軍師やってんのよ! まだまだ人手不足だから、お前さん達みたいな若手が来てくれるとすっげぇありがたいんだけど……どうよ? ヴィオレ魔王軍!」
「「……お、お世話になります」」
そう言って、彼らは揃って頭を下げた。
……果たして、この状況でムウゼさん達に拒否権はあったのだろうか。疑問である。
話が纏まったところで、ムウゼさんは自分の服を脱ぎ、ナザンタさんはエディさんの服を風魔法で乾かし始めていた。
ナザンタさんはエディさんと何か話し込んでいるようで、ムウゼさんは彼にしては珍しく、ボーッと川を眺めている。
「……俺は、魔王の騎士になるのか」
ぽつりと呟いたその声は、二人には届いていないらしい。
「……俺が彼に救われた意味は、そこにあるのだろうか」
ムウゼさんは、風魔法を発する手が震えていた。
それは寒さから来るものではないと、彼の目が語っている。
「怖かった……な……。暗い水の底で、あのまま死ぬものだとばかり思っていたが……」
『ムウゼさん……』
勇気をもって川に飛び込んだ少年は、目の前で大切な両親が焼け死ぬところを見たばかりで。
「……父さんと母さんも、怖かったはずだ」
それから間も無くして、自らも危うく命を落とすところだったのだ。
「そんな恐ろしい思いをしていたはずなのに……二人は、俺とナザンタを先に逃して……ッ!」
「……俺は……父さん達のように、勇気ある者になれたのでしょうか……?」
*
「………………カ…………ルカ……だいじょ……」
「……んっ……げほっ! ごほっ、ごほっ!」
ふと気が付くと、私は思い切り咳き込みながら目を覚ましていた。
喉の奥からしょっぱい水……海水が出て来たのだろう。それを吐き出しながらも、ついさっきまで見ていた過去のビジョンを思い出していた。
あれは……そうだ。
故郷が焼けてすぐ、少年時代のムウゼさんが川で溺れていた仔犬を助けたんだ。
あの時、体力が尽きてムウゼさんも溺れて……。
その時に感じた死の恐怖が彼のトラウマになって、そのせいできっとムウゼさんは……水場が苦手になってしまったんだと思う。
「ルカ、大丈夫か!?」
「ムウゼ……しゃん……」
謎の高波に攫われそうになった時、大急ぎで私の元へ駆け付けてくれたムウゼさんが、今も私をその腕の中で抱き抱えてくれていた。
少し辺りを見回してみると、どうやらここは暗い洞窟の中のように見えた。
側には魔法で明かりを出してくれているティズさんも居て、エドもちょうど意識を取り戻したところのようだった。
「……助けに来てくれて、あいがと……ございましゅ……」
「っ、ああ……礼には及ばぬ」
「それでも……わたしは、何度でも言いましゅよ……」
海だって、高波だって、貴方にとってはとんでもなく恐ろしい死の象徴の一つだったはずなのに。
それでも貴方は、迷わず助けに来てくれた。
「ありがとう……ムウゼしゃん……!」
返事の代わりにムウゼさんが浮かべたその笑顔は、これまでに見た彼のどんな微笑みよりも、優しさに満ち溢れていた。