9. 遥空の天使
天空の郷では穏やかな日々が続いている。
貴星の館では、遥空が客人として滞在していた頃のように、毎日の生活のリズムが戻ってきていた。
朝、皆で朝食をとり、貴星は執務室へ、星麗は大学へ、遥空はアトリエへとそれぞれ散っていく。昼食はそれぞれの状況に合わせてとり、星麗は大学から帰って来ると、おやつを食べてからシエロ工房に入る。夕方には、皆が広間に集まってきて談笑しながら夕食の時間となる。そして、夜が更けてくるとそれぞれ自室に帰って休む。仕事部屋にこもる人には、傅が頃合いをはかりながら軽食を仕事部屋に運ぶ。やがて、一段落すると、また、食事の時間にこの広間に集まるようになる。
星麗は一生懸命にシエロを作っている。
完成したシエロで遥空は描きたい絵がもう一枚あると言っていた。
遥空が何を描こうとしているのかはわからない。でも、そんなことは星麗には関係ないことだ。星麗は遥空を全力で信頼している。星麗には、遥空が必要なだけシエロを提供できることが重要なのだ。それをどう使うかなど、星麗が心配することではない。だって、遥空は絶対に星麗を悲しませることはしないから。
遥空はここ数日アトリエにこもってカンバスと向き合っていた。
しばらく、何も描かれていないカンバスを前にイメージを頭の中で膨らませていた。
そして、あの素晴らしい光景が頭の中のカンバスに収まったとたん、一気に描き始めた。こうなると、しばらく食事もとらず、絵に没頭する。しかし、傅の軽食の差し入れが届くと、手を止めて少しだけ休む。傅の軽食の差し入れは三食時間通りではない。以前に、星麗が言っていたことを思い出す。
『工房にこもっても、傅の差し入れは絶対に食べないといけないんだよ。そうしないと体調を崩して仕事ができなくなっちゃうんだ。でもね、それよりも怖いのは傅だよ、食べないと傅に凄くしかられるんだよ』
傅の軽食は絶妙なタイミングで差し入れられる。山場になると一日一度の時もある。だからなのか、制作のリズムを壊さずに無理なく食べられる。なぜ、山場だと分るのかは不明だが、軽食が届くという事は、食事をとれという事なのだ。この家の住人は、傅によって体調を保たれている。遥空もこの家のルールに馴染んできた。
軽食をとると、また、カンバスに向かう。絵を描いている時は自分の世界に入り込み、誰ともほとんど会話をしなくなる。星麗ともだ。でも、星麗とはシエロを通して言葉ではない別次元の会話ができていると感じている。
そのシエロは不足なくアトリエに届く。シエロは一度に多くは作れない。自分のために星麗も頑張ってくれていると思うと、やる気が倍増する。
昼過ぎに遥空がアトリエを出てきた。ようやく一段落ついたようだ。
「あとでアトリエに……」
それだけ言うと、遥空は自室に入った。多分、これから爆睡するのだろう。
夕食時、久しぶりに皆がそろった。傅は心得たものだ。今日の夕食はスタミナの回復というよりは、まずは体調を整えるような、滋養を考えた献立だ。食べやすく、すんなり胃に収まっていく。消化も良いに違いない。
食後に皆でアトリエに行く。カンバスにかかった絵を見ると、星麗にはすぐにそれがどこなのか分かった。描かれていたのは幽玄の滝だ。以前に案内したときに、猛烈に絵に描きたいと言っていた。
「画題は〝天使のはしご〟かな」
一目見て星麗はつぶやく。
「ああ、その通りだ。私もそう思っていた。完成したシエロでなら、あの木々の間から差し込む幾筋かの光の、柔らかく幻想的な輝きが描けると思ったんだ」
貴星も傅も絵の前に立つ。二人は絵に魅入られ心を奪われたかのように、息をのんで見入っている。
「流れ落ちる水に、光の穂先が射こんでいるようだね。美しく大空に伸びる光芒がここまで続いているかのようだ。まるで音を立てるようにキラキラ光っている……」
「〝天使の涙〟と〝天使のはしご〟は二点一緒にエスペランサの美術館に収めたいと思っています。美術館が完成するまでは、サロンに飾る予定です。この天使二作でシエロを世に出したいと思います。よろしいですか?」
「ありがとう。遥空。シエロの力を引きだしてくれて。これ以上のお披露目は無いだろう。ディオスを代表して礼を言うよ」
貴星は興奮冷めやらぬ様子で遥空の手を握る。
「素晴らしいです。私には、あの尾を引いているような光の筋から星麗様が降りてくるような気がしてなりません」
傅も心象風景を絵に重ねているのだろう。涙ぐんでいる。
「それじゃあ、僕が死んじゃった人みたいじゃないか」
星麗が口をとがらせ抗議のポーズをとる。
「はははっ。星麗は生きていても私にとっては天使そのものなんだよ。星麗が絵を描く原動力なんだ」
「うーん、なんだかごまかされたような気がする」
「それは、愛の告白ですね?」
傅が絶妙な間合いで一言はさみ、冷やかすように遥空を見る。
遥空は思わず口から出てしまった言葉を取り消すように、目を白黒させ、顔の前で手を左右に振っている。
「そうか、遥空は僕が好きなんだね。僕も好きだよ」
星麗はあくまでも無邪気だ。無邪気さもこうなると罪になるとも知らずに。
傅は涼しい顔で「ほほほっ」と笑いながら貴星と共に館に帰って行った。
翌日から、またシエロ工房の遥空のアトリエには郷の住人が〝天使のはしご〟を見ようと押しかけて、一気ににぎやかになった。
職人たちは、天使二作によって、シエロの顔料としての実力をまざまざと見せつけられた。そして、それがいい刺激となったのだろう。気合が再投入されたかのように、今まで以上に質の向上に励みだした。しばらくは天使二作の余波は続きそうだ。