あの子とあたし(ヴェルカズ視点・エウラリーシュ視点)
ルカが消えた──
その報せは我が右腕で、あり無二の友でもある、軍師エディオンの口から語られた。
彼奴の腕の中には、魔法攻撃を受けて傷付いているルカの飼い犬が抱かれている。
私はエディオンから粗方の報告を受け、視線を彼奴の腕に抱かれる黒妖犬に移した。
「……黒妖犬の治療は私に任せておけ。この程度の火傷であれば、私の魔法薬があればどうとでもなる」
「ああ……すまねぇ、ヴェルカズ」
「…………」
「…………」
……沈黙。
ルカの身の安全、王宮の警備の穴、国境南側の警備状況……。
そして、エディオンが嗅ぎ分けたという傭兵ティズとやらと、もう一人の魔力。
さて……どこから手を付けるべきか。
考えなければならない事。行動に移す順番。
互いに魔王と軍師としての知恵を無言で絞る中、私の研究室へと運ばれてきた黒妖犬の治療が進んでいった。
……この犬に何かあれば、きっとルカが悲しむだろう。
私の娘を奪還するのは勿論の事だが、ルカを庇ったであろうこの忠犬の命を守る事も、保護者である私の当然の義務である。
何の滞りもなく治療は終わり、火傷の傷自体は問題無く治った。焦げた体毛は、手入れをしてやれば目立たなくなるはずだろう。
しかし黒妖犬は、治療を終えても元気が無いようだった。
……それも当然か。黒妖犬は賢い生き物だ。
ルカを主人と認め契約を結び、その主人の為に敵に立ち向かい──主人だけが連れ拐われたのだ。それを理解する頭脳があるが故、役目を果たせなかったと気落ちしているのだ。
黒妖犬は、元を正せば天界の猟犬である。天使であるルカに仕える事は、この犬の本望だ。本能で求める、生きる理由そのものなのだ。
その役目を充分に果たせなかったのは……まだ幼体だという未熟さが招いたものであれど、己を許せないのだろう。
……気落ちした犬というのは、目の前の友も同様ではあるのだが。
「……エディオンよ。そのティズという傭兵は、商会の遣いという名目で王宮に来たのであったな?」
「あ、ああ……。門番にも聞いてきたが、予定より早く服が出来たから届けに来たんだと言われたらしくてな……。顔も知ってるリゼーア商会の関係者って事もあって、特に警戒もせずに立ち入りを許可したようだ」
「しかし、正門から入ったのは傭兵一人だったと……。貴様が感じたもう一人の魔力というのは、まさかとは思うが──」
「俺もまさかとは考えはしたんだがな……」
正規の手順で王宮に入ったのは、傭兵一人だけ。
となれば、それ以外の手段で侵入する方法は限られてくる。
まず、我が王宮には、基本的に身元がはっきりとした者しか招いていない。
ヴィオレ魔導王国の魔王に代々仕える悪魔家系の貴族の子女や、ムウゼやナザンタといった、私への忠誠心の高い騎士達。
彼奴らが私を裏切る確率は、万に一つも無いと断言出来る。何故なら、五百年前に私が魔王に即位した際、反対勢力は家や街ごと粛清したからである。
寿命の長い悪魔であれば尚更、当時の状況はよく知っている。この私に楯突くような愚か者は、この時代においても粛清の対象となるからだ。
残るは、ルカのように身元ははっきりしないが、この私が信用に値すると認めた者達だ。
これらは数は少ないが、裏切るとは考え難い。私は、人を見る目はある方だ。
……となると、内部の者による手引きではないと見るべきなのだが。
しかし、本当に可能なのだろうか……?
