第一章 慶長十九年八月二十九日
第一章 慶長十九年八月二十九日
一
初秋の夕暮れまでまだ間のある仙台城大広間では、狩野派の絵師、佐久間左京の手による、その豪華な襖絵が広間の奥まで差し込むようになった秋の明るさの中、燦然とした美しさを誇示していた。
半刻ほど前にもたらされた報せに、上段の間を仕切る金箔、銀箔を用いたその豪華な桜の襖絵を背に居並ぶ重臣達が衆議を続けていた。
この日、巳の刻過ぎから、諸将は大広間に集まり、主君伊達政宗より、この冬に戦端が開かれるであろう大坂の役への陣立てを受けていたのだ。
先鋒は片倉小十郎重綱、病に伏せている父、小十郎景綱に代わって一軍を率いる。本隊は政宗自らが率いる一万余の大軍勢で、奥州王の名に相応しい陣立てであった。参陣する将、兵站にあたる将、留守居の将など各将の得手、不得手を押えて概ね予想通りの内容であった。
しかし、意外な人物が参陣の選から漏れ、それが因で軍議は紛糾した。
だが、主君の決定は絶対である。その者が政宗に食ってかかり、政宗も機嫌を損ね、諸将の分担を言い渡すと陣立ての詳細は皆で取り決めるように命じ、その場を伊達成実に任せてしまうと、早々に御鈴廊下の奥、仙台城の大奥ともいえる場所に下がってしまった。
一方の後藤信康も、
「軍奉行が戦場へ出られぬとは、おかしな陣立てもあるもんだっちゃ」
と言い捨てると、諸将が止めるのも振切り評定の場を釈然としない様子で立ち去ったのがおよそ一刻前。
そうして軍奉行抜きで評定を行っていた最中に取次役の家士が伝えてきた凶報であった。
「孫兵衛もこの時節に大それたことを仕出かしてくれたもんだ」
第一報に対して最初に口を開いたのは亘理重宗。主君の親戚筋にあたる重臣である。
「しかし、軍奉行でもある後藤信康殿が参陣の選から漏れることは、それがしも納得いきませぬ」
と応じたのは石母田景頼。内政に優れた家臣である。
「だからと言って、軍支度のまま愛馬に跨って、この本丸から崖下に身を投げるか。殿に物申すに止まらず……」
「しかし、齢七十になる志摩守殿が参陣するのに、愛馬五島共々、老いた故留守居をせいとは、還暦にも至っていない後藤殿には、ちと酷すぎる。これでは黄後藤の名も泣くというもの」
後藤信康の行為に対して批判の言を口にする鈴木元信の言葉を制して鮎貝宗重が後藤擁護の意見を一気に述べた。
「なんじゃ、鮎貝は、わしを年寄扱いするのか」
それまで陣立てを申し渡されるときから黙っていた山岡志摩守重長が鮎貝に不満の言葉を投げかけたが、言葉とは裏腹に表情は穏やかな老人のそのものである。
伊達家での評定は、家格に拘らず自由に考えを述べることが常であった。もちろん主君政宗が同席すれば、多少言葉は改まるものの、そのような自由闊達な風潮は自然と家臣同士の言葉使いを家格や年齢の上下に拘らないものとしていた。
加えて彼らは一つの想いを共有していた。
それは主君政宗を天下人とすることである。故に、その夢のためには個人の意地を捨てても、最良の策を献ずることが家臣の務めであることを各々が認識していた。
「さりとて、孫兵衛のこと放っておくわけにもいくまい。遺骸はどうしておるのじゃ」
山岡が誰にとでなく一座に問いかけた。
「後藤殿は、この本丸から広瀬川へと身を投げましてございます。皆様もご存じのとおり、崖は、二十丈を超える高さ。後藤殿の御体は、愛馬五島もろとも、千々と砕け、最前、この報をもたらした黒脛巾組が肉片を拾い集めております」
鮎貝宗重が答えた。
「黒脛巾組がな。ずいぶんと手回しがいいもんじゃな」
と亘理重宗が独白するように言った。
仙台城には天守閣がない。
伊達政宗が徳川家康に戦を起こす気がないことを遠慮して、造らなかったと表向きは言われているが、内実は必要なかったから作らなかったにすぎない。
