追憶
(鯉跳ねる 青草香る 夢うつつ)
鯉が消えた。出迎えた男の言葉に、何も言葉は返せない。視線も合わないまま、男は静かに言う。その日の夜はそれは美しい満月が昇った。
取り憑く鯉は消えた。男の心の中にあった何かが解決したらしい。良かったね、と言いたかったけど止めた。男は鯉がよく泳いでいた左手をずっと見ていた。数日後、男は左腕に刺青を彫った。
お前様程の技量があればこの村でもやっていけるであろう。お爺様が言う。鯉が消えた男は何も答えない。きっと絵師様は遠くに行くだろう。何とは無く、そう思った。
いつもの様に向かった庵でただ一人、立ち尽くす。少なかった家具は更に無くなり、人気が無い。男は居ない。鯉すら、居ない。其処にはもう、何もなかった。
絵師様、と呼べば返してくれた応えは、とうにない。忘れてしまうには、もう随分と馴染み過ぎたようだ。暗く沈んだ池に解き放った鯉すら、今はない。
身の上に鯉を住まわせていた男が居なくなり、幾許かの年月が過ぎた頃、その噂はふらりとやってきた。大層素晴らしい腕を持つ彫師がいると。彫師は各地を巡り、気紛れに客を取り入れ墨を施すと云う。それはそれは美しい鯉の入れ墨を。
男がいつも座っていた縁側に座る。暖かな陽射しが心地好い。男の元によく猫がいた理由がわかる気がする。男は居ない。随分と昔にいなくなった。此処には、もうずっと誰も住んでいない。もうすぐ、此処には誰も訪れなくなって、一人で朽ちていくのだろう。
随分と寂れた山の麓に足を踏み入れる。陽炎の様に先を進む影は、もう遠い昔に消えた背中だった。名前を呼ぼうとした口は早くも閉じた。絵師様の名前を、知ることすらないまま過ごしていた。
お爺様が死んだ。それは夏だと言うのに酷く寒い日だった。お爺様は死ぬ直前まで、己が知る限りの知恵知識を能えてくださった。其処にはあの身に宿る鯉の話もあった。
絵師様以外に居鯉を宿らせた者には何度か出会ったが皆長くは持たず死んでいった。皆、心の闇に飲まれてしまったのだろう。死んだ彼等の顔は一様にして、うろんな、まるで口を開けた鯉の様な顔をしていた。
絵師様と出会い、絵師様と過ごし、絵師様が消えたあの幾多もの季節から長らくの年月が過ぎた。小さい腕は大きく、しかし瑞々しさは消えて枯木の様になった。いつからか、もうこの体は動かすことすらままならない。ふと横を向けば、あの懐かしい草花の生え茂る庭があった。
視線を上げれば、嗚呼なんと懐かしいことか。彼が絵を描いていた。大きく美しい、かつて彼の腕に居た鯉と幼い童の姿。振り返る彼の変わらず浮かぶ笑みと優しく出迎える声。乱雑に頭を撫でる腕に、 はゆるりと瞼を閉じる。浮かんだ笑みと涙が、知らず零れ落ちた。
カーテンから漏れる陽射しの眩しさに目が覚める。夏独特の蒸し暑さにうんざりしながら時計を見れば、まだ起きるには早い時間だ。カーテンと窓を開ければ、掌に雨が降る。見上げた空は晴れている。なんだかとても長い夢を見ていた気がする。まだ雨は降り止まなかった。