4. 第六王子 遥空
「少し遅くなってしまったな。急いで帰らなければ」
迷子の少年を助けた後、馬を飛ばして自国のヴェルテに帰った遥空は、どうにか兄と約束した門限に間に合った。
遥空はヴェルデの第六王子だ。第六王子ともなると気ままなもので、時々、隣国のディオスに遊びに行くことを楽しみにしている。遥空は趣味で絵を描いているので、ディオスで顔料を手に入れたいのだ。
ヴェルデとデイオスの両国は広さ、人口など同程度だ。大きな違いは、ディオスがアズールという世界中から引く手あまたの鉱物資源の唯一の産出国という点だ。一方、ヴェルデにも産業はあるが、唯一無二と言えるような産業は無い。ただ、隣国のディオスで働き口が多くあるので、国民はそこそこ豊かな暮らしをしている。かなり昔に血縁を結んだこともありディオスとの関係はおおむね良好だ。ただ、ヴェルデの王宮では、新たな産業の育成に頭を悩ませていた。
父である国王は末の王子の遥空に何かと目をかけてくれ、遥空の趣味である絵も大変気に入ってくれていた。王太子の兄も優しいが、趣味に没頭するばかりでなく、もっと見聞を広げるために国政に協力し、自国や他国のことも勉強するようにと厳しいことも言う。今日もディオスに行くと言う遥空に門限を設けたのだ。
何とか門限に間に合った遥空は美しい小瓶を眺めてニヤニヤしていた。今回は、迷子を助けていたので、時間がなく顔料を探すことができなかった。しかし、その迷子の男の子からもらったシエロいう顔料は、素晴らしく魅力のある顔料だった。
「星麗と言ったな」
嬉しくてシエロを何度も手に取り眺める。頬のゆるみが止まらない。
すぐにでもアトリエにこもりきりになり絵を描きたかったが、折り悪く重要な国事行事などが重なり、第六王子とはいえ参加しないわけにもいかない。そうこうしている間に、一年が過ぎようとしていた。
久しぶりに取り出した小瓶の青いシエロを見ていたら、絵を描きたい衝動が心の底から突き上げるように沸いてきて抑えられなくなった。シエロの青色は見れば見るほど美しく目が離せない。
夜、絵の構図を考えていたが、なかなかいい考えが浮かばず、悶々とした時を過ごしていた。ぼんやりとしたイメージはあるのだが、うまく表現できそうもない。気分を変えようと寝台に寝転び、目を窓の外に向けると、そこには美しい星が天空いっぱいに輝いていた。その星の光が空ごと自分に降りかかってくるような不思議な感覚がした。窓から見える星空は、ちょうど天空を窓枠に合わせて四角く切り取ったようだ。
ふと、起き上がってアトリエに行き、カンバスに向かう。自然に手が動いた。それから数日間、アトリエにこもりきりになり、夢中で描き上げた絵を見て遥空自身も驚いた。カンバスには窓が一つ。その窓の中には星空が映っている。カンバスに描かれた窓の中の輝くほど美しい星空は、遥空の部屋の窓から見た空そのものだ。
雲が晴れ、月明かりがちょうど絵を照らす。驚いたことに、月明りの元でその絵は本当の星空のように星がきらめいて見えた。その絵は光の当たり方で、多彩に輝く不思議な魅力を放っていた。
遥空は自分の絵を見て、その出来栄えに驚きを隠せないでいる。改めて空になった小瓶を見る。この顔料の、シエロの力だ。すごい顔料だ。遥空は興奮を静めるために、散歩に出た。庭園をぶらぶら歩いて、ベンチに腰掛けた。空を見上げると美しい満天の星空が目に入る。
「あの美しい星空をカンバスに収めたんだ……」
じんわりと満足感が沸いてきた。
数日後、まだ絵の余韻を感じながら回廊を歩いていると、偶然父と出くわした。
「いい顔をしている。いいものが描けたようだね」
気持ちが顔に出てしまっていたのかと、少し照れくささを覚えながら、父をアトリエに招きいれた。約束した男の子に絵を渡す前に、父に見てもらいたいと思っていたのでちょうどよかった。
「会心の作です」
アトリエの中央に置いた絵にかかっている布を取り除く。
父はしばらく言葉もなく絵を見ていた。
「星の輝きが見事だ。こんなに小さな絵なのに、星空に奥深さを感じるよ。窓枠の向こうの大きな星空を見ているように感じる。不思議だ」
遥空が感じているのと同じことを、父も感じてくれたのだと思うと、無性に嬉しかった。
「ありがとうございます。この絵はディオスで助けた迷子にもらった顔料で描きました。シエロと言うそうです。わたし自身も絵の出来栄えに驚いています」
「その迷子とは?」
「まだ、五、六歳ぐらいの男の子です。絵が出来たら見せると約束しました。気に入れば進呈すると。だからその子を探さなければ」
「だったら、ディオスに爺の知人がアトリエを開いていると聞いたことがある。そちらに展示させてもらいなさい。そこなら目につくのでディオスで評判になるだろう。そうすればその子の耳にはいるよ。爺が間に入るのでお前の素性も隠せる」
