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第五章 読み合いの末に(一)

 訓練はなぜかアントニーの屋敷にある屋内運動場が使われた。

 軍事訓練は個人レッスンで、教官はチャン・リー本人だった。リーは髪を後ろで縛り、緑色の綿のパンツに、クリーム色の地味な上着を着ていた。

 ジョセフかアントニーが、リーの所属する組織の上得意だった。あるいは、ジョセフがリーの所属する組織に出資している可能性が高い。


 どちらにしろ、ウリエル一族が絡むと、ろくな結末がないので、深くは聞きたくなかった。絶対、藪を突ついて蛇を出す行為になる。

「まずは基礎体力を知りたいね」とリーが申し出た。

 趣味でクロスカントリー・スキーをやっていたので、体力には、ちょっとだけ自信があった。

 雪原七十㎞は制限タイム内なら、余裕で完走できる。スクワット五百回、懸垂五十回もいける。

 訓練を開始すると、すぐに思い知らさられた。走り込み、腕立て、腹筋、スクワット、懸垂、何をするにも、リーのペースは等々力には早過ぎた。


 リーは映画で見るような汚い言葉遣いもしなければ、殴りもしない。

 何度も「もっと早くするね」「遅いね」と催促された。リーのスピードに合わせたら、二時間掛からずに限界が来た。

 リーがせっかちなのか、軍人級のトレーニング強度では普通の速度なのかは不明。要求される運動量は、マイペースならこなせるが、速度を求められると、従いていけなかった。


 リーは等々力と同じ運動量をこなしたが、息を切らせることは一切なかった。リーが左近に広東語で何か話していた。

 何を言っているかは広東語なのでわからないが、空気から、だいたい理解できる。

「こいつは、予想以上に酷い」「日本の男は、こんなに鈍臭いのか」「この男、たぶん死ぬよ」「他に適任者はいないのか」的な不満を、リーが静かに左近に並べているのだろう。


 左近は言い方を変えているが「任せてください。きっとうまくいきますよ」的な言葉で宥めている。

 等々力は激しく脈打つ自分の心臓の音を聞きながら、リーから依頼を解除してくれる事態を心の底から望んだ。

 リーのペースは、辛すぎる。けれども、リーは一緒に運動していなかったかのように振舞っている。リーのペースで訓練が一週間も続くなら、脱走したい。


 けれども、リーから逃げきるのは、不可能だ。リーの纏っている空気から、伝わってくる。リーは、仕事のできる人間で、裏切りは許さないタイプだ。逃げれば、軍曹より先に狙撃されて、あの世行きだ。


 リーが広東語訛りのある日本語で命令した。

「休むの、よくないね。あと、十周する、よろしい。できるだけ速くね」

 等々力は半ば自棄(やけ)になりながら、回復しきっていない体で一周四百mのトラックを走り出した。走りながら考えた。

 ガニーとリー両方に接した等々力だから、わかる。おそらく、単純に狙撃の腕だけなら、リーのほうが上だ。ただ、誘拐、潜入工作、防諜活動など、柔軟性が要求される仕事なら、ガニーのほうがうまく適応できる。


 現に前回も予期しないトラブルで事態が悪い方向に転がっても、ガニーは焦って無理に動かなかった。動かない判断をするほうが難しい時もある。ガニーならリーが予想しない位置から狙撃するかもしれない。

 左近が評した五分五分の戦いは、あながち間違いではない。だからこそ、影武者が必要だとリーは判断した。


 もし、ガニーがリーの影武者である等々力を狙ったとする。

 リーなら、ガニーが等々力を狙撃するより先に仕留められる可能性がある。もし、軍曹が裏をかいても、ガニーが等々力を誤認して狙撃すれば場所が割れる。裏を掻いてリーを仕留めたと思っているガニーを狙撃するのなら確実だ。


 無理なら諦めればいい。影武者作戦はリー自身の弱みを把握した上で確実に生き残るための妥当な手段だ。

 とはいえ、影武者にとっては実に有難くないお客さんだ。リーの頭の中では、等々力が撃たれたほうが遙かに安全に仕事を遂行できる。

 十周を終えて、人工芝の上に倒れ込んだ。

「すいません、少し休みを」と息も絶え絶えに申告した。


 リーが時計を睨みながら口を尖らせた。

「遅いね。遅すぎるよ。たった十周するのに、十五分以上も掛かるって、どういうことよ。やる気ないのか」

 リーは続けざまに広東語で三十秒くらい捲くし立てて、どこかへ行ってしまった。

 左近が横に座って「もう少し、どうにかできないの」と呆れ顔で発言した。


「じゃあ、あんたがやってみろよ」と文句を言いたいが、呼吸するだけで精一杯だった。

 しばらくして、呼吸が落ち着くと、左近にリーが何と口にしたのか尋ねた。

「午後から、銃の扱いを教えるから、それまで休んでいいって」


 等々力が休んでいると、アントニーが見学にやってきた。

「やあ、影武者君。調子はどうだい」

 アントニーの相手はしたくなかった。でも、場所を借りているので、無視はできない。

「ああ、最悪だよ」とだけ答えた。


 アントニーが楽しそうな顔で「なら、助けてあげようか」と申し出た。

 今回の仕事にアントニーが介入する余地はない。

 どうせ、面白半分、からかい半分だろう。

 等々力は、どうにでもなれとばかりに返事をした。

「できるものなら、助けてもらいたいね」とだけ口にして、場所を移動した。


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