1.前編
「花奈の結婚式まで一ケ月よ。絵里奈はお姉ちゃんなんだから、出席しなきゃ」
「祝いの席にそんな痩せた姿じゃ世間体が悪い。変な噂にならないようにしっかり食え」
面会に来た両親は、血色なくやせ細った私を見て仰々しく溜息を吐き、それだけ言って帰って行った。ベッドに残された私は胃の痛みを覚える。
食べろ、と言われても胃が食べ物を受け付けない。
一ヶ月、と言われても結婚式に出たくない。
キュー、と締め付けるように痛むみぞおちを手で擦り、深呼吸する。こんなことをしても痛みが軽くなるわけではないけれど、何かをしていないと気が紛れない。
「高東さん、検温いいですか」
病室に入ってきた年配の看護師さんが笑顔で断りを入れ、点滴の滴下を確認する。
いつもはもう少し早めの検温。面会者がいたから気を利かせて時間をずらしたようだ。
「はい。いつもと変わりませんね」
一通り測定を終えてそう告げられる。
「食欲は?」
「ありません」
質問に即答、断言で答えれば看護師さんは困った顔をする。実際、面会の後は食欲など出ない。
まして、今日の面会があの二人だからこそ、胃が入る物を受け入れるはずがない。
「食べられそうな物があったら、言ってくださいね」
優しい声音に頷いて、俯く。心配は嬉しいけれど、今日は本当に何も口にできそうにない。
入院していた病院から入院日数が長引いたことで転院をと言われた時、友人の面会が私には耐えられないと敢えて遠い所を探してもらった。私がいま入院しているのは県境にある小さな病院だ。
転院のこと友人に知らせていないし転院と共に携帯を解約したから、友人がこの病院に来ることはない。家族しか知らない場所なのだけれど、本当は友人の面会以上に家族の面会が耐えらなかった。
「家族の一員なのだから、元気な姿で花奈の結婚式に参加しなさい」
面会に来るたびに言われる両親の台詞。一ヶ月後に控えている妹の結婚式。
家族の、たった一人の妹の結婚式だ。外聞的にも姉の私が出席しないと、と思う。
でも、祝えない。どうしても私には妹と彼の結婚を祝福することなどできない。
だってその結婚式、本当は―――
キリ、と胃が更に痛む。
「心が、狭い」
私は家族皆に何度も言われた言葉を呟いた。
私には婚約者がいた。同じ歳の、同じ課に勤めていた野本 秀和という人。
二年の付き合いを経て婚約。式場見学し、会場を決めていた私たち。大まかなことを会場の担当者と私が話し合っていた、忙しなかった週末に突然彼からの呼び出しがあった。
待ち合わせのレストランに行ってみれば、そこには彼と花奈の姿があった。それも、同じ側の席に着いていた。その光景を不可解に思いながら、私は対席に座った。
「二人して、どうしたの?」
「結婚の話、なかったことにしてくれ」
花奈と顔を見合わせてから、彼が重々しく口を開いた。思いがけない彼の第一声が、私には理解できなかった。
「な、に……?」
「あのね、お姉ちゃん。実は私、秀和さんの子供を身ごもっていて。妊娠五週……二ヶ月だって」
彼に続いた幸せそうな花奈の言葉が、知らぬ異国の言葉のように聞こえた。
「え……」
「だからね、お姉ちゃん。秀和さんと結婚しないで。秀和さんには、この子の父親になってもらわなきゃいけないから」
ね? と膨らんでいない腹を撫で、花奈は彼の隣で頬を染める。
「な、に……」
私の思考は混乱の渦に巻き込まれ、二人の話が全く整理できない。だから口から出る言葉は疑問を投げかけるだけの単語だ。そんな私に彼は
「お前が、忙しいから」
小声でそう言った。
「絵里奈が俺を一人にするから。寂しかった時、花奈ちゃんがずっと俺の傍にいてくれたんだ」
