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第一章 ああ素晴らしきはニッチ産業(一)

 最初に象を見たときの記憶は朧げに覚えている。大きい鼻と二本の牙が特徴的で灰色の体をゆっくり揺らして、のんびりと草を食んでいた。大きく、とても優しい目が特徴だった。

 だが、とどろき(ゆう)の目の前にいる象は素人が一目ちらっと見ても明らかに気が立っているのが丸わかりなほどに苛立っていた。


 象の体重は約五t。約五tの体重から繰り出される一撃は体重七十㎏の等々力にとっては一撃で致命傷になりかねない。

 そんな危険生物が敵意を隠さず、凶器のような大きな二本の牙を時折ぶるぶる震わせている。

 象と対峙してみるとわかったが、物理的な大きさもさることながら、気の立った象はヤクザや格闘家くずれとは比べものならない威圧感があった。


 気の立った象からは「俺はその気になれば、いつでもお前も殺れる」と、妄想に取り憑かれた薬物中毒患者が何度も呟いている姿が重なって見えるのが、また嫌だった。

 骨身に染みるほど、身の危険を感じた。象の檻と飼育員通路を隔てる鉄格子の向こうにいる相棒の左近巴(さこんともえ)に等々力は、小声で抗議した。

「一般人の影武者っていっても、飼育員の影武者は無理ですよ」


 左近巴は先月三十になったばかりのスラッと背が高い女性だ。髪は短く、中性的な顔立ち。化粧は薄い。左近は時折、男性と間違えられそうになる。

 等々力と同じく、動物園の飼育員が着る作業着姿の左近は、象が入ってこられない鉄格子を隔て、飼育員通路の向こう側にいた。


 左近が細い眉を下げて冷静に反論した。

「等々力君、人間より知性が低い動物すら騙せないようでは、影武者家業は勤まらないわよ。影武者とは、相手と外見がそっくりである必要はないわ。相手が本人だと思い込むかどうかが大事なのよ」

「思い込むも何も、相手は怒れる象ですよ。言葉すら通じなければ、話術は通用しませんよ」


 左近はどこまでも冷静に見解を述べた。

「やはり等々力君は影武者の仕事を誤解しているわ。私たちは過去にタンザニア人やエチオピア人の影武者も引き受けた経験があるわ。前任はスワヒリ語もアムハラ語も話せなかったけど、きちんと影武者をこなしたわ」


「それは人間の場合でしょう。人間なら、メイクして喋らなければどこの国の人の影武者でも可能かもしれないですが、動物相手は無理ですよ」

 等々力の言葉に刺激されたのか、象が二歩ほど歩を進めた。

 象の歩みは五tの死神の行進。牙の一突きで、等々力はあの世行きだ。


 左近は象が等々力に近づいてきても、どこまでもクールだった。

「影武者に必要なのは、言葉ではないわ。その人間が持つオーラ、いや、空気といったほうがいいかしら。本人と同じ空気を出せれば、人は外見が少しくらい違っても、同じと錯覚するものよ。錯覚すれば、空気が言葉を補強してくれ。つまり、動物を欺ければ、影武者家業は充分通用するわ」


 無茶苦茶な理論だ。等々力はすぐにも檻を開けて外に出して欲しかった。けれども、左近には、まるで等々力を助ける気が見られなかった。

 左近は仕事を取ってくる常識人だ。だが、何かの拍子でスイッチが入ると、シーンに酔う。左近は映画のワン・シーンのようなシチュエーションが訪れると浸る、シーン・ドランカーの性癖があった。


 シーン・ドランカー・モードになると、左近は状況次第で人も撃てば、他人を見殺しにできる、困った人だ。

 案外、今の左近は「ここで死ぬのなら、それまでの男と」左近自身に酔った心境なのかもしれない。


 等々力は左近の眼を見た。すると、左近は等々力を見ていなかった。左近は間違いなく左近だけにしか見えない美しい世界に入っているのが確実視された。

(まずい、左近さん、完全に状況に酔っている。見殺しにされるかも)


 左近は等々力を見ずに、火の点いていないタバコを携帯灰皿で消す仕草をした。左近は殺し屋のような冷たい目で、等々力に静かに声を掛ける。

「さあ、なんとかしなさい。等々力、何もしないと、死ぬわよ。生きたければ足掻きなさい。精一杯足掻いて、足掻いて、生を掴みなさい」


 等々力は「あ、これ、俺、死ぬかも」と思った。確実なのは、左近が完全に象の檻の扉を開けるつもりはない状況。


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