仙台城の郭は天然の地形そのままを活かして造られている。城の南西は、人馬叶わざる二十六丈の龍ノ口渓谷が、文字通り攻め手を一吞みにするようにその口を広げ、城下を眺める東は広瀬川を崖下においた人の登攀も許さぬ絶壁が守っている。この崖には、京の清水寺の舞台のような能舞台が張り出し、季節が良ければ遠く太平洋、牡鹿半島、三陸の金華山までもが遠望できる。
それ故、物見場所としての天守閣は必要としなかったのであるが、天守閣は、城の戦備えのいわば象徴、これを造らなかったことで、独眼竜の牙が抜けたことを政宗は家康に伝えたかったのである。もっとも、駿府の古狸がそれを素直に信じたかは定かではない。
本丸は、京の聚楽第のような城というより御殿の趣であるが、仙台城は天然の要害に建ち、城としての機能を十分に備えた立派な普請と作事である。
後藤信康のような下り方は別として、生きて広瀬川まで下りたければ、九十九折りの急坂な道を大手門まで下り、そこから河原へと下らなければならない。
亘理重宗は、それにしては、後藤信康の身投げから、遺体回収までの手筈が短い間で済んでいることを訝しんで言ったのだ。それに黒脛巾組は政宗直属の隠密集団である。この者たちが遺体回収の任にあたるのも、お門違いと言えなくもない。
「孫兵衛も左馬之助が死んでからというもの、張を失くしたようだしの。こたびの陣立ての決定では、己の生き場所を失ったと感じ、かような仕儀に至ったのかもしれん。孫兵衛と左馬之助の唐御陣出兵の出で立ち、あれこそ伊達者と京わらべの度肝を抜いてやったのが昨日のことのようじゃ」
山岡志摩がしみじみと語った。志摩の言った左馬之助とは、原田宗時。孫兵衛こと後藤信康とは刎頸の友であり、戦働きにおいての競争相手でもあった。
太閤秀吉の横暴ともいうべき明国遠征。この文禄の役での出陣式に際し、二人は揃いの煌びやかな戦装束に、長さ九尺余の大太刀を金の鎖で括りつけて京大路を軍団の先頭にたって行進した。
他家に比べ、総じて派手な伊達勢の中にあって、この二人の若武者の姿は、京の町衆の厭戦気分を払拭し、伊達者という言葉を派手な者、傾奇者の代名詞へと押し上げていった。
しかし、原田宗時は朝鮮の地で病を得ると、帰還途中、対馬の地にて病没した。享年二十九歳。左馬之助の大太刀は孫兵衛が形見として受取った。
「いずれにせよ、奥に伺いを立てにいった成実様らが戻らなくては、後藤殿のことも我らでは、どうしようもございますまい。今は、大坂の事を取りまとめることが急がれるかと思われますが、いかがなものでございましょう」
話が養父、宗時にふれたことで、その子宗資が大坂に話を戻そうとした。
「なんじゃ、甲斐。おぬしは偉大な父の話に触れられるのは嫌か」
山岡志摩が皮肉るように言った。
「志摩守、宗資も父の名に恥じぬよう苦労しておるのじゃ。そんなにひじらんでおいてやれ。それよりも、志摩守の奥の様子も気になる。こたびは大怨ある豊臣との戦、まさか自身も参陣するとは言い出しておらんのかの」
ひじるとは仙台の国言葉でからかうという意味である。亘理重宗が国言葉を交えながら話の矛先を巧みに変えた。
原田宗資が目線で亘理重宗に謝意を送った。
「それが、ちと苦労しておる」
志摩が、困惑の表情を浮かべた。
「チューマ姫は、やはり参陣したいと言い出しましたか」
若い留守宗利と白石宗直が興味深い物言いで、話に加わってきた。二人とも亘理と同じく主君の親戚筋の家柄である。
チューマ姫と呼ばれるのは、山岡志摩の妻女である。
文禄の役に続く慶長の役において伊達勢は、他の諸侯の救援のため梁山、蔚山、金海、晋州まで転戦していた。
ある日、伊達軍野営の中、黒武者が単騎で切り込んできた。
平時の好々爺の雰囲気からは想像がつかないが、伊達軍の猛将、山岡志摩がこの騎馬武者を組み伏し兜をはずすと色白の頬に血を上らせた若く美しい女性が姿をあらわした。志摩は、女子供を切る刀は持ち合わせていないと、これを討ち取らなかった。
後に分かったことであるが、この女性はこの地方の貴人の娘で、伊達軍は、この高麗姫を丁重に扱った事により現地より糧食の差し入れを受けるなどの交流が深まった。