秀和の言うように、仕事と結婚の準備を両立させていた結果、私が秀和と一緒に過ごす時間が減っていたのは事実だ。でもそれは、彼が会場とのやり取りは私に全て任せるって言ったから。秀和や彼のご両親、親戚の方たちや上司に満足してもらえるようにと頑張っていたから。だから。
「それは……」
「秀和さんから寂しいって連絡を貰っているうちに、こうやって私達二人でいれば寂しくないねって話になって、それで―――」
私を遮り、花奈が長々と二人の付き合うきっかけから今日に至るまでを話し始める。
そして最後に二人は揃って言った。
「だから、絵里奈が悪い」
「だから、お姉ちゃんが悪いのよ」
と。
「生まれてくる子供のために、俺は花奈ちゃんと結婚する」
「赤ちゃんのために、秀和さんと結婚させてね」
と。
婚約者の浮気相手はよりにもよって実の妹。しかも彼の子供を身ごもり、私に秀和と別れろと悪びれることなく言っている。
あまりの出来事に錯乱した私はその場を飛び出し、帰宅して涙ながらに明らかになった二人の関係と花奈の妊娠を告げ、今後のことを両親に相談した。私の形相から、深刻な話と察していた両親は眉間に皺を寄せて私の話を聞いてくれていた。
けれど。
「世間体がなぁ……どうするか」
「親戚への都合伺いは済んでいるけど、招待状の発送はまだよね? 絵里奈の式を花奈に貰いましょう。ちょうど花奈の安定日の期間だし」
「そうだな。これから式場を押さえるのは大変そうだし、変更ならそんなに手間はかからないだろう。招待する予定の絵里奈の上司は秀和君と兼ねているから支障ないな。後は花奈の方か」
「そうね。花奈が帰ったら話をしましょう。絵里奈。子供には父親が必要だもの、わかるわよね。お姉ちゃんなんだから、花奈の幸せを応援できるよね」
信じがたい話だった。二人とも私の話から花奈と秀和の結婚が当然と、話を進めていったのだ。
私には意味がわからない。
秀和にプロポーズされてそれを承諾した私は、彼と結婚式を挙げることになった。でも花奈が秀和の子を妊娠したから私は秀和と別れて、私がするはずだった結婚式で花奈が秀和と結婚する。私は新しい家族が増える二人を祝福する。
それが普通で、当然なの?
「お父さん、お母さん……そんなっ」
嘘でしょう? と、縋るように二人を見たけれど、二人の目は真剣だった。本気で、私の結婚式を花奈の結婚式にするつもりだった。異論などあるはずがないだろうと目が語っていた。
「なんで、いやよ、だって私はっ」
思いたまらず拒否の言葉を発した私に
「花奈は妊娠している」
「子供には父親が必要」
「花奈の幸せを絵里奈は邪魔をするのか」
「家族の幸せを祝福できないなど、心が狭い」
両親から矢継ぎ早にそう言われた。
妊娠した花奈がいるのに、秀和との子がいない私が彼との結婚に拘るのはおかしい、と言外に言われているようだった。
両親から発せられるすげない言葉の数だけ私の心は傷を作り、見えぬ血を流させた。そんな私の痛む心など無視し、混乱治まらぬ私に両親も、帰宅した花奈も、花奈に連れ添ってきた秀和も
「家族なのだから、絵里奈は新しい命を宿した花奈の幸せに協力するべきだ」
と言い続けた。目の前にいる人たちのことをよく知っていたはずなのに、今は初めて会った知らない人たちのように思える。
「でも」
「でもじゃない!」
なんとか口にする私の言葉は、即座に全員から全面的に否定される。
怒りや悲しみの矛先がなく自分の常識がわからなくなり、これ以上誰とも話をしたくなくて私は手で耳を塞いて部屋に籠った。ドアに鍵をかけ、スマホの電源を落として、ベッドの布団の中で蹲った。
私の感情は、考えは、間違っている?
花奈への怒りは私の心が狭いから?
家族なのだから、花奈と秀和の結婚を祝福しなければいけない?
