ナザンタのお菓子 後編
王冠型の甘いお菓子──パネトーネという名前には、どこか聞き覚えがあった。
私が高校時代にアルバイトをしていたスーパーで、クリスマスの時期に売っていた菓子パンの名前……だった気がする。
スーパーの社員さんが「良かったら、藤原さんも買っていってよ〜!」って言ってきて、物珍しさもあって丸ごと一つ買って帰ったんだったな。
スーパーに並んでいたものだから、当然冷めきったものだったんだけど……。最後に食べたのは十年ぐらい前のことだから、味がどんな風だったか、あんまり覚えてないんだよね。
それに対して、エプロン姿のナザンタさんが運んできたパネトーネは十五センチぐらいの高さで、上から粉砂糖がまぶされていた。
……あれ? 確かさっき焼きたてだって言ってたけど、もう粉砂糖がかかってるの?
前に家でチョコケーキを作った時、出来立てのケーキに粉砂糖をまぶしたの。そしたら湯気の水分であっという間に砂糖が溶けて、粉砂糖が見えなくなっちゃった経験があるんだけど……冷めるの早くない? どうして大丈夫なんだろう。
ていうか、あのパネトーネってナザンタさんが焼いたの!?
色々な驚きと混乱に翻弄されていると、私達に気付いたナザンタさんがパッと顔色を明るくして、こちらのテーブルにやって来た。
「あっ、ルカちゃんにリーシュさんだ! ねえねえ、まだお腹に余裕があったら試食してみてくれないかな? 初めて作ってみたものだから、自分の舌だけだとちゃんと美味しく出来たか不安なんだよね〜」
言いながら、テーブルに置いたパネトーネを切り分けていくナザンタさん。
「わあっ……!」
パネトーネの断面からは、レーズンやオレンジの皮、他にも何種類かのカラフルなドライフルーツが入っているのが見えた。
私、オレンジピールが入ったケーキとか、レモン風味のパウンドケーキとか大好きなんだよね〜! 柑橘類って果肉も美味しいんだけど、皮から漂うほのかな苦味のある香りがアクセントになって、甘くて固めの生地とよく合うんだよなぁ……!
この前のカップケーキも充分美味しかったけど、こういう菓子パンもある国に迷い込んだのは幸運すぎるね! もしもここがメシマズ国家だったら、初日で心が折れてた気がするもん!
「あ、あの! これって、ナジャンタしゃんがつくったんれしゅか!?」
「そうだよ〜? この前のカップケーキも、いつも自分用のおやつに焼いてたやつだったんだ。多めに作ってるから、よく誰かにお裾分けしてるんだよね!」
「あたしも、前に一つ貰ったことがあったわ。その時は、お返しに茶葉をプレゼントしたんだったわね」
「リーシュさんもほら、食べて食べて! なるべく色んな人の意見を貰いたいんだ〜」
あの時貰ったお花型のクリームが乗ったカップケーキ、ナザンタさんの手作りだったんだ!
食堂のご飯も美味しかったから、てっきりお菓子類もここの料理人さん達が作ったものだとばかり……。
それに、前にリーシュさんもお菓子を貰ったことがあったからナザンタさんのことを「甘い物好きの彼」って言ってたのかな? 好きを通り越して自分で作っちゃうなんて、騎士だけじゃなく、パティシエの才能もある凄い人なんだなぁ。
「それじゃあ、遠慮無く頂くわ」
「いたらきまーしゅ!」
私とリーシュさんは、小分けにされたパネトーネを、給仕さんがサッと差し出してくれたフォークで刺した。
そのまま一口……パクリと口の中に運ぶと、砂糖の甘みと、お酒の香りが広がった。
「んんぅ……おしゃけくしゃい……」
「ああっ! ごめん、ルカちゃん! パネトーネに入れたドライフルーツ、お酒に漬け込んだのを使ってたの忘れてた……!」
……そうだ、そうだ。確かスーパーでお土産に買ったパネトーネも、ブランデーか何かに漬けたフルーツが入っていて、ちょっと苦手だなって思ったんだった。
大人になってからは、お酒入りのチョコも美味しく感じるようになったんだけど……今はすっかり子供になっちゃってるから、またお酒が苦手に戻ってるんだろうな。ひえぇぇ……。
焼いてあるからアルコールは飛んでると思うんだけど、お酒の匂いが結構キツいかもだ……!
