9. 絵画市場の予感
遥空はもう一枚描きたい空があった。
星麗と初めてあの丘に登った時の帰りに見た夜明けの空だ。思わず息をのんでしまうほどの美しい空が目に焼き付いている。太陽の光が闇を押し上げていくときの、まるで魔法で作り出したとしか考えられないような壮麗な空だ。その刻々と空の色が変わる中、ある瞬間の空の色に魅了された。
あの空を再現しようとカンバスに向かったが、なかなかその色が再現できなかった。そんな時に、七石の工房を見学させてもらって、紫がかったスプレモを見た。この色だと確信した。
それから遥空は数日アトリエにこもり絵を一気に描き上げた。
「これはすごいね! まさに闇が明けて光が差し込んでくる直前の空だ。このまま見ていると、日が昇ってきそうだよ!」
星麗は遥空の美妙な空の色の捉え方に驚いた。遥空が描こうとした夜明けの感動的な情景が目に浮かぶ。今更ながらに遥空の表現力には驚嘆するばかりだ。
「この画題は〝薄明〟だね」
貴星と傅もただただ〝薄明〟を見つめている。
星麗には、二人が驚き、感動している理由が分かる。〝薄明〟はあの七石のスプレモの特長を見事に活かしきっている。澄んだ青の中に微かに紫を感じさせる七石のスプレモでしか描けないものだ。スプレモを生み出した貴星が分からないはずがない。もちろん傅もだ。
「〝宵の空〟も〝湖空〟も〝薄明〟も、みなスプレモの微妙な色調の違いを塾知して使い分けているんだね。スプレモの良さを最大限に引き出している。素晴らしいですよ。遥空殿」
「遥空様はほんとうにスプレモの事を理解してくださっているのですね。絵のすばらしさに感動したのはもちろんですが、嬉しさと感謝の気持ちで涙がでてきます」
星麗たちは絵を街のアトリエに運び込み、飾ってもらった。
店主は、絵を前にじっと動かないで食い入るように見つめている。
「空画伯の絵は、見る人ごとに、それぞれに言ってほしい言葉を囁いてくれるような、そんな不思議な力があるように思います」
言いえて妙だった。まさに皆の言いたいことをまとめて言葉にしてくれたと言う雰囲気がその場に漂った。
案の定、すぐに買いたいと言う客が来た。通りから絵を見かけた紳士が、吸い寄せられるようにアトリエに入ってきた。
「〝薄明〟を近くで見せてくれ」
紳士はじっと絵を見る。
「美しい色だ……美しいだけでなく、なんだか心から何かがあふれ出てくるような、わくわくするような不思議な気持ちだ」
かなり長い時間、ただ絵をじっと見ていた。そして、店主のほうを振り向いた。
「空画伯とはどういう人かな?」
ちょうどアトリエの奥から出てきた遥空は、ぎょっとした顔をしてさりげなく顔を伏せる。遥空の様子を見た星麗は、店主にわずかに首を振る。
「ヴェルデの画家です。残念ながらそれ以上の詳細はお伝え出来ません」
「他に空画伯の絵は?」
「〝薄明〟の他に〝日没の田園〟〝田園風景〟〝宵の空〟〝湖空〟と四作品取り扱いましたが、すべて売れてしまいました。次作を待っている人もいるほどの人気のある画家ですよ」
「その次作は?」
「残念ながら今のところは。また、聞いておきます」
「そうか。わかったら教えてくれ。ところで、この空はスプレモかな? 素晴らしい色だ」
「はい。スプレモです。そういう使い方が空画伯の特長です。これほどスプレモの魅力を引き出すことのできる画家は、今まで見たことがありませんよ」
「私もそう思うよ。この絵を譲ってほしい」
すると、また一人アトリエに入ってくる。
そして、その紳士も〝薄明〟の前に立ち、しばらく眺めた後に店主を呼ぶ。
「風景だけの絵だが、なんとも魅了される。見せてもらうよ」
「もし、お二人ともこの絵を望むなら、お二人で話し合ってください」
どちらの紳士も絵の価値がよくわかっているようだった。二人の紳士の様子から、どちらに譲っても絵は大切に扱ってもらえることが窺える。
二人の紳士は長い時間をかけて話しをしていた。結局、大金貨三百枚で売れた。店主は前回の絵と同じ値段を提示したが、客同士が話し合い、競い合った結果、結局三百枚になった。最初に店に入ってきた紳士が絵を手に入れた。
一連のやり取りを黙って見守っていた星麗は、紳士たちが店を出るや否や、こらえきれずに口を開いた。
「すごいよ。遥空! 空画伯、すごいよ!」
星麗は自分のことのように嬉しくてたまらず、気が付くと興奮のあまり遥空の手を強く握っていた。遥空は照れ臭そうにしている。
「忘れないでね。僕が空画伯の第一号のファンなんだよ」
「もちろんだとも。すべてが、天空の郷あってこそだよ。貴星様が絵を描く環境を快く提供してくれたし、郷の職人たちもスプレモのことをよく教えてくれたからね。あと、何よりも星麗が絵になる風景を教えてくれたしね。天空の郷のみんなが空画伯を生み出してくれたんだよ」
「ありがとう。でも、遥空の才能があってこそだよ。天空の郷はそのお手伝いをしているだけだよ」
空画伯の絵は、もはや下級貴族程度では手が届かないような価値となっていた。ファンもついている。新作が出るのを今か今かと待ちわびている。
「空画伯が数人出てくれば、絵画の市場は大きく伸びます。広く、画家やその卵たちに呼びかけたいですよね」
星麗はもちろん、遥空も、傅も皆、風景画を切り口に、市場が動き出す予感を同じように感じていたのだろう。皆、店主の言葉に大きく頷いた。
「ああ、残念なのは、私個人の力では、こういうふうにアトリエを構えて絵を展示して売ることしかできない。もっと、大きなうねりを起こせそうなのに……」
店主はいかにも残念そうだ。