complementary color -red-
連載としてちょっとずつ書き進めた蘇芳目線の物語を短編としてまとめてみました。
初めに書いた常磐目線の短編complementary colorとは若干内容が違います。
※ほんのちょっとだけ加筆した連載最終話を追加しました。
滅多に人の通らない会社の裏の一角。
ここが俺、蘇芳 浅緋のお気に入りの場所だ。
会社に入って約2年。
ここで1人昼飯を食べ、本を読むのが習慣になっていた。
なのに
「今日も来た…」
読んでいた本から少しだけ目線を上げ、喫煙所に来た常磐の姿を見て呟く。
いつの頃からか嫌みな先輩、常磐 柊悟が少し離れた喫煙所に来るようになった。
最初に気付いた時はギョッとして身を固くしたが常磐はいつも神妙な顔で煙草を一本だけ吸い、戻って行く。
俺に気付いてないのかと思っていたが暫く経った頃、ふと目を上げると常磐と目が合った。
「…!」
一瞬凍りつき直ぐに目線を本に戻した。
一瞬だったが明らかに目が合ったし、今度こそ1人裏で過ごしてる事に対して散々嫌みを言われるのか…と憂鬱になったが常磐が昼休みについて触れる事は無かった。
それから慎重に観察していると常磐は本を読む俺を見ている…ように見えた。
『常磐何考えてるんだ?いくら本読んでても流石に気付くと思わないのか?……もしかして…』
そう思って本を閉じ、横にに置いていた眼鏡をかけて喫煙所をそっと見た。
戻ったのか陰にでも移動したのか常磐の姿は見えない。
『やっぱり俺の視力が悪いと思ってるのか…?』
他人と直接目を合わせるのが嫌だから気休めで眼鏡をかけてるだけで度は入っていない。
眼鏡を外して本を読んでいるから気付かれないはず、そう思ってる?
だとしても何で遠くから気付かれないように見る?
企画室で嫌と言う程顔を合わせてるってのに。
まさか常磐俺の事……。
「フフッ…」
そこまで妄想してふと笑いが込み上げてきた。
まさかそんな事あるわけがない。
常磐は嫌な先輩だし、俺も最低の人間なんだから。
俺は順風満帆な人生を歩んでいる…はずだった。
クォーターで肌も髪も目も色素が薄く、スラッとした長い手足。
タレ目がちで笑うと幼く見える優しい顔立ち。
俺は小さい頃から自分が他人の目にどう映るのかを理解していた。
この顔で愛想の良い優等生を演じていれば人生なんて楽勝だー。
そう思っていた。
華の学生生活とは裏腹に就活は最低で最悪だった。
希望していた企業は全て落ちた。
それどころか『ここは無いな』と嘲笑っていた会社にさえも採用されなかった。
人生で初めて追い詰められた俺は手当たり次第に面接を受けようやくちっぽけな会社に入った。
思い描いていた物とは全く違う生活にやる気は無く、俺は長年被ってきた優等生の仮面を脱ぎ捨てダラダラと無気力な日々を過ごした。
先輩の常磐からは毎日嫌みや小言を言われ続けたが『俺はこんな所にいるはずじゃない』と全て聞き流した。
『こんな会社すぐに辞めてやる』
そう思いながらも世間体を気にして辞める事が出来ないまま1年が過ぎた頃、俺は大きなミスをした。
『常磐が居なくても俺だけで出来る』
不在だった常磐の確認を取らず進めた企画に最終段階でミスが見つかった。
ぎりぎりで大きな損害は免れたものの取引先にまで迷惑をかける事態になった。
『もう無理だ。辞めようー』
ミスがわかった時に思ったのはそれだけだった。
自分のミスを認めたくもなかったし、これ以上常磐から陰湿な言葉で責められる事にも耐えられなかった。
俺は逃げる事しか考えていなかった。
だがミスの発覚後常磐からは何の叱責もなかった。
もちろん取引先へのフォローなどやらなければいけない事が山のようにあったが、それでもいつもの何倍もの嫌みを浴びせられると思っていた俺は拍子抜けし「辞めます」の言葉を出す機会タイミングを見失ってしまった。
