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何も返せなかった。僕は黙って医者を送り出すことしかできなかった。僕が寝室のベッドの脇の椅子に腰掛けて、ただルーカスの見つめていると、やがて日が落ちて、夜空に星が瞬くようになる。
やがてルーカスが少しだけ目を開けた。
「だからあれほど医者は呼ばなくてもいいと言ったのに。馬鹿ですねえ。」
ルーカスは体を横たえたまま、ベッドの上の僕の手を握りながらそう言う。僕はいつの間にか泣いていた。
「私はあの医者が言ったようにそういうモノなんです。量産型のニンゲン。私は東洋で造られました…。」
ルーカスはぽつぽつと身の上話を語ってくれた。自分がガラスの小瓶の中で生まれたこと。僕がここにきた時と同じくらいの年齢でミスティアーノの貴族に売られたこと。高性能なことが売りなのに、途中で風邪のようなものをひいて、不良品になり、道端に捨てられたところを、今では名前もわからないけれど、親切な女性が拾ってくれたこと。そして、その女性にオークションにかけられたけれど、そのオークションが摘発されて、保護されたところをジョンに引き取られたこと。
下弦の月が上りきってしまうくらい長い時間をかけてルーカスから語られる事実は、フィクションかと思うほどに、壮絶な過去だった。
「…そしてその寿命はおよそ30年。私たちは寿命が迫ったらひとりでに姿を消してその辺の草むらでひとり死ぬように教えられています。いえ、プログラムされているのです。私たちの体は死んだらすぐに微生物に分解されるような成分でできていて、私たちの死体は2日と持たずにこの世に溶ける。だから、私たちの通称は、ノラネコ。」
ルーカスは長い髪をかき分けてうなじを見せてくれた。
”ノラネコ32”
うなじに刻まれたその文字はルーカスが生きた時間を物語るように、ところどころ掠れていた。かき分けた髪を静かに戻して、ルーカスは穏やかな表情で続ける。
「私は運が良かった。親切な人に拾われて、命を全うできたのですから。今でもなぜ私が一人外で死ぬのではなく、今、ここに誰かと一緒にいるのかはわかりません。私は本当に運が良かったのでしょう。私はあれほどお世話になった人たちに何も返せなかった。何も守れずに、何もやり遂げられずに死んでいくのかと思っていた時に、星図を思いついた。星図は私の生きる意味になった。作業をするうちにやがてこれだけはやり遂げて死にたいと思うようになったんです。そうしたら君に出会った。あのとき君を殴ったのは、自分と君を重ねていたから。君にとっては迷惑な話だったでしょうがね。本当にあのときはすみませんでした。」
少し言葉を切って、ほんの少し息を吸う。大切な言葉を君に伝えるために。
「はじめは私にとって異質だった君も私の一部になっていきました。君がいないと生活が回らないくらいに。」




