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そいつは私がほとんど言い返さないことにだんだん腹が立って来たらしい。さっきよりも早口で、いかにもとってつけたような言葉も捨てて、黒々しいフロッグコートを風もないのになびかせて、帽子が飛ぶほどの勢いもついていないのに、黒々しく光を吸い込むシルクハットがふわりと地面に落ちたのがそいつの背中越しに見えた。私の顔面寸前まで迫ったあいつは、私に殴りかかって来たが、まあ、フリだけだろう。
「殴るつもりですか。」
「マトリョーシカのようなお前にならいいかもな。」
やっぱり。
そいつは黙って、軽く握られていた拳を開いた。そして、私の目を突くかのようにまっすぐに指を伸ばした。
「私は、あの時逃げ出したお前を決して許さない。それは禁じられていたはずだ。お前がサインしたこの大学の入学許可証にきちんと書いてあったはずからな。分かっていただろう。」
「はい。」
「そうじゃない。わかっているだろう。」
「私はあの時の行動を後悔してはいません。仮に悲嘆に暮れて、自ら命を絶ってしまったとして何回この人生をやり直したとしても、絶対に何も変わらない。変えられないんだ。」
「絶対か。」
「絶対です。」
「重い言葉だ。分かっているのか。」
「当たり前です。」
そいつはずっと私の目を見つめ続けていた。私が彼のハシバミ色の目の中に映る自らの瞳を探し出せるくらいに、長い間。ハシバミ色の中に映る私の目には、力がなかった。私の目の中には、そいつは、どう映っているのだろう。憎しみの込められた目?それとも、私のことなど、歯牙にも掛けていないように、こちらに焦点すら合っていないのだろうか。
「お前の目が見えなくなったら、ここへ来い。それがお前の最後の償いだろう。」
そいつはコートのポケットから取り出した黒々とした表紙のメモ帳から一枚真っさらな紙をちぎり、どこかの、まあだいたい見当は付いているのだが、住所を書き付けると、私に押し付けてくる。そのメモは、お互いの後悔を吸い取って、ひどく重く感じた。




