12. 暁の空
遥空が郷に来て十日ほど経つ。すっかり郷の生活にも慣れたようだ。
昨日からカンバスに向かい始めた。
「遥空、シエロを試してみて」
星麗は遥空にシエロを渡す。遥空には、寝室とは別に、隣の部屋をアトリエとして使えるように準備した。星麗は、絵を描くには、これ以上ないというほどの環境を一生懸命に提供する。
「ありがとう、星麗。こんなに快適な環境を準備してもらって感謝しているよ。私は、シエロでもう一度星空を描きたいと思っているんだ」
星麗は、遥空に自分の誠意が伝わったのが嬉しかったし、遥空がシエロで絵を描こうとしているのにもワクワクして、顔のゆるみが止まらない。
「〝再会〟はシエロだけで描きたかったので、顔料の関係で小さな絵になったんだ。星麗がお母上と話すには、小さすぎるだろう?」
「遥空、すごく嬉しいよ。だけど、あの絵はお母様との思い出でもあるけど、遥空とここで今話せているのも、〝再会〟のおかげでしょう? 僕の大切な宝物なんだよ。もう僕の一部みたいになってるんだ。僕にはあの絵に代わるものはないんだよ」
星麗は一生懸命に〝再会〟がどんなに自分にとって大切なものなのかを伝えようとした。その思いが通じたのだろうか、遥空がとても嬉しそうな顔をしている。
星麗は少し考えてから、遥空に遠慮がちに言った。
「今度は、お父様のために、あの星空を描いてあげてくれないかな」
「お父上に?」
「うん。僕にとってあの空はお母様との思い出なんだけど、お父様にとっても、お母様との大切な思い出なんだ。お母様が亡くなってからお父様はあの丘に行かないんだよ。十年近くも経つのに、まだ悲しみが消えてないんだと思う。お母様を今でも思っていらっしゃるんだね」
遥空は、星麗の父を思う気持ちが愛おしく思えて、胸が痛くなった。瞼を閉じると、三人が仲良く寝転んで星空を見上げる姿が浮かぶ。
「あの暁の空を、君たち家族のために描くよ」
遥空がカンバスに向かい始めると、集中力がすごく、食事さえまともにとらない。そんな様子にも傅は動じない。慣れたものだ。貴星も星麗も顔料作りに集中すると同じようになるからだ。
傅は手慣れた様子で、簡単に片手で食べられるような食事を作り、遥空のために用意したアトリエに運び、空になった器を下げてくる。そして、心配そうに遥空の様子を伺っている星麗に言葉をかける。
「星麗様、遥空様はきちんと食事をとっていらっしゃいます。大丈夫ですよ」
星麗も遥空に郷を一通り案内した後、いつものように大学に通い、午後はシエロ作りに精を出した。遥空が大きな絵を描いても、シエロが十分足りるように、毎日シエロを作り遥空のアトリエに運んだ。
それぞれが、それぞれの仕事をし、十日ほど経った夜中過ぎに、遥空がアトリエから出てきた。
「星麗、起きているかい?」
「うーん。うとうとしてました。どうしたの?」
「今から丘に行かないか?」
「いいよ。行こう」
遥空の絵が完成段階にあるらしい。二人で丘に登り、二人でゴロンと寝転んで、二人で星空を見上げた。
「ははっ。ここはもうすっかり僕たちの場所だね」
「そうだな。夜風が気持ちがいい」
「うん。今日は特に星が綺麗だね。完成したの?」
「ああ。たった今、画題を決めた。完成だ。よく描けたと思う」
「早く見たいな」
そう遥空には声をかけたが、星麗はほっとしたような、同時に寂しいような気分に襲われた。寂しい気持ちの正体はわかっていた。
(完成した後は、遥空はどうするんだろう)
「帰ったら、ゆっくり休んでください」
「星麗もな。シエロをたくさん使ったよ。シエロは星麗が一生懸命に作ってくれたのだろう? ありがとう」
「僕にできることをしたんだよ」
「本当にありがとう。シエロを思うままに使えたので、イメージ通りに描けたと思う」
「本当に? 早く見たいなぁ」
星麗は遥空がこの後どうするのかが気になって仕方がい。遥空の答えが怖いけれど思い切って聞いてみた。