「我が王宮の結界を突破する程の、転移魔法による誘拐……か」
「……実現可能だと思うか?」
「使用者が高位魔族であり、何らかの道具や支援による補助があれば、可能となるやもしれんな。……しかし、私が敷いた結界術式であれば、それ以外に代償も必要となるはずだ」
「代償ってーと……」
「種族固有の能力の剥奪、寿命、あるいは身体の一部……。それらを犠牲にすれば、術式の防御を上回る貫通性が出る可能性が考えられるな」
それを検証するとなると、私以外の誰かに実践させるしかないのだが……転移が使えるような人材を犠牲にするのは、得策ではない。
「転移が可能であるのなら、国境の警戒を強めたところで意味を成さん。……むしろ、少数精鋭でルカを狙うと決めたあたり、自然とこちらの動きに対処した者が怪しくなる。……犯人の目星は付いたな、エディオン?」
「……スカレティアの魔王、か。前回の戦で領土を奪われた腹いせに、突如お披露目されたうちのプリンセスを誘拐してやろうと企てた……と?」
「理由は、それだけじゃないはずよ」
そう言って研究室の扉を開けて入って来たのは、鮮やかな桃色の髪に、意思の強い蒼い瞳の娘──エウラリーシュだった。
いきなりやって来たエウラリーシュに振り返ったエディオンは、酷く驚いた様子で言う。
「お、オイ! 何だってお前さんがヴェルカズの研究室に!?」
「……今回のルカの誘拐の件、多分あたしも無関係じゃないと思うから」
「い、一体どういう事だよ……!」
するとエウラリーシュは、私に視線を向けて来た。
私が一つ頷くと、彼奴も頷き返し……静かに語り始める。
「……これからあたしが話す事は、魔王様しか知らない事よ。聞いてくれるかしら……軍師さん」
「お、おう」
一呼吸置いてから、改めてエウラリーシュは口を開く。
「……あたしは、スカレティアの生まれなの。スカレティア連合王国の……第一王女。父様からも王位からも逃げて、たった一人の小さな弟を置き去りにしてきた……臆病者の女なのよ」
*
──あれは、あたしがヴィオレに逃げてくる前の事。
あたしはスカレティア連合王国の第一王女であり、未来のスカレティア魔王として育てられ……そして、父様に見限られた少女だった。
父様は魔界統一を目指し、近隣諸国に次々と侵略戦争を仕掛けていた。
あたし達魔族は、強い者こそが正義だ。
あの頃のあたしは、そうやってどんどん領土を拡大していく父様こそが世界の全てで、あたしにとって唯一の正義の体現者なのだと信じていた。
そうして自分もいつの日か、父様のような立派な魔王になれれば良いなと、小さな頃から鍛錬や座学に励んでいたものだった。
……けれどもあたしは、父様が期待する程の能力を発揮出来なかった。
母様は名門の悪魔の家系で、優秀な子を残す為に父様と結婚した。
それでもあたしは、父様と母様のどちらにも似ない非力な娘に育ち、争い事も得意とはいえなかったのだ。
「エウラリーシュ。何故、お前は俺のようになれんのだ?」
「エウラリーシュ。何故、貴女はあたしのようになれないの?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、父様。ごめんなさい、母様」
謝ったところで、強くはなれない。
謝罪をする暇があるなら、武器を振るえと、父様に頬を打たれた。
謝罪をする暇があるなら、命を削って魔法を放てと、母様に階段から突き落とされた。
父様が持つような大剣なんて、とてもじゃないけれど持ち上げられない。
母様が華麗に操る風魔法のように、咄嗟に魔法で受け身を取る事も出来ない。
ただ花を育てる事だけが得意だったあたしは、両親譲りの魔力量によって、単に怪我の治りが速いだけの子供でしかなかった。
戦争には、何の役にも立たない力──使えない子。
両親があたしに何の期待もしなくなると、それまでの猛特訓の日々が嘘のように、何も無い日々が始まった。
──文字通り、何も無かった。
窓も無い部屋に押し込まれ、食事も与えられない。
最初のうちは、魔法で生み出す水を飲み水にして、どうにか空腹を誤魔化しながら過ごしていた。
けれどもその頃のあたしは、戦いに使う魔法以外はほとんど知らなかったから、部屋の中はどんどん汚物が溜まっていって、酷い有様になっていた。
水だけでは栄養も摂れないし、徐々に衰弱が始まっていく。
魔力も少しずつ衰えていって、飲み水や灯りを確保する魔力量も賄えなくなり──
それでようやく、あたしはただ父様の道具として育てられていただけだったんだなって気付いたのよ。
……気付くのがあんまりにも遅過ぎたけれどね。
それから、何年が経ったのか。
ある日突然、あたしは解放された。
「この子が、貴女に会いたかったようなの」
久々に会った母様の腕の中に、知らない子供が抱かれていたのだ。
あたしと同じ、ピンク色の髪。あたしと同じ、青い目の男の子。
その子があたしの弟なのだと明かされるよりも前に、あたしはその子が自分の血縁であると一目で理解した。
ああ、この子が次の犠牲者になるのか、と。
あたしの弟……第一王子、エドゥラリーズ。あの子は自分に姉が居ると聞いて、一目会ってみたいと頼んだそうだ。
……まだ汚いものを何も知らない、綺麗な眼をしていた。
あの子はきっと今も、父様の事をこの世の全てだと信じて頑張っているのだろう。
