1.シエロ工房ができた
「それで?」
貴星にそう言われて星麗は考える。
(そう、そうだ。それで僕は何をしようとしてるんだろう……)
遥空が去った後、星麗は淡々と日常を過ごしていた。朝起きて朝食を食べ、大学に行き、午後帰って来ると工房にこもる。でも、工房でシエロを作るわけでもなく、ただ座っている。そんな毎日を繰り返して一か月ほど経った。
遥空が居ないと言っても、以前に戻っただけだ。だが、朝の景色が、郷の景色が、空の青さすら色あせたように見えた。
そんな日々が続くことに、自分でももどかしく、もやもやしたやり場のない気持ちをどうしていいのかわからずにいた。
ある夜、貴星が夜半過ぎに星麗を外に連れ出した。
「久しぶりに丘へ行ってみようと思う。星麗も一緒に行こう」
貴星は聖明亡きあと丘には行ってない。父と二人で丘に行くのは本当に久しぶりだった。何より、星麗自身も丘は久しぶりだ。貴星は丘に着いてゴロンと大の字になり、夜空を見上げている。
星麗は立ったままだ。夜空を見上げるのが怖かった。星はいつものように輝いているのだろうか。星麗に語りかけてくれるのだろうかと思うと、上を見上げる勇気がなかった。
「久しぶりだなぁ。十年ぶりかな、ここに来るのは」
貴星はさも気持ちよさそうに大きく深呼吸している。
「十年もですか……ずいぶん久しぶりですね。どういう風の吹き回しですか?」
「〝暁の空〟を見てから、聖明を思う気持ちが変わったのかな……未練みたいな後ろ向きなものがなくなり、一緒にこれからも語り合いながら過ごせるような気持になった。とでも言えばいいかな」
父はすがすがしい顔をしていた。暗い中でも言葉の響き、気配からそう感じられた。
「どうしたんだ? 立ったままで」
「何をしたいのかよくわからないんです……」
ようやく星麗も腰を落とし、草叢に座った。
しばらくそのまま座っていたら、風が急に吹いてきて星麗の髪をなでた。
何とも心地よい。その瞬間、母に呼びかけられたかのように星の瞬く音が聞こえた。急に星空が見たくなった。草叢に寝転び空を見上げると、地上にこぼれ落ちてくるのではないかと思うほどたくさんの星が見えた。
「星は瞬いているかい?」
「はい。お父様とお母様と三人で見た時と同じように、キラキラしています」
「そうだな。あの時のようにキラキラしている」
星麗はふと、お父様は今、お母様と話をされていると思った。
(そうか、今、三人で川の字になっているんだ!)
星麗は懐かしさで胸がいっぱいになった。一人じゃないとようやく気が付いた。
「それで?」
遥空が郷を去ったが、遥空はやるべきことをやったら帰ってくると約束したのだ。遥空は帰ってくる。喪失感などもともと感じることは無いんだ。
(じゃあ、僕は何をするべきか、はっきりしているじゃないか!)
「シエロを作ります」
星麗の返事に貴星は軽く頷くと、再び夜空を見つめた。それから夜明けまで三人? で楽しく語り合った。
次の日、星麗は工房で一月ぶりにアズールを手に取った。
たった一月触らなかっただけだが、アズールの輝きが何とも新鮮に思えた。アズールの中に光る琥珀色の美しく優しい輝きに目が留まる。
アズールを手に持ったまま庭先に出る。菖蒲の紫の花弁に残る朝露が、差し込む日差しに輝いている。
空を見上げる。雲一つない澄んだ青い空が、どこまでも広がっている。大きな空がまぶしい。アズールを空にかざす。キラキラと心地よい音を立てて輝いている。
「大丈夫だ。やれる」
再び工房に入り、星麗はアズールを砕き始める。
その日以降、星麗は早起きしてシエロを作り、その後に大学に行き、また帰ってきてシエロを作るという日を過ごしていた。
「おはよう。傅」
「おはようございます。星麗様。今日もシエロをお作りになったのですか?」
「うん。少しずつだけど、いろいろ試しながら作ってるんだ」
「おはよう。星麗。精が出るな」
「はい。お父様おはようございます。午後も作りますよ」
星麗はやる気満々だ。遥空が芸術の都を作ったらシエロが必要になる。だからシエロを早く完成させたかった。
「遥空の役に立ちたいんです。芸術の都がうまくいくように、僕ができることをやろうと思います」
星麗の笑顔は輝いている。
シエロは今のところ星麗以外には作れない。なぜだかわからないが、他の職人がまねできないのである。だから、星麗が頑張るしかない。
「星麗、シエロの工房を独立させよう」
「えっ? よろしいのですか?」
「ああ。シエロはこの郷の、そしてこの国の宝になる。そろそろ館の工房から出て、独立した工房を作ったほうがいいだろう。職人を育てないとね」