「絵が完成したからヴェルデに帰っちゃうの?」
「いや、もっと書きたいものがあるんだ。しばらくこちらで描いてみたいが、いいかな?」
「もちろんだよ! すごく嬉しいよ! はい。どうぞ。気が済むまで居てください!」
「ありがとう。じゃあ帰ろうか。絵を見てもらいたいんだ」
「うん。僕たちの家に帰りましょう」
星麗は先程までの不安な気持ちが一掃されすこぶる元気だ。勢いよく立ち上がると、風を切るように丘を一気に駆け下りた。
〝暁の空〟と題した絵は、まさに圧巻だった。
優しさが空から降ってくるような、なんとも言えない感動を呼び起こさずにはいられない絵だった。何かに包み込まれるような安心感を覚えた。
星麗は心が震えた。
〝暁の空〟の前に立つと、母の愛に包まれたようだった。
星麗は、感動のあまり遥空に抱きついた。涙が流れてきた。感極まった。
貴星も、完成した絵を見て、しばらく動けなくなっていた。そして、静かに涙を流しているのが見えた。
「聖明……」
そうつぶやいたように聞こえた。
傅も右幻と左幻も、そして郷の皆も、絵を前にして茫然と見つめたあと、星麗たちと同じように涙を流す者もいた。見る者に一番欲しい言葉を語りかけてくれる、そういう絵だった。それぞれの心にある渇望を癒すように〝暁の空〟は微笑むようにそこにあった。
星麗は、こんな絵を描ける遥空がうらやましくもあり、誇らしくもあった。手放しで遥空を褒めたたえた。シエロは遥空の手によって、生き生きと輝いている。
言葉には出さないが、星麗は遥空を必要とし、遥空にも自分が必要とされていると感じ始めていた。
「お父上に、絵を見て少しでも安らいでいただけるといいのだが……」
「大丈夫だよ。お父様は〝暁の空〟を見ているときに、すごく優しくて、すごく幸せそうな顔をしてるんだ」
貴星は館の広間の正面に〝暁の空〟を飾った。夜になると、毎晩、絵の前に座り、絵を眺めながら長い時間を過ごしている。
「お父様は、きっとお母様と毎晩話しているんだよ」
星麗は父が〝暁の空〟で母と再会している姿が目に浮かんだ。
「遥空、本当にありがとう」
数日たったころ、貴星は広間の〝暁の空〟を前にして遥空と話していた。
「遥空殿、ありがとう。〝暁の空〟は妻と星麗と過ごした幸せな時間に私を連れて行ってくれる」
遥空に優しく微笑みかけた。遥空は照れくさそうにしている。
「星麗が〝再会〟で安らげると言っていたが、私も、〝暁の空〟に心が満たされるよ。遥空殿の絵は、不思議な力を持っているね。心が落ち着いて、とても気持ちがいいんだ。」
「ありがとうございます。貴星様と聖明様、そして星麗の三人が仲良く寝転んで星空を見上げる姿を思い浮かべて描きました。気に入ってもらえて嬉しいです」
「私は、遥空殿が天空の郷に現れたことに運命を感じているんだよ。遥空殿の画力、星麗のシエロのどちらが欠けても〝暁の空〟は生まれなかっただろう? 遥空殿の才と星麗の才の二つのがカンバス上で一つに重なった〝暁の空〟は、まさに、奇跡としか言いようのない絵だと思うよ」
シエロは顔料のままでも美しい青色だが、絵に塗られた瞬間から、キラキラと輝きを増す不思議な顔料だった。それは〝再会〟が気づかせてくれた。そして、今回〝暁の空〟をみて貴星は確信した。シエロは遥空によって輝く本領を発揮できるのだ。
あの丘の星空が二つの才能を一つに結び付けた。シエロは暁の空の色だと星麗は言う。毎夜、幼い星麗を丘に連れ出し星空を見させ続けた聖明には、本当の美しさというものが分かっていたのだ。聖明の審美眼のすばらしさ、またそれを星麗にしっかりと伝えて旅立ってくれたことに改めて感謝した。
(私はいつまでたっても君にはかなわないよ)
貴星は〝暁の空〟の前に座り、心の中で聖明に話しかけていた。
そして、ひとしきり絵を眺めた後に、立ち上がって呟いた。
「今度は、私が伝える番だね」