「評判を聞きつけて、その子が見に来てくれると?」
「そう思うよ。だって顔料を持っていたのだろう? 絵に携わる環境にあるのだろうから」
「そうですね。ありがとうございます。さっそく爺に聞いてみます」
爺とは、遥空を幼いころから面倒を見てくれた優しい教育係だ。今でも遥空のことを、幼子を扱うように細やかに面倒を見てくれる。
父が言葉を続けた。
「ディオスのアトリエに出す前に、この絵をしばらく王宮に飾ってもいいだろうか?」
「はっ?」
「こんなに素晴らしい絵を自分の息子が描いたのだ。少しは自慢させてくれ」
父は軽くウインクをして、遥空の肩に手を置いた。
「もったいないお言葉です。では、さっそくそのようにさせていただきます」
星麗に早く絵を見せたかったが、絵を褒めてくれた父の気持ちをありがたく受け入れた。
王宮の回廊に遥空の絵は飾られた。
来客、家臣、そして召使も、回廊を通る誰もがみな絵に惹きつけられるように立ち止まり、じっとしばらく絵を眺め、幸せそうな顔で立ち去っていく。
王太子の兄が絵を見つめていた。ちょうど通りかかった遥空に話しかける。
「窓から星空を覗いているようだ。気持ちがのびのびして、何だか心地よい絵だね」
兄はしばらく絵を満足げに眺めた後に、皆と同じように幸せそうな顔で執務室へと消えた。
遥空は絵を回廊に飾って以降、アトリエにいる時間は長くなったが、なかなか絵を描けないでいた。
以前はあふれるイメージをカンバスに表現するのがもどかしくなるぐらい描いていた。しかし今は、いざ描こうとしても、何故か創作意欲をそがれてしまう。理由はわかっている。
「シエロがあれば……」
つい思ってしまう。
今までだって描いてきたのだから、シエロが無くても描けるのだろうが、どうしても描こうと言う気持ちになれない。
珍しくアトリエに兄が現れた。
「遥空、描けないのかい?」
驚いたことに兄は、遥空が絵を描いていないことに気が付いていた。兄は王太子として忙しい日々を送っている。それでも、自分のことを見ていたというのか。遥空は意外だった。
「シエロという顔料が無いからだね」
驚いている遥空に近寄り、遥空の両肩に優しく手を置いた。手のぬくもりが肩から伝わってきて、その暖かさが心にまでじんわりとしみ込んでくるようだ。
「遥空の絵には人を惹きつけるような不思議な力があるね。私はとても好きだよ」
そして、兄は愛おしいものを触るように遥空の顔を両手で包んだ。その兄の瞳はとてもやさしい琥珀色をしている。
「遥空はそれをシエロの力だと思っているんだね? 確かにシエロは素晴らしい顔料だけど、シエロのせいだけではないと思うよ」
「えっ?」
「シエロを使う前から、お前の絵からは心が温かくなるような、何か心に響くものを感じていたんだよ」
兄は自分の絵にはそれほど関心が無いだろうと思っていたので、前から絵を見ていてくれたとは驚きだった。
「兄上は私の絵を見て下さっていたのですか?」
「ああ。もちろんだとも。次はどんな絵を見せてくれるのか、いつも楽しみにしているよ」
「…………」
「なんだ、そうは思っていなかったようだね? ああ、私がいつも絵ばかり描いていると叱っていたからだね?」
兄は、はははっと笑い、遥空をまっすぐに見た。
「遥空の絵は確かにすごいと思うよ。でも、趣味だけでは一生暮らせないだろう? だからもっと世の中に関心を持って、お前の打ち込めるものを広い視野から見つけてほしくて、ついつい口うるさくしてしまった」
「兄上……」
兄の言う事は尤もだ。兄が王位を継承後、自分にどのような人生が待っているのかを考えてみたことがある。王族として国のためにささげる人生は当たり前だ。しかし、やりがいを具体的に何に求めるのかと考えると、それ以上先のこたえが見つからないでいた。
「まあ、今難しい話は良そう。私が言いたいのは、シエロにこだわらなくても十分魅力ある絵を描いているということだ」
それだけ言うと、兄は執務室へと去った。
今後の人生について考えることは山ほどあるが、兄の言葉が、今いる迷宮から救い出してくれた。以前と同じように、絵を描きたいという衝動が再び湧き上がってきた。そして同時に、広く世の中を見てみたいという気持ちも湧いてきた。
シエロで描いた星空の絵は父との約束通り、王宮に飾ったのちディオスの街にあるアトリエへと移した。星麗と会ってから既に三年が過ぎていた。
数か月後、ディオスのアトリエの店主から爺に手紙が届いた。遥空の絵が大変な評判であると伝える手紙だ。遥空は手紙を読むとすぐに、星麗というきれいな青いの瞳の少年がアトリエを訪れたら絵を進呈して欲しいと返事を書き、爺に託したのだった。