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山を降りて、麓のドーランについた頃には街の時計台は、もう3時をすぎていた。僕は急ぎ足で広場の人混みを抜けてカインの元へと向かう。いつものようにドアについている熊よけの鈴を鳴らしてから店に入ると、カインは変わらず僕を暖かく迎えてくれた。カインは今まで見たことのないような小さな時計を置いて座っていた椅子から立ち上がり、僕に彼の真向かいの気の椅子に座るように勧めて、いつものように彼のこだわりのお茶を出してくれようとした。
「え、それは...。」
見たことのないような、小さな時計のことも聞いてみたかったけれど、今はそれどころではないと思い直す。僕はルーカスの心遣いを断って、単刀直入にルーカスの風邪について話すことにした。
「風邪をひいたときはどうすればいいのですか?」
「ルーカスか?珍しいこともあるもんだな。そうだなあ...。」
カインは少し言い淀んだ後、にかっと笑って言った。
「あいつは昔からホットミルクが好きなんだ。作ってやったらきっと喜ぶよ。」
「どうやって?」
「温めた牛乳に蜂蜜を入れてから、スプーンで混ぜるだけだ。もし万が一、風邪がひどくなったら俺のところに来るといい。最近は、この工房で寝泊まりしているから。」
カインは、何かを思い出したかのように空に向かって笑った。
「おい、あいつの一番嫌いな食べ物を知っているか?」
「いえ、知りません。」
「あいつはな、野菜スープが嫌いなんだよ。そもそも野菜がそんなに好きではないらしい。お前さんが初めてあの家に入ったときもおおかた、野菜スープを飲まされただろう?あいつは初対面のやつにはいつもそうだからな。一番嫌いなものを相手に出して、相手との距離を自分の中で取ろうとするんだな。捻くれたやつだろ?」
もしカインの言うことが本当ならば、僕はあの家に来てからずっと、失態を繰り返していたことになる。ルーカスだって、野菜スープが嫌いなら、嫌いと言ってくれればよかったのだ。そうすれば僕だって作らなかったのに。
「お前の野菜スープはほぼ毎日飲んでいるらしいな。」
カインは僕の肩に手をかけて、俯いていた僕の顔を覗き込む。
「つまり、そういうことだ。お前の居場所は、何があろうとあそこにちゃんとある。」
カインはそう言って、さらに続ける。
「あのルーカスが野菜スープをほぼ毎食食べていると言うことだけでも驚きなんだ。それに、他人をあの家に入れたこともな。あいつの変わりようをショーンに聞かせてやりたいよ。」




