プロローグ
空を舞う蝶を追いかけて向こうから走ってきたのは、まだ幼い男の子だった。
手の届かないところへ行ってしまった蝶を見えなくなるまで見送ると、後を振り向いた。
「あれっ? 傅? もりは……」
男の子は、急いであたりを見回す。後ろには誰もいない。
「どうしたの? 一人?」
従者を連れ、上質な衣服をまとう見るからに貴族然とした少年が、男の子に話しかけた。
男の子は、まだ五、六歳ぐらいだろうか。頭をベールで被っている。
「傅とはぐれちゃったのかい? お母上かい?」
「ううん。傅はもりだよ……」
男の子が上を見上げた瞬間、男の子の頭からベールがずり落ちた。
絹のように艶やかな青みがかった髪と、澄みきった青い瞳があらわになる。その青い瞳が見る見るうちにうるみだし、大粒の涙が頬を伝ってはらはらと落ちた。まるで宝石のように光り輝く涙を拭きもせずに、髪を風になびかせて、男の子はただ泣いている。その姿はこの世のものとは思えないほど清らかだ。
(天使の涙……)
生まれたてのように無垢な空気をまとう男の子に、少年はなだめるのも忘れ、しばらく見とれていた。
ようやく我に返った少年が男の子に話しかける。
「名前は?」
「星麗」
それだけ言うと、また、宝石のような涙が一粒こぼれ落ちた。
「この町に住んでるの?」
星麗と名乗った男の子は首を横に振る。
少年は〝傅〟を探すことにした。涙する星麗からようやく傅のことを聞き出し、小さい手が指さす方向に従者を向かわせる。
しばらくすると、遠くから声がして、女性が従者に導かれて駆け寄ってきた。
「星麗様! ああ、星麗様!」
「傅!もりぃ!」
星麗も女性に向かって走り出し、手を伸ばす女性の胸にすっぽりと収まった。傅と呼ばれた女性はしっかりと星麗を抱きしめる。
「良かった。ご無事で……」
すぐに星麗の涙をぬぐい、頭をベールで被う。そして少年に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよろしいのか……」
「礼など結構ですよ。無事に会えてよかったですね」
星麗は、小さな手でベールをかき分けて顔をあらわにし、少年に向かってちょこんと頭を下げる。
「お兄さん、傅をみつけてくれてありがとう」
頭をあげたその顔は、泣き顔から一転、こぼれるような笑顔になっている。
「ようやく笑顔になったな」
少年は、しなやかな手で星麗の頭を撫で、優しい眼差しで微笑む。
すると、星麗は少年の瞳を覗き込んだ。そしていかにも嬉しそうな顔をして、首からぶら下げていた小瓶を取り出す。
「これ、お兄さんにあげる」
満面の笑みを浮かべ、ガラスの小瓶を少年に差し出した。
中身が透けて見える。深い青色だ。少年が瓶を光にかざすと、キラキラと光る。
「なんと美しい……これは……スプレモかな?」
「ううん。スプレモじゃないよ。似てるけど違うの。僕の一番好きな青い顔料だよ。シエロって言うんだ」
「シエロ……」
「お兄さんの瞳はお母様と同じ色だね。僕、お兄さんの瞳が大好きだよ!」
風になびく金色の髪を長い指でかき上げながら小瓶を見つめている少年は、とても美しい琥珀色の瞳をしていた。
星麗は再び少年の瞳を覗き込むようにしばらく見ていた。
「お兄さん、絵を描くんでしょう?」
「わかるのかい?」
「うん。わかるよ。お兄さん、シエロ使ってみてね」
そこに、脇に控えていた少年の従者が遠慮がちに耳打ちする。
「遥空様、そろそろ、急ぎませんと……」
少年は従者に頷きながら、星麗と視線があうように少し膝を折り、優しい笑顔で星麗の頭を撫でる。
「ありがとう。いつかシエロで描いた絵を見せてあげるよ。気に入ったら進呈しよう」
そう言うと、従者から手綱を受け取って馬に飛び乗り、馬上からシエロを持った手を高々とあげ、颯爽と去って行った。
「約束だよ!楽しみにしてるね」
星麗は、声を張り上げて、大きく手を振った。
「本当にありがとうございました」
傅は深々と頭を下げる。