この縁によりチューマ姫は志摩を慕い役後も政宗主従に従い奥州に移り住み、仙台城完成の年に、先妻と死別して久しい志摩のもとへ政宗の媒酌で後添いとなった。
「して、こたびの戦には、それがしも姫御前と轡を並べての参陣と相成りましょうか」
白石宗直が志摩に話の続きをせがむように言った。若い者には信康に係わる話より、こちらの方が興味を惹くらしい。
「いや、それはなんとか思い止まらせたがの」
「なんと、残念でございます。して、志摩殿のお困りとは」
志摩の答えに、留守宗利が残念がりながらも、まだ興味が失せない体で問いを重ねた。
「それが、参陣を諦めたはいいが、チューマの縁者の仇を書き出す故、それを儂に討ってこいと言いよる」
志摩が大仰に困ったような表情をしてみせた。
「それはまた、志摩守殿も災難ですな。文禄、慶長の役では、日本国中の諸侯が参陣しましたからな。チューマ姫の仇が、こたびの大坂の役で、豊臣方におるとは限りませんしの。むしろ、徳川殿のお味方に多いことでしょうし。そもそもチューマ姫の仇の筆頭には、志摩守殿がくるのではござらんか」
最後は、白石宗直が老人をひじるように指さした。
「いや、姫と儂は好きおうておるからの」
志摩が臆面もなく答えるのに、一同から
「おぉ、この老人も言いよる」
と嘆息混じりの声が上がった。そこへ
「各々方、孫兵衛のことで、話しおうておると思いきや、老人ののろけ話を拝聴しておったか」
と、鬼庭綱元が広間に姿を現した。その後に伊達成実、片倉重綱と続いて広間に入ってきた。
「いや、そなたらの戻りが遅いでの、いつのまにか話が逸れたわい」
亘理重宗がそれに答えて、
「して、殿はなんと」
と聞き返した。
「殿は、後藤の家は、嫡男、上野近元に継がせ、葬儀も懇ろにいたせとのことじゃ。江刺郡三照の知行も安堵と仰せじゃ」
成実があっさりと答えた。
「それだけか」
「それだけでござった」
亘理重宗が意外な様子で聞き返すのに、成実からまたしてもあっさりとした答えが返ってきた。
「それでは、かような長い間、何を話しおうていたのじゃ」
亘理重宗がじれたように問いただした。
「六右衛門のことじゃ」
「支倉常長か」
「あ奴は、今頃どこにおるのかの」
「伊達丸は無事大洋を渡ったかのう」
「サン ファン バウチスタ号が月の浦を出帆したのが、昨年の九月よのう」
「宣教師のルイス ソテロの話では、そろそろノビスパーニャに着いておるころじゃが」
「フィリペ王への親書は彼の地の太守へと無事届けられたころか」
「そして、エスパーニャの軍船を借り受けて後、帰路も考えれば、順調に航海しておるとて、この冬の大坂の役には間に合わんか」
「これ。めったなことを申すでない」
支倉常長の遣欧使節団のことは、徳川からの承認を得ての事業であったが、どうやら徳川に対して憚れる密命を帯びてのこともあるようで、彼らのこの話題に対する物言いも自然と含みを帯びたものとなっていた。
「とにかくじゃ、信康のことも沙汰が下ったことだしの、われらはそれぞれの役割に従って大坂の支度を急ぐことじゃ。」
鬼庭綱元が座を改めようと提案した。
宿老として軍奉行の要職にあった重臣が本丸からの身投げをして果てたという割には、さしたる動揺も彼には見てとれない。これも彼の楽天的な性格に多少は関りがあるのだろうが、やはり戦国乱世を生き抜いてくる間に多くの生き死にを目の当たりにしてきたことによるのであろう。
「そうじゃの、大方のことは決まっておるし、細かなことは皆で談合せずとも、それぞれが取りまとめれば良いしの。なに、孫兵衛のことじゃ、今頃はあの世で、左馬之助と決闘の続きでもやっておろう。お互い死んでしまえば、双方、どちらかが相果てても、伊達家の損失となるという、あ奴の方便も通じまいて。いよいよ孫兵衛と左馬之助の決着がつくわい」
亘理重宗が言い終え、大広間を後にした。他の者も続けて大広間から退いていった。