水槽の脳
「ふぅ…。これはここでいいかな。」
雑多に積み上げられていた専門書を本棚の一角に並べる。博士に頼まれた研究室の整理を始めてから既に一時間が経とうとしていた。ずいぶん片付いたし、この本の山を片付ければ終わりにしていいだろう。
「ん?何だこれ」
最後の一冊を持ち上げたとき、本の乗っていた台が黒い布のかかった箱のようなものであることに気付いた。とりあえず布を取ると、出てきたのは緑に濁った水で満たされた水槽だった。
「たっだいま~!おっ、部屋綺麗になってるじゃ~ん!!流石は西山くんだね!」
博士がタイミングよく帰ってきた。
「お疲れ様です、博士。学会はどうでしたか?」
「いつもよりいい夢が見れたよ。」
「寝るなよ。」
「おいおい、冷たい助手にはお土産あげないよ?」
博士は超元気だった。こっちは片付けで疲れているというのに。おっと、忘れるところだった。
「そんな事より博士、これ何ですか?」
「お土産を……そんな事…だと…?」
信じられないものを見るような目でこっちを見てくる。なんなんだよ。
「ああ、これか。見てしまったね西山くん。」
意味深なことを言ってニヤリと笑う。なんなんだよ。
「西山くんは『水槽の中の脳』って知ってるかい?」
「ああ、何とかって映画で有名なやつですよね。」
「…マトリックスだよ。今の世代は知らないの?」
「名前が出てこなかっただけですよ。」
『水槽の中の脳』とは、「今自分が見ている世界はシミュレートされたものであり、本当は水槽に浮かんだ脳が見ている夢のようなものなのではないか」という思考実験である。
「で、これがその水槽だって言うんですか?」
博士は黙って微笑んでいる。
「でも博士、その仮説っておかしいですよね。」
「おかしい?何がだい?」
「だって、仮に世界がシミュレートされているとしても、脳だけが本物だなんて不自然じゃないですか。それよりは、自分の思考もコンピュータ内で計算されていると考えるほうが自然でしょう。」
「なるほど、そうかもね。しかし事実は小説より奇なり、って言うじゃないか。」
「そもそも事実じゃないですよ。」
「ははは、そうだね。」
博士はとても楽しそうに笑った。ほんと元気だなこの人。
「まあ実を言うと、それは昔私がメダカを飼ってた水槽だよ。メダカが死んじゃった悲しみから目をそらすために布をかけてたんだ。」
「片付けるのが面倒だったんでしょう。藻で真緑じゃないですか。」
「何を言っているのかわからないなあ。」
博士が露骨に目をそらした。わかりやすい人だ。
「おや、もうこんな時間じゃないか。西山くん、その水槽掃除したら帰っていいよ。」
「え?これを?マジで?」
「…冗談だよ。いい顔するなあ。今日はよく働いてくれたし、明日でいいよ。」
「…でも明日やらすんだ」
博士はいたずらっぽく笑っていた。よく笑う人だ。
「はあ、疲れた。」
家に帰った西山はすぐにベッドに横になった。そして、ヘルメット型デバイスを外した。ベッドの横には巨大なサーバが鎮座し、小さくファンの音をたてていた。
「ほらね、博士。現実は水槽よりこっちですよ。」
西山は薄く笑ってそう言った。
「もっとも、観察されている博士には一生わかることはないですけどね。」
少しサーバを見つめると、西山は夕食を食べに出かけた。この後の行動はいつも同じだ。西山はいつも通り外食し、いつも通り風呂に入り、いつも通りテレビを見て、いつも通りベッドに入った。いつも同じで、見ていて面白くない。
私もそろそろ、電源を落としていいだろう。
博士はヘッドギア型デバイスを外し、ベッドから起き上がった。博士の目線の先には、水槽をのせた机があった。
「残念、現実はこっちだよ。西山くん。」
博士は嬉しそうに笑った。
「もっとも、自分は観察している側だと思っている西山くんには、一生わかることはないけどね。」
博士は机の近くまで歩き、水槽の脳を見つめてそう言った。その後、博士はわずかばかり天を仰ぐと、いつも通り夕食を食べに出かけた。この後の行動はいつも同じだ。
見ていて、面白くない。