エドゥラリーズが鍛錬を始めるようになってから、あの子は父様と母様のお気に入りになったらしい。
あたしよりも才能があって、「エドゥラリーズが望むなら」と、あたしはあの何も無い部屋から解放された。
弟曰く、「あねうえは捕虜じゃないから」との事だった。
捕虜ではないから、自由にさせてやれ……と。
父様と母様も、あたしにはもう何の未練も無いようで、王宮であたしがどこに居ようと気にした様子は無かった。
つまりは、あたしの居場所なんてどこにも無かったのだ。
それならこんな場所から離れて。
家族の事なんて全て放っておいて。
あたしの好きな事をして、生きてみたい──
そうしてスカレティアの王都を離れたあたしは、昔読んだ本に書かれていた薬草の群生地に向かった。
スカレティアにしか自生していないという、珍しい薬草。
それをこの目で見てから、国を発とうと思ったのだ。
そこまで聞いて、軍師さんがピンと来たらしい。
「……待てよ? お前さんがうちに来た頃って、確かスカレティアと戦って領土を奪った時期だったよなぁ? 珍しくヴェルカズが前線に出てた時で……」
「ええ、その時に偶然魔王様にお会いしたのよ。戦場が群生地に近かったから、ついでに薬草を採取していこうとなさっていたの」
最初は魔王様に戦場から逃げ遅れた一般人かと思われたけれど、ヴィオレの魔王が魔法と魔法薬に精通しているのは有名だったから、あたしはこれがチャンスだと捉えた。
あたしの好きな事を、誰かの役に立てられるかもしれない……と。
「その時に、魔王様にだけあたしがスカレティアの王女だって話をしていたの。身分を隠し、ヴィオレの国民として忠誠を誓うなら、我が軍で雇ってやっても構わない──ってね」
「だから急にお前さんが来たって訳か……。で? 俺らの愛しのプリンセスがお前の父さんに誘拐された件に戻るが……。ルカが誘拐されたもう一つの理由ってのは、結局何なんだよ?」
「言ったでしょ? あたしには弟が居るの。ルカよりは少し歳上だけれど、才能に溢れたスカレティアの王子が……ね」
たっぷりと含みを持たせて言えば、軍師さんは顔色を悪くさせながら狼狽し始める。
「王子……って、オイオイオイオイ! まさかルカは……」
「スカレティア次期魔王の妻とする為に、連れ拐われたという事だな……」
「ええ……。ルカは実の娘ではなくとも、名高い魔王ヴェルカズが王女として迎えた女の子ですもの。優秀な遺伝子を持つ息子に、同じく優秀な能力を持つであろう王女を妻に据える……。あの父様なら、安易に思い付きそうな事だわ」
更に付け加えるなら、とあたしは言葉を続けた。
「父様には、何か勝算があるはずだわ。でなければ、王宮に直接乗り込んでまでルカを拐うような真似はしないはず。……ルカが拐われたのは、植物園のすぐ側の中庭だったわ。だからあたし、少し妙な魔力を感じたのよ」
「妙な魔力だと……?」
魔王様の問いに、あたしは頷く。
「その時はまさかこんな大事になっているとは思わなかったけれど……悪魔の気配を感じたの。そのワンちゃん……シィダが散々吠える声がして、流石にこんなにずっと吠え続けるなんておかしいなと思って、作業を中断したわ。それで様子を見に行ったら……軍師さんが慌ててシィダを連れて行くのを見掛けて……」
「その悪魔の気配とやらは、貴様の母親のものだったのか?」
「いいえ、それは無いわ。……少なくとも、風の悪魔ではないはずよ」
「……炎を使っていたのなら、炎の悪魔と考えるべきか。それも、転移を使える程の高位魔族……」
魔王様のその考察を聞いて、軍師さんの表情が僅かに歪んだような気がした。
「……ヴェルカズ」
「ああ、分かっている」
それだけの言葉のやり取りをして、軍師さんは研究室を後にした。
部屋に残されたあたしは、魔王様にシィダを預けられる。
「準備が整い次第、私は軍を率いてスカレティアに向かう。この忠犬は、ルカの部屋で休ませておけ」
「分かったわ」
早くルカを助けにいかなければ、彼女がどんな目に遭わされるか分からない。
特に、あたしが昔どんな扱いを受けたか聞かされた後なら、その不安は加速しているはず。
あたしだってルカが心配で仕方が無いんだもの。あの子を拾ってきた軍師さんは勿論、あの魔王様が自分の娘として迎え入れたルカの事が心配に決まっている。
本当なら、彼が単身で乗り込んでしまってもおかしくない状況だけれど……ルカは敵地に囚われているのだ。なるべく慎重に、けれども迅速に動く事が要求される。
……だけど、あたしは……。
「……ねえ、魔王様」
部屋を出て行こうとしたあたしは、シィダを両腕で抱きかかえながら、背中越しにこう告げた。
「あたし……ルカを助けに行きたい」
「それだけか?」
……何もかも、魔王様はお見通しなのかしらね。
思わず小さく笑みが溢れ、シィダはそんなあたしを不思議そうに見上げていた。
「……エドゥラリーズを、父様の幻想から解放させるわ。ほとんど他人同然で育った姉弟だけれど、あの子はあたしを救ってくれた。今度はあたしが、あの子に広い世界を見せる番だと思うのよ」
「……よくぞ言った。ならば、戦支度を整えて来い。そう長くは待たぬぞ」
「ありがとう……あたし達の、本当の魔王様」
そう言って、あたしは扉を開けた。