「お願いします。僕もお父様に相談しようと思っていたところです」
独立した工房を持ち、職人を育てるという事は、一人前の職人と認められたのと同じだ。
「では、大学にいってきます!」
朝食を済ませて、あわただしく家を出た。
「星麗様、お喜びですね」
「ああ。遥空殿が帰ってしまってからどうなることかと思ったが、遥空殿に役立ちたい一心で、星麗なりに気持ちをコントロールできたようだ」
「そうですね。ご自分から気持ちを前向きに変えられましたものね。大人になりました」
「ほんとうに。やはり、遥空殿との出会いが大きかったようだね。人との出会いは、人を育ててくれる」
「遥空様は星麗様にとって、なんだか、特別な方のような気がしてなりません。遥空様にとってもそうであるような気がします」
「一生に一度あるか無いかのような、運命の出会いか……」
貴星は星麗の工房を進めるべく、北斗のところへ出かけていった。
北斗工房は貴星の屋敷からほど近いところにある。
「おはよう。北斗はいるかい?」
「おはようございます。貴星様。わざわざお越しいただかなくても、お呼びいただければ伺いますのに」
「はははっ。気がせいてしまってね。相談があって来たんだよ」
北斗に進められた椅子に腰かけ、北斗にも座るように促す。
「シエロの工房を作ろうと思う」
北斗は一瞬目を大きく見開き驚いた表情をしたが、すぐに満面の笑顔に変わった。
「それは結構なことです! いつ、工房を作るのかと待っていましたよ」
「そうかい? 星麗もようやく顔料作りに欲が出てきたようなので、そろそろいいと思ってね」
「ほぉ。そうですか。あの星麗様が、欲とは驚きです」
「遥空殿のために頑張っているのさ。残念ながら郷や国は後回しだ」
貴星は苦笑いで、力なく首を振る。
「大丈夫。遥空様のためという事は、巡り巡って国のためでもありますから」
遥空の絵の力を十分わかっている北斗の、遥空への信頼は絶大だ。
「ははっ。そうだね」
貴星は気を取り直したように工房を見渡す。
「職人は星麗に近い歳の者がいいだろう。年が近い者同士のほうが、互いに成長できると思うが、どうかな」
「そうですね。では、三光がよろしいでしょう。若いが筋はいいし、何といっても、積極的に技術を身につけようと頑張っています」
三光は星麗の一つ下だ。北斗が目をかけて育てている。貴星は名前と顔が一致する程度には知っている。利発そうな顔つきをした少年だ。
「では、そうしよう。後で館によこしてくれ」
半年後、星麗の屋敷の隣に建てていたシエロ工房が完成した。
工房の完成は嬉しいが、星麗は少しご機嫌斜めだ。
独立と言えば独立なのだが、屋敷の工房から歩いて数歩のところだ。警備の観点から検討した結果、隣になったそうだ。星麗はもう少し、独立を実感したかったが、今までの工房と別棟とはいえ、ほんの数歩の距離しか離れてない。しかも館との渡り廊下までついている。
「傅、これって独立って言えるの? 今までの工房を拡張しただけみたいに見えるんですけど!」
星麗は口を尖らせて傅を睨む。
「ほほほっ、まあ、そう拗ねないでください。何といっても星麗様は王孫であり、その上、国の宝ですからね。いくらこの郷に危険はないとは言え、この屋敷から遠く離れて工房をたてるのは難しいかと思いますよ。いろいろ心配する人がいますからね」
「お爺様だね?」
傅はおかしそうに笑う。
星麗はますます口を尖らせている。
「お父様は独立っておっしゃったじゃないか!」
「まあ、この距離が精一杯だったのではないでしょうか。お爺様は別棟にするなどとんでもないとおっしゃっていたそうですよ」
「ぼくはね、もう子どもじゃないんだからね。もっと信じてもらわないと」
「まあまあ、貴星様と伯父様が説得して、ようやくここまで離れたのですから」
傅は涙を流して笑ってる。
星麗は、ますます口を尖らせて完成した工房に入る。そして、工房の中の椅子に腰を下ろす。
「へへっ。いい感じだな」
拗ねていたことも忘れて、工房に置かれたアズールを眺めて、ニマニマしている。
「シエロ工房はお気に召しましたか?」
「うん。場所には不満があるけど、工房自体は気に入った。嬉しいよ」
工房の奥に歩いていく。奥にあるドアの前で首を傾ける。
「あれっ?こっちの部屋は?」
工房の奥のドアを開けると、大きな空間があった。窓が大きくとられた、明るい部屋だった。
「まぁ、明るくて素敵なお部屋ですこと。あぁ、なるほどですね」
傅が何に納得しているのかはわからないが、今は、この部屋よりも道具や並びなど確認したいことがいっぱいだ。もう一度戻って工房の配置を確認する。