「無理そうだったら、我慢して飲み込まなくていいからね? ここにペッてしちゃって大丈夫だから!」
そう言って、ナザンタさんは慌ててナプキンを持って来てくれた。
……ここは、有り難く使わせて頂きます。
「ご、ごめんなしゃい……。ナジャンタしゃんが、せっかく味見させてくれたのに……」
「ううん、ボクの方こそ本当にごめんね……! 小さい子にお菓子を食べてもらうなんて何十年振りのことだったから、うっかりしてたよ……ボクの責任だ」
「わ、わたちが悪いんでしゅ! わたちが、もっと大人だったら……」
「いいや、やっぱりボクがいけなかった……!」
ナザンタさんに、そんな今にも泣き出しそうな顔をさせずに済んだはずなのに……。
二人で何度も謝罪し合っていると、リーシュさんが間に割って入った。
「二人共……! 謝るのは良いけれど、それにも限度っていうものがあるわ」
「リーシュおねーしゃん……」
「で、でも、今回ばかりはボクが悪いよ! ルカちゃんみたいな小さい子に、お酒を使ったものを食べさせるだなんて……こんなこと、兄さんやエディオン様に知られたらどうなるか……!」
「……それはまあ、今は置いておきましょう」
それよりも、とリーシュさんは続ける。
「本題に戻るけれど、このパネトーネ自体はとても美味しかったわ。大人が食べる分には、文句の付け所も無いぐらいの逸品よ」
「あ……ありがとう」
「だけどこれ……冬祭りに出すお菓子の試作品なんでしょう? それにはルカも参加するでしょうから、この子には別のものを用意してあげなさいよ」
「もっ、勿論だよ! ……本当にありがとう、リーシュさん」
「いいわよ、別に。次にまたルカに試食を頼む時は、同じ事にならないように気を付けなさい」
それだけ言って、リーシュさんは椅子から立ち上がる。
「……さあ、ルカ。そろそろ仕事に戻りましょう。副団長さんも、一通り試食が済んだらお仕事に戻りなさいね。貴方のお兄さんがいつも頭を悩ませているの、知っているんでしょう?」
「は、はーい……」
言い返す言葉も無いナザンタさんは、雨に濡れた仔犬のようにしょんぼりと寂しげだ。
私はテーブルの向こうから回って来たリーシュさんに椅子から下ろしてもらって、すっかり落ち込んでしまっているナザンタさんの側に駆け寄った。
「な、ナジャンタしゃん……」
「ルカちゃん……?」
綺麗な緑色の目を潤ませたナザンタさんが、不安げに私を見下ろしている。
私は思い切って、彼の長い脚に抱き付いた。
「る、ルカちゃん!? 急にどうしたの!?」
「わたち、ナジャンタしゃんのちゅくってくれたカップケーキ、とってもおいちくてだいしゅきでしゅ! だ、だから……だかりゃ、今度もまたおいちーお菓子、たべさせてくだしゃい!!」
「ルカ、ちゃん……」
ぽつりと私の名前を呟いたきり、黙り込んでしまったナザンタさん。
私なんかが励ましても、嬉しくなかったかな……なんて思っていると、私の頭にポタポタと雫が落ちて来るのを感じた。
見上げると、ナザンタさんが人目を憚らず涙を流しているではないか。
「な、ナジャンタしゃ……?」
私にお酒入りのパネトーネを食べさせてしまったことを、そんなに後悔しているの……?
どうしよう、どうしよう……!?
パニックになって、とうとう私まで泣き出しそうになってきた。しかし──
「……あ…………が、と……」
「ふぇ……?」
「あり、がとう……ボクのお菓子、大好きだって……言ってくれて」
今度はナザンタさんがしゃがみ込み、私をその大きな身体で抱き締めてきた。
苦しくならない程度に加減して、けれども簡単に離さないように、必死に繋ぎ止めるような抱擁だった。
「ナジャンタ、しゃん……」
「……ボク、今度はもっともっと美味しいお菓子を作るよ。一生忘れられないような……そんな、とびっきりのお菓子を──」
私は、ナザンタさんの気が済むまで、そのまま彼の抱擁を受け入れた。
今はまだ、彼を一人にしてはいけないような……そんな予感がしたから。