辞め損ねた俺は仕方なく常磐と後処理に奔走したが、その間も険しい顔をしているものの交わすのは最低限の言葉だけだった。
『もう俺には怒られる価値すらないのか』
常磐からの叱責を恐れていたはずなのに、いつの間にかこんな事を考えていた。
ーだが違った。
「俺は降格でも異動でも構いません。ただ、蘇芳には企画の仕事を続けさせて下さい…!」
俺の居ない所で常磐は上司に頭を下げていた。
この目で見て、聞いても信じられなかった。
俺の事が気にくわなくて、いつも些細な事で嫌みを言う常磐がー。
そんな事を思い出しながら本からまたそっと目線だけを上げると常磐が煙草を灰皿に押し込むところだった。
常磐は煙草を灰皿に押し込むと2本目の煙草に火を付けた。
『…ん?いつも1本だけ吸ってさっさと戻るのに…』
不審に思いながらもジロジロ見るわけにもいかず仕方なく本に目を戻したが全く集中できない。
そういえば最近『辞めたい』と思わなくなったな、とぼんやり考える。
1年前まで毎日のように『辞めたい、辞めてやる』と思っていた。
別に仕事に満足しているわけじゃないし人間関係だってそうだ。
常磐は今も小言や嫌みが多い。
でもあの日から会社ここに居る事がそんなに苦痛ではなくなった。
学生時代は優等生のふりをして、でも自分の利益にならない事は出来るだけ穏便にかつ容赦なく切り捨ててきた。
それを悪いと思った事もなかった。
そんな中で築いてきた人間関係は就活に失敗してちっぽけな会社に入ってから呆気なく崩れた。
彼女とは別れ、友達とも疎遠になった。
みんな俺と一緒に居たのは華やかな優等生だったからだ。
そうじゃなくなれば切り捨てられる。
今まで俺がしてきたように。
でも常磐はイイコじゃない俺を切り捨てなかった。
心地好い風に乗ってフワッと新緑の香りが漂ってきた。
やけに感傷的だな。春だからか?と独りごちる。
流石に常磐も戻っただろうしいい加減昼飯を食べないと、と思いながら喫煙所に目を向けるとそこにはまだ常磐の姿があった。
ギョッとするが幸い俺の方は見ていない。
じっと手元を見つめてたかと思うと歩きだした。
やっと戻るのかとホッとしていたがこっちに向かって来る。
『…何だ?』
俺は気付かないフリをしてまた本に目を落とす。
近くで仄かな煙草の匂いと常磐の立ち止まる気配がしたが何も言ってこない。
おそるおそる目を上げると常磐が何か言いたげな顔のまま固まっていた。
『……は?常磐何してるんだ…?』
何が起きているのか全くわからなく苛立ったが、この状況で知らん顔をするわけにもいかず俺は本に没頭していてさも今気付いた様に振るまうしかなかった。
「…常磐先輩…いつからそこにいたんですか…?」
俺が声をかけると常磐は金縛りが解けたようにハッとして口を開いた。
「…お前さぁ、先輩がいるのによく無視して本が読めるよな」
口調はいつも通りだがほんの少し目が潤み、顔も青ざめているように見える。
『そんな事より先輩、毎日そこの喫煙所から俺の事見てますよね?あれ、もしかして気付かれてないと思ってました?』
常磐の潤んだ目を見て咄嗟にこう言ってみたい衝動に駆られた。
見ている事に俺が気付いていると知ったらどんな反応をするんだろうか。
誤魔化すのか罵倒するのかそれともー。
「…すみません…本に夢中になってて…全然気付きませんでした…」
妄想を頭の奥に仕舞いながらそう言って常磐から視線を逸らし側に置いていた眼鏡を掛ける。
「おい、もうすぐ休憩時間終わるぞ。さっさとメシを食え。お前がグズグズしてると俺にも迷惑かかんのわかってんの?」
常磐はまた少し辛そうな顔をして俺ではなく、横に置いてある袋を見ながら話し続ける。
「あ…すみません…早く食べます…」
今日は常磐が喫煙所に居続けたせいで食べそこねてしまっていた昼飯の袋をガサガサと開ける。
中にはサンドイッチが2つ。
そういえば常磐もずっと喫煙所に居たが何か食べたんだろうか?
