黒き犬
苦しそうな鳴き声が聞こえてきたのは、大通りから離れた暗い路地の方だった。
一人で駆け出した私だったけれど、幼女の走りに劣る近衛騎士の二人ではない。すぐにムウゼさん達が追い付いてきて、三人で声のする方へと向かっていく。
「ルカ、その声とやらは本当に聞こえているのだな?」
「あ、あい……! もう、しゅぐ……近くの、はじゅ……!」
全力で走りっぱなしだから、もう息も絶え絶えだ。
ああ〜! 脚が短いこの体型が恨めしい……!
早く行かなくちゃいけないと頭では分かっているのに、思うように身体が動いてくれないのが、もどかしすぎる!
「……この辺り、結構暗いね。足元気を付けてね、二人共」
ナザンタさんの言う通り、大通りを逸れてからは街頭やランタンの数がめっきり減っていた。
民家から漏れる明かりを頼りに走っていくと、またあの苦しそうな鳴き声がする。
「キュ……」
「…………! これか、ルカ!」
「あい……!」
今度こそムウゼさん達の耳にも、その鳴き声が届いたらしい。
そのまま声のする方へ走り続けて、とうとうその鳴き声の主の元へと辿り着く。
「キュウ……キュ……」
外壁にもたれ掛かるように、その小さな生き物は地面に倒れ伏していた。
夜の闇に紛れたら、そのまま見失ってしまいそうな真っ黒な毛並み。辛そうに閉じられた瞳と、助けを求めるようなか細い鳴き声。
「……あなたが、わたちを呼んでいたんでしゅね」
私はその生き物──仔犬のようなその子の前に、そっと両膝を付く。
すると、私の呼び掛けに反応して、その子がゆっくりと目を開けた。
「キュ……?」
「わたち、ルカっていいましゅ。あなたの声が聞こえたかりゃ、ここまで来まちた」
とても苦しそうにしている。
けれどもその子は私を見上げて、少しだけ身体を引きずるように動かして、私の膝をそっと舐めた。
小さな赤い舌が、ちょっぴりくすぐったい。
「……これは、黒妖犬の仔か。かなり衰弱しているな」
「こくようけん……?」
すると、ムウゼさんが続けて言う。
「黒妖犬とは、天界にある聖域から追放された犬妖精だ。天使の猟犬として仕えるその妖精が、何らかの理由で魔界に堕ちると、黒妖犬に転じるのだ」
「……この子はきっと、ここに逃げて来るまでに魔物に襲われてしまったんだろうね。可哀想に……」
それじゃあ……この犬の妖精さんは、ひとりぼっちだったんだ。
この世界に来たばかりの私と同じように、ここがどこなのかも分からずに一人きりで……。
「……ムウゼしゃん。わたち、この子を助けてあげたいれす。どうしてあげればいいでしゅか?」
最初、この子の鳴き声が私にしか聞こえなかった理由が、何となく分かったような気がする。
この子と私は、どこか似ている。だから、この子が助けを求める声が聞こえた……そんな風に感じたのだ。
すると、ムウゼさんは少し間を開けてから、口を開いた。
「……ルカ。お前ならば、可能かもしれん」
「兄さん、それってどういう……」
「お前の持つ魔力であれば……その黒妖犬と、契約出来るやもしれん」
「契約……でしゅか?」
契約という言葉に、ナザンタさんが驚愕の声を上げる。
「契約って、ルカちゃんが!? バーゲストとの契約なんて、こんな小さな子に出来っこないよ! それに……魔族であるボク達には、元々天界で生まれた妖精と正式に契約を結ぶだなんて……」
「やってみる価値はある。契約が出来ないのであれば、ルカには特にデメリットは無い。……やってみるか、ルカ」
そう言われて、私は黙って頷いた。
私は魔族ではないと、魔王様は言っていた。魔族ではない何者か……。
私であれば、もしかしたらこの子を助けられるかもしれない。だったら、契約に挑む価値は充分にある。
「契約が果たされれば、その黒妖犬はお前の使い魔となる。使い魔には常時、主から魔力の供給が行われる。その魔力が行き渡れば、黒妖犬の治癒力も増すはずだ」
ムウゼさんのその言葉を信じて、私は彼から契約についての手順を教わった。
契約とは言っても、使い魔契約はかなり簡単なものなのだそうだ。主となる私が、使い魔にしたい魔物や妖精に、名前を与えれば良いらしい。
その名前を受け入れてもらえれば、黒妖犬……ナザンタさんはバーゲストって言ってたっけ? その子が私の使い魔になって、しばらくすれば元気になってくれるそうだ。
「……決めまちた」
私はバーゲストの頭を優しく撫でながら、その子に与える名前を告げる。
「あなたの名前は……シィダ!」
その名を告げると、黒い仔犬の妖精は「キュウン……!」と鳴いて、私達の周囲に眩しい光の粒が舞い散るではないか。
雪のように降り注ぐ光の粒子は、よくよく見たら私の身体から飛び出していた。
その光は、黒妖犬──シィダの身体に吸い込まれていく。
全ての光の粒が吸収されていくと、私とシィダの間に何かの繋がりが出来たのを感じた。
これが契約の証……なのかな?
「キュウン、キュウン……!」
「わわっ、急にどうちたの!?」
呆気に取られていると、いきなりシィダが私のお腹に向けて飛び込んで来たのだ。
ペロペロと勢い良く頬っぺたを舐められて、さっきまでぐったりしていたあの姿は見る影もない。
「……これは驚いた。まさか、ほんの一瞬の魔力供給でここまで回復するとは」
「えっ……ほ、ホントに契約出来ちゃったの!? もうボク、何がどうなってるのかワケ分かんないんだけど!?」
とにかく、これでひとまずシィダは一命を取り留めたらしい。
私にもどうしてシィダとの契約が上手くいったのか分からないけれど、王宮に帰ったら魔王様とエディさんに、この事を報告しなくっちゃね。
……魔王様、怒らないと良いんだけど。