私の中で確固たる信念であったものが揺れ動いていた。
月曜までの二日間、眠れぬ夜を過ごした。食事も喉を通らなかった。家族とは顔を合わさないように極力部屋から出ず、ドア越しに声をかけられても無視して過ごした。
月曜日、両親と妹とは顔を合わせずに会社へ向かう。胃に痛みを感じながら職場に行けば、上司から驚きの言葉をかけられた。
「高東さんと野本君が結婚の挨拶に来たからてっきり二人が結婚すると思ってたけど、野本君の相手は君の妹なんだって?」
すでに私と秀和は別れていて、本当は花奈と付きあっていた。結婚式の出席をお願いに、新婦の姉である私が秀和と一緒に上司へ結婚の挨拶をしたのだ、という話が蔓延していた。
私が籠っていた二日間で秀和が多方面に手を回していたらしい。
私と秀和が付き合っていることやプロポーズされたことを知っている仲の良い同僚が「どういうこと?」と眉を顰めて私に詳細を訊ねてくるけれど、口を開こうとすると
「家族なのだから花奈を祝福しろ」
と散々浴びせられた両親の声が鼓膜の奥で繰り返してしまう。
事の次第を話してもいいのだろうか。
「秀和の子を産む花奈と秀和が結婚するのは当たり前」
「絵里奈の欝々とした思いは不当」
「妹の幸せを願えないなんて酷い姉」
皆からそう言われてしまったらどうしようと思ったら、
誰にも話すことはできず、
「今は話せない」
とだけ返した。
昼休みに意を決し、スマホの電源を入れれば式場の担当の人から電話が即座に入った。
「契約内容はそのままに、新婦様の変更をお願いしたいと高東様のご両親様から連絡を頂きまして。契約されたご本人様から詳細を伺いたく、高東絵里奈様にお電話をずっと差し上げていたのですが」
花奈と秀和の結婚のために、早々と両親もまた動いていたようだ。
担当の人にはまだはっきりとお返事できない、改めてこちらから連絡すると答えて通話を切り、電源を落とした。
モヤモヤと、欝々とした気持ちで一日を過ごし、家に帰れば結婚式の話をしている両親と花奈。既に家族の中では私の結婚式の日に花奈と秀和が結婚することが決まっていた。
はしゃぐ声を背に私はひっそりと部屋に直行する。
私が秀和とのことを話したくても、家族の誰も聞く耳を持たない。家族の中で私だけ異質な存在。私だけが花奈を祝福できない。私だけが―――
私は式場の担当者に電話した。
「私の契約に関しては、両親が引き継ぎます。今後連絡はそちらへお願いします。今までありがとうございました」
「絵里奈。式場の担当の人に電話してくれたのね。お姉ちゃんだものね。花奈と秀和さんのこと考えてくれたのね」
式場担当の人に両親へ引継ぎを依頼したことを知ったお母さんは、晴れやかな笑顔だった。目は曇り、私から笑顔が消えていることに気付きもしない母。
「この人に私の心は伝わらない。今までのお母さんは消えて、別人が『お母さん』になったのだ」
そう思った。
気分は塞ぎ、責められることが怖くて誰にも相談できないまま日が過ぎていく。会社では必要以外口を閉ざして、俯いて一人で過ごすようになった。
眠れない、食べない日が続いた。
それから数日後、ストレスと睡眠不足と脱水で私は倒れた。
点滴をするために病院に通うようになった。食事をしても戻してしまうので栄養状態が悪くなり、結局栄養失調の診断を受けて入院することになった。
入院しても食事がとれないのは変わらなかった。胃が受け付けないのだ。食べ物を見ただけでも気持ちが悪くなってしまう。何とか食べてもすぐに吐いてしまう。とりあえず水物を数口飲むことはできたけれどそれで栄養が足りるわけがない。
鼻からチューブを入れての栄養も試み、けれど注入した後に吐いてしまうことを繰り返したので、最終的には点滴中心の治療となった。
秀和の両親は一度だけ面会に来た。私に何と声をかけていいのかわからない様子で視線を彷徨わせて、ただ頭を下げて帰っていった。彼らも困っていることだろう。突然『嫁』になる女が変わり、それもすでに妊婦だというのだから。野本家でどのような話し合いがされたのかは知らないけれど、彼らはかわいい孫を迎え入れることに決めた様子だった。
秀和と花奈は、面会には一度も来ない。それはよかった。あの二人には絶対に会いたくないし話したくもない。
けれど両親は週に一回、週末に面会に必ず来る。
結婚式に絶対に出席しろとプレッシャーをかけてくる。
「無理」
と告げれば、妹を祝福できないのかと責められる。
身内のごたごたが公になると近所や親戚に顔向けできないから、とにかく出席だけでもと言われる。
