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ルーカスは、ここにいる間にまた少しだけ伸びた暗がりに溶け込む夜の色をした髪の毛を帽子の中へきちんとしまうと、細く入り組んだ路地を、足早に、そして手早く抜けていった。僕も小走りになって、彼の後を追う。僕がルーカスのコートの裾から目を離さないようにして進んでいると、路地よりも明るく、騒がしい通りにでる直前に、ルーカスは急に立ち止まり、僕はルーカスにぶつかるすんでの所で、顔をあげた。あまりに僕らが急に止まったから、鞄がゆらりとお互いの手の中で揺れているのを感じた。ルーカスはほんの少しその長い髪の毛を揺らし、僕の方へ顔を向けないようにして、向こうの路地の暗がりへ隠れているように、小声で僕にささやきかけて来た。なんのことだか僕はさっぱり分からなかったけれど、とにかく暗がりめがけて僕は走った。走って行く途中に、少し後ろを振り返ったら、全身黒をまとった男性がルーカスの行く手に立っているのが見えた。年齢は、分からない。彼の黒い服装は、夜のように色々なものの境界線を曖昧にしていた。
「お前、ルーカスか?」
「そうです。」
そいつは私たちが出ようとした路地の前で、辻馬車から黒々しいシルクハットを押さえながら降りて来た。まさか、こんなところでまた出くわすとは。そいつはロイスの後ろ姿を見て、口元をぐにゃりとゆがめた。歪めたのだ。
「お前も落ちたものだな。ミスティアーノ随一の天才と呼ばれたお前なら、学長の席も遠くなかったろうに。あの時、あの老害のために逃げ出したお前にはもう関係のないことかもしれないが。」
「その通りです。関係ありませんよ。」
そいつは阿呆のようにぽかんと私の方を見つめてから、その侮蔑の籠った目のままに私を見下ろして、まくし立てた。私も、もう関係ないなんて自分が言えるようになるとは思っていなかった。
「その天才が、今や路地裏の汚らしい子供に財布をすられそうになるとはな。そして、お前は私に負けて、学長の座を譲ったというわけだ。」
「そうですね。」
お前は何もかもを中途半端にして、何もかもを手に入れられなかったんだと、男は私を睨みつけながら言葉を続けた。私の手には、本当に自分しか残らなかった。負の感情すらも残らずに、ただ私に残されたのは、生きることだけだった。あの時、どうすればよかったのか。どちらかを取っていたら、私は今、どうなっていたのだろうか。今よりも、私の手に残ったものは多かったのかも知れない。道を選ぶという選択はいつでも急だった。私が、道を選択しなければいけない時は、大抵、自分のことしか考えられなくなっていて、時間が経って、自分に余裕ができてからふとあたりを見回したら、いつも何かを失っていた。「何にも代えられないもの」なんて、存在しない。何かの代わりにできるものなんて、私にはほとんどないはずなのに。「何にも代えられないもの」は、気がついたら、奪われているのだから。深い深いドブの中に落として来てしまったのかもしれない。ここ、ミスティアーノに来ることを決めなければならなかった時も。ジョンが死んだという速達をもらった時も。そして、ロイスを養子にした時も、きっと私は何かを失っているのだろう。