「あの…先輩も食べませんか…?全部食べる時間なさそうなので…」
言い訳がましいかな、と思いつつ常磐がどんな反応をするのかも気になってサンドイッチを1つ差し出す。
「……仕方ねーな。ホントいつまで経ってもどんくさいよなお前。」
常磐は驚いた顔でまた一瞬固まったが、差し出したサンドイッチを奪い取り俺の隣に乱暴に腰を下ろした。
『中学生かよー』
常磐の反応に笑いを噛み殺しながらサンドイッチを食べ、魔法瓶からお茶を注ぐ。
甘い香りの熱くて渋いウバ茶を飲むと気持ちが落ち着く。
ふと視線を感じて横を見ると常磐と目が合った。
「……飲みます…?」
俺は何も考えず飲みかけのカップを差し出した。
常磐はカップを無言で受け取りそのまま一気に飲み干す。
「熱ッ…!」
常磐の声にハッと我に反る。
「…すみません…熱かったですか…?…しかも飲みかけだったし…すみません…」
謝る俺に空のカップを突き返しながら常磐は顔を背ける。
「うるさい!お前ちょっとだまれ!」
口調は荒く顔は見えないが耳まで真っ赤だった。
そんなに熱かったか?
まさか本当に飲みかけを気にしてるわけじゃあるまいし…と思っていると「ときわー!」と遠くから声がした。
声の方へ目を向けると営業の山吹さんが常磐の元へ走り寄ってきた。
「聞いたぜー!お前異動になるんだってなー!寂しくなるよー!」
言葉とは裏腹な満面の笑みで山吹さんは常磐の両手を握る。
それを見て冷たく重いドロッとした物が身体に流れ込んだ様な不快感がして眉間に皺が寄る。
そんな俺の態度には気付かず山吹さんは手を離すと今度は常磐に抱きついた。
ドロッとした物が身体の中で沸々と煮えたぎる。
山吹さんと常磐の襟首を掴んで引き剥がしたい衝動に駆られた。
「いやー、でもさー異動っても昇進だろー!?ホント羨ましいぜー。今度絶対何か奢れよなー!!お、すおー!元気してるかー?お前も先輩が居なくなってせいせい…じゃなくて寂しくなるよなー」
笑顔でまくし立てる山吹さんはそう言うと横に居る俺を見てギョッとした顔になる。
「…おっともう行かねーと。じゃーなー!」
また直ぐに笑顔に戻った山吹さんは常磐から体を離してあっという間に走り去って行った。
「…全く何しに来たんだ…元々部署が違うんだから今さら寂しくなるも何もないだろーが。…それに何で俺が奢らなきゃいけないんだよ…」
俺の中ではまだ冷たくて熱い何かがドロドロと渦巻いていて常磐の声も全く耳に入らなかった。
ー常磐が居なくなる。
これで常磐の小言や嫌みからも解放される。
山吹さんの言う通りせいせいするはずだ。
なのに何でこんなに身体が、心が重いんだろう。
『おめでとうございます』
『寂しくなります』
社会人として言うべき事はわかっている。
学生の頃からお世辞を言うのには慣れているはずなのにようやく出たのは思った以上に弱々しい言葉だった。
「…先輩…異動するんですか…?」
そんな事聞かなくったってわかりきってる。
なのにそんな言葉しか出て来なかった。
「あー、来週からな。急な異動で色々面倒だけどまぁ一応昇進だし、これでグズな後輩のお守りからも解放されるし万々歳だぜ」
常磐は俺の方を見ようともせずに言った。
「………」
俺はそんな常磐の横顔を見つめながらも自分の中に渦巻く感情の正体からは目を反らしていた。
「おい、メシが済んだらさっさと戻れよな」
沈黙する俺にほんの少し震える声で常磐が言った。
その声を聞いて俺は考えるのを止めた。
立ち上がって常磐の両手を掴む。
「は!?お前何すんだよ!」
常磐は上ずった声を出して俺の手を振り払う。
常磐こそ何するんだよ。
山吹さんの手は振り払わなかったくせにー。
そう思って『ああ、この感情はやっぱり嫉妬と愛着なのか』と納得せざるを得なかった。
気持ちが吹っ切れると今まで何人もオトしてきた表情と僅かに甘えた声が自然に出た。
「え…山吹さんと常磐先輩がさっきこうしてたので…。僕とじゃイヤでしたか…?」
常磐はそんな俺を見て唖然とし、それから目を泳がせて必死に何かを考えているようだった。
そしてようやくぶっきらぼうに一言だけ呟いた。
「……別にイヤじゃねーよ」