病人のような痩せた体で家に戻られては困ると言われる。
私だって家族として妹を祝福したい。ご飯だって食べたい。痩せたいわけではない。
でも、どうしてもどんなに頑張っても無理なのだ。
なぜ? だってそれは。
―――心が狭い人間だから。
でも、私は……
思考は出口を見つけられず、グルグルと廻るだけだった。
「高東さん、散歩いかない?」
病室入り口のドアから、背が高くひょろりとした男性が顔をのぞかせた。
私よりも先に入院している隣室の片桐さんだ。山間にあるこの病院は、肺炎とか心不全とか脳梗塞などでの高齢者の入院が多い。私のいる病棟では付き添いなしで歩ける患者は私と、四歳年上の片桐さんくらいだ。どちらも点滴をぶら下げて、という状態ではあるけれど。
「今の時間からでは無理じゃないですか? だって」
「智樹」
私の声を彼の名を呼ぶ声が重なり、ほらやっぱり、と予想通りの事運びに肩を竦める。
「駄目じゃない、病室にいないなんて」
小奇麗な服装の上品な女性が片桐さんの点滴をしていない方の腕をつかんだ。今日もいつものようにやって来た片桐さんのお母さんだ。
「じゃ、明日」
苦笑した片桐さんは、彼のお母さんに連れられて自分の病室へと戻って行った。
「今日も来ましたね」
「仲が良いですよね」
看護師さんが壁向こうに視線を向けて微笑む。片桐さんのお母さんは、毎日必ず面会開始時間にやってくるのだ。そして面会時間終了までずっと、片桐さんと二人で過ごす。
「智樹、智樹」
壁越しなのに毎日彼の名を呼ぶ片桐さんのお母さんの声を何度も耳にする。
「お父さんが早くに亡くなって、俺一人っ子だから他所のお母さんより心配性なのかな。まあ、俺もお母さんの望むことをしてやりたいし」
毎日毎日、つきっきりでうんざりしないかと聞いた時にそう答えた片桐さん。言いながら照れて笑う片桐さんを見てマザコンかな、とついつい思ってしまった。
「お母さんのチェックが厳しいから彼女もできなくて」
それが悪いことではない、むしろ嬉しいと言わんばかりの笑顔で話してくれたことも思い出す。
看護師さんも認める仲の良さだ。
彼は親が来るのを待っている。私は親に来てほしいとは思えない。
同じ『親子』なのにいろいろな形があるのだなと思った。
「高東さん。散歩行かない?」
昨日に続いての片桐さんからのお誘いだ。検査も何もない午前。晴天で外は温か、日差しも柔らかい。
頷いて点滴棒を持ちながら病院の敷地内を片桐さんと並んで歩く。
「そういえば、片桐さんはなんで入院してるんですか」
肺が悪いとは聞いていたけれど、食事も取れているようだし退院しても大丈夫そうなのに、と思っていたので聞いてみる。
「肺が悪い……ってのは前言ったか。気胸ってわかる?」
「肺に穴が開く病気ですよね」
「そうそう。痩せた若い男がなりやすいんだって。仕事中に急に呼吸できなくなって、ぶっ倒れたんだ」
クスリ、と笑いながらも胸を押さえる。どうやらいまだに笑うと胸に痛みを与えるらしい。
言われてみればなるほど、と頷いた。片桐さんはかなりのやせ型だ。
「高東さ……」
「拒食症です」
聞かれる前に答える。多分、やせ細った体を見れば、答えなくてもわかっていたとは思うけど。
「ストレス?」
「婚約破棄されたので、多分そのせい」
片桐さんは聞いて申し訳ないという顔をした。
ちょうど花壇の傍にあるベンチが空いていたので、そこに座る。
「聞いちゃって、ごめん。まさか」
「正直に答えるとは思いませんでした?」
私は笑った。面白いからでも、苦いからでもない、歪んだ笑い。
「辛い、よなぁ。でも、まだ若いんだからきっと」
「若いから?」
今も癒えることない心の傷。止まることのない見えない血。誰にも分らないであろう、鬱屈した思い。
誰かに『婚約破棄』のことを初めて話したせいか、当時の心の重い感情が私を覆う。
「若くても私はっ」
「生きているなら、傷はいつか癒えるよ」
荒ぶる声の私とは対照的な、穏やかな声。凪いだ海のような雰囲気だけれど、片桐さんの言葉に私の感情が刺激される。
「そんなこと、誰にもわから……っ」
「智樹! そこで何しているの」
私の怒りに似た発言を消したのは片桐さんのお母さんだった。
お昼前……いつもより早い時間の来院だ。
予想外のことに私も片桐さんも驚いて会話が止まる。
「お母さん」
「そのお嬢さんとのお話は終わったの? それなら行きましょう」
片桐さんのお母さんは私を横目に、彼を連れて建物の中に入って行った。
ごめんね、と頭を下げつつも大人しくついて行く彼を見て。
間違いなく片桐さんはマザコンだ。
そう思った。