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居鯉の夢  作者: 茂瀬草太
居鯉の夢
9/9

こいまねき

(いと恋し 空舞う先の 赤い袖)




人の大きな足音。水面を揺らす竹枠に張られた紙。仲間と共に逃げ惑う狭い世界。買われた先は、小さな手と大きな手が作る透明な鉢の中。



鉢の中から見える世界は狭く、広い。いつも庭を臨める場所に居るから前より世界が見える。不意に池から鯉が跳ねた。輝かしい鱗を日輪に惜しげなく晒し、黒と白の相対する身が庭の緑に映えて美しい。



そのお方はいつもそこにいた。体を大きくくねらせ、身を翻して宙を舞う。陽に輝く水しぶきと、ゾッとするほど美しい黒の鱗がぴかぴかとわたくしの目を焼くのだ。



目を焼くほど白く照らされる庭を見る。日陰の中にある水すら何処か熱く感じる。ひらりひらりと気ままに振るう袖が何度目かの波を生んだ頃、不意に庭の池がキラリと光る。輝く水面の隙間から覗き見えた美しい黒に、何故だろう。水が更に熱くなった気がする。



いつも降り頻る陽射しが、凍てつく程冷たく、針の様に鋭い雫と成り変わった。鉢の中から庭の池は見えない。今日は部屋の中に居るから、余計に。あの黒が勇ましい彼は、無事なのだろうか。あの冷たい針に震えていないだろうか。そればかりが気になって、わたくしは今日も鉢の中でくるくると忙しない。



雨が止んだ、朝靄の掛かる庭を覗く。池からぱしゃりと水の跳ねる音がする。靄の中を二度、三度。白の中に目立つ黒が、何度も跳ねては美しい尾を翻す。あのお方はご無事でいらした。安堵して、くるりと踊る。込み上げる、激しい迄のこの逸る想いは日に日に強くなる。



今日も今日とて、あのお方は雄々しい黒を陽に晒し飛び跳ねる。陽の掛からない縁で透けた壁に寄り添い、眩しい鱗に目を細める。戯れる様に跳ねる姿と、不意に目が合った。水面へ滑る様に姿を隠す背に、わたくしは今日も水の暑さで茹だるのだ。



子供が陽射しのまだ強くない時分に、わたくしと私の周りの水を持って池を覗いた。ぐらぐらと不安定なそこは酷く恐ろしくあるのだけれど、それ以上に池に御座すあの方を間近で見られる事に心が跳ね上がった。



水面に浮く水草の合間を縫って、彼の方はゆうるりと泳ぐ。きらりと輝く白の鱗が、ゾッとする程深い黒の鱗が、嗚呼、またここの水を熱くするのだ。



大きな背中を見上げて子供が言う。わたくしを連れて池を見ると九龍の鯉が傍に寄るのだと。大きな背中は子供の頭を撫でて言う。恋人の逢瀬に野暮は良くない、と。思わず小さな水の底でぐるりと身を翻した。



陽射しが弱まり、虫の鳴き声が水を鮮やかに揺らす頃。次第に冷たい水へ変わる此処は、随分と住みにくくなった。少しだけわたくしの動きが鈍くなった事で、子供は心配そうにして私を覗き見る。それでも池の近くへ寄ればわたくしは幾らでも元気が出るのだ。



彼の方さえ見れれば水の冷たさなど気にはならなかった。陽の高い頃に逢える彼の方はじっとわたくしを見詰めて空を舞う。時々入り込む、彼の方から離れた池の水の飛礫が暖かさが愛おしい。



陽の傾かぬうちから山の赤さが目を焼く頃、わたくしは次第に動けなくなった。彼の方を見れば心は踊るのに、体は厭わしい程動いてくれない。わたくしは水底で時々袖を揺らすだけ。けれど、今日も彼の方は赤の空に映える黒と白の身を捩らせて空を舞う。



夏の祭りに掬った金魚は、夏と秋の境目にぷかりとその白い腹を見せて鉢の中へ浮かんでいた。ここ数日寒い日が続いていたから其のせいだろうと絵師様は言う。綺麗な鰭が揺れる様が好きだった。もう、靡く事はないのだろう。



庭の先に金魚を埋める事となった。金魚鉢を抱えて庭に出ると、池の黒い鯉が跳ねた。金魚と随分仲の良かった鯉だ。絵師様は恋仲と揶揄してらした。ならば、最期に別れの時を過ごさせてあげるのも悪くはない筈だ。絵師様に言えば、少しだけ微笑んでそうすることを許して下さった。



空へ高く身を投げる姿に恋をした。美しい鱗が陽射しの下に晒す艶やかさから目を離せなくなった。届かないその影に、わたくしは確かに恋をしたのだ。たとえ其れが、ひと夏限りの泡沫の夢であっても。

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