それを聞いた俺はとっておきの笑顔を返す。
「イヤじゃなくてよかったです」
もう一度常磐の手を取って振りそして抱きつき背中を叩く。
常磐は身動いだがもう俺を振り払おうとはしなかった。
しばらくすると全身ガチガチでオロオロしていた常磐からふっと力が抜け、両手を俺の背中に回し壊れ物を扱うようにゆっくりと優しく抱き締めた。
常磐の体温と鼓動が伝わってきてどうしようもない愛おしさが湧き上がってきた。
俺は背中を叩いていた手を止めぎゅっと強く締め付ける。
ビクッとした常磐の耳元に口を近付け
「先輩ってホント優しいですよね」
とさっきよりもずっと甘く囁いた。
呆然とする常磐を抱き締めながらそういえば俺は欲しいと思った物は手段を選ばず手に入れる人間だったよな、と思い出していた。
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暑い。
あまりの暑さに茹で上がりそうだ。
滅多に人の通らない会社の裏の一角。
ここが俺のお気に入りの場所だ。
少し前まで同じ部署だった嫌な常磐から解放されるために見つけた場所だった。
今はもう常磐はいないしここに来る必要はないけどここが落ち着く場所に変わりはなかった。
少し離れた喫煙所に目向けるがそこに常磐の姿はない。
新しい部署に移って常磐は滅多にこの喫煙所に来なくなった。
昼飯も食べ終え暑さで本に集中も出来ず暇を持て余し空を見上げる。
容赦なく日差しが照りつける真っ青な空。
そういえばあの日見上げた時もこんな空だったな、とぼんやり思い出した。
一年前、大きなミスをした俺は辞表を胸に部長の元を訪れた。
だが部屋からは人の話し声が聞こえてきた。
『誰だよタイミング悪いな』
来客の予定もなく、常磐も外出しているから辞表を出すのは今日と決めていたのに。
心の中で舌打ちをしてそっと中の様子を伺う。
「今回の件は本当に申し訳ありませんでした。責任は全て私にあります」
そこには外出したはずの常磐の姿があった。
全身は見えないが常磐が部長に深々と頭を下げている。
『は?何で常磐が?アイツ何やってんだ…?』
俺は呆気に取られた。
「…今回の件は蘇芳君が君に確認も取らずに企画を進めたからだろう。責任を取るべきなのは君じゃなく蘇芳君じゃないのか?」
普段は温和な部長の冷たい声に背筋がゾッとした。
ああ、俺は辞表を出す前にクビになるのかー。
「いえ。不在だったとはいえ企画を進めている事は知っていましたし、戻ってからすぐにチェックをする事も出来ました。それを怠ったのは私の責任です。それにー」
と少しいい淀む。
「ーそれに蘇芳が私に確認を取らなかったのも私のせいです。…私が蘇芳に対して普段から必要以上に厳しく接していたから俺…私に言い出す事が出来なかった。そんな状況を作ったのは私です。ですから蘇芳の責任ではなく全て私の責任です」
苦し気な常磐の言葉に俺の頭は真っ白になる。
「でも蘇芳君は入社当初からあまりやる気も見られないし、ミスだって多いじゃないですか。常磐君が厳しくするのも仕方のない事でしょう。そして普段ミスが多いのに確認も取らずに大事な企画を進めるなんて蘇芳君は本当に何を考えているのか…。面接の時はもっと賢い子だと思ってたんですけど期待外れでした。常磐君もとんだ貧乏くじを引いてしまいましたね。」
そう言って部長は嘲笑うかのようなわざとらしいため息を吐いた。
「俺は貧乏くじを引いたとは思っていません!!」
いつもとは違う常磐の大声に身体がビクッと震え、思わず辞表の入った上着の胸元をぎゅっと握り締める。
「…たしかに蘇芳はミスも多いしやる気に溢れているとは言えません。でもまだ1年です。それに今回の企画には今までになく真剣に取り組んでいましたし、これからだと思っています。…でも俺が蘇芳の芽を潰してしまっているのかもしれません。」
さっきの大声が嘘のように段々と声が小さくなり最後の方は消え入りそうな声になっていた。
「俺は降格でも異動でも構いません。ただ、蘇芳には企画の仕事を続けさせて下さい。」
常磐は下げた頭を一層低くし部長に懇願する。
「………常磐君がそう思っている事を蘇芳君には伝えましたか?」
長い沈黙の後、部長はいつもの穏やかな声でぽつりと問いかけた。
「…いいえ…」
こちらも少しの沈黙の後ぽつりと答える。
「常磐君はまぁ、普段から口は良くないですが蘇芳君に対しては更に言葉が厳しくになりますよね?きっと蘇芳君は野良犬が威嚇している様に見えるんでしょう」
と言って、まぁ私からしてみれば可愛い仔犬が赤ん坊に纏わりついてキャンキャンと鳴いている様にしか見えませんがね、とボソッと付け加える。
「初めての後輩で気に入っているからこそ力が入るのもわかりますがあんまり自分を偽らない方が良いですよ。…お互いにね」
部長は小さい子を宥めるように言う。
「………」
その言葉に常磐は頭を下げたまま無言だ。
「それから処分の件ですが…」
と言いかけると常磐の体がぴくっとした。
「今週末に二人で地域ボランティアの清掃活動に行ってもらいます」
常磐はがばっと身を起こす。
「…それだけ…ですか…?」
「それだけ、とは何ですか。不満ですか?週末は暑くなるそうですしかなりの重労働ですよ。ふたりで力を合わせて清掃活動に励んで下さいね」
そう言って部長はニッコリ微笑んだ。
常磐ははっとしてもう一度頭を下げた。
「…ありがとうございます…!」
「いゃぁ、常磐君が入社した頃を思い出しますねぇ…。君はやる気だけはあるけど、本当にやる気しかなくて…あの頃は大変でしたねぇ…」
部長は顎に手を当てニヤニヤしながら常磐を見る。
「イヤ、それはもうカンベンして下さい…ってか部長にはマジで俺がキャンキャン吠える仔犬に見えてるんスか…?」
常磐はオロオロしながらも楽しげで確かに犬みたいだなぁと思った。
まだふたりの会話は漏れ聞こえて来たが、俺はそっと部屋から離れる。
無意識にずっと胸元を握り締めていた手をようやく離すとスーツにはシワが寄り、辞表もグシャグシャに潰れていた。
頭はまだ混乱していたが『こんなシワの寄ったスーツでグシャグシャの辞表を出すなんてカッコ悪いよな?辞めようと思えばいつでも辞められるんだし別に今日じゃなくても…』と、誰に対してかわからない言い訳を考えながらいつの間にか俺はいつものお気に入りの場所に来ていた。
容赦なく日差しが照りつけじんわりと汗が滲む。
ああ、暑いな。
週末はもっと暑くなるのか。
こんな暑い中で常磐と清掃作業なんて笑えないよな。
そう思いながら自分が笑っているのに気付く。
ーホント笑えない。
汗と一緒に涙が滴り落ちる。
どうかしてるよ俺は。
汗も涙も拭わず、俺は真っ青な空を見上げながら微笑んでいた。
そんな事を思い出していたら久しぶりに喫煙所に常磐が現れた。
いつもの様に煙草を一本だけ吸い、そして俺の方へやってくる。
「おまえまだこんなとこで飯食ってんのか。暑くねえの?」
額に汗を光らせながらいつもと変わらない口調で話し掛けてきた。
「別にいいじゃないですか。ここが落ち着くんですよ」
俺は涼しい顔をして言った。
想い出の場所ですしね、と心の中で付け加えながら。
「わっかんねーな。お、もう昼終わるぞ。おまえもさっさと戻れよな」
常磐はそう言うと手の甲で汗を拭いながら踵を返す。
あまりにもあっさりと帰ろうとするのでちょっとだけ意地悪をしたくなった。
「今日の約束忘れてませんよね?柊悟さん」
俺が常磐の背中に声をかけるとピタッと足が止まった。
「おまっ…先輩って呼べって言ってるだろうが!!」
振り向いた顔が真っ赤なのは暑さのせいだけではないだろう。
そんな常磐の顔を見たら笑いが込み上げてきた。
クククッと笑う俺を見て常磐はさらに耳と首まで赤く染める。
「…いつか仕返ししてやるからな、覚えとけよ!」
常磐は真っ赤な顔で言い放った。
「もちろんいつでも受けて立ちますよ」
俺が挑発的に言うと常磐はムッとした顔をして戻ってきた。
そして辺りをキョロキョロと見渡すと俺の腕をぐいっと掴んで引き寄せ頬にキスをした。
「約束忘れるわけねーだろ浅緋」
耳元でそう言うと俺が返事をする間もなく脱兎の如く走り去っていった。
「ホント何考えてるんだか」
頬に残る熱い感触の余韻を感じながら今日は早く仕事を終わらせようと俺は企画室へ急いだ。




