―閏日々―
(袖を振り 袂泳げと 錦鯉)
ざりざりと男の足は重たそうに歩く。男が一歩歩く度、それより小さな足が三度地を蹴る。細かにたたた、と追い掛ける足音は何も言わずに男を追う。ひらりと視界を過ぎった手元の鯉が咎めるかの様に男を見ていた。
男の背中で泳ぐ鯉が小さくなったり大きくなったりする。その背中を触ってみても、手が沈む事はない。鯉だけが行き来できる空間があるのだろうか。
頬に付着した絵の具を手首で乱雑に拭う。それは拭いきれずに延びて男の横顔を彩る。鯉が鬱陶しそうに絵の具を避けた。
山向こうにある海の村に男は出掛けていった。仕事なのだという。旅仕度をした姿が酷く怖かった。このまま居なくなりそうで怖い。そう言えば絵師様は少し驚いた顔をした後恐る恐ると、でも優しく頭を撫でてくれた。鯉はくるりと頬で泳いだ。
こくり、と酒を飲み込む喉が上下に動く。男の皮膚に住まう鯉は、先程から男の喉をくるくると回っていて、まるで風車のようだ。時折、男の顔や肩に跳ねては鯉は回る。
男は夜になると一人で晩酌をしている。わいん、という海の向こうの国のお酒なのだとか。一度飲ませてもらったことがあるが、味が濃く、臭いも強くて飲めなかった。男はそれを飲みながら、飽きもせずに絵を描くのだ。
鯉が住まう男には幼馴染みがいるのだという。その幼馴染みもまた変わった男らしく、何でも薄透明のクラゲがそいつの体の回りを漂っているのだと言う。
幼い兄弟を背負い、でんでん太鼓をくるくると回す。寝る子を起こさぬ様に小さな声で子守唄を口ずさむ。気付けば、いつもの癖で鯉の男の家に来てしまっていた。流石に村から離れ過ぎた。男の元には行かず、子守唄を口ずさみ、踵を帰す。後日、男が聞き慣れた子守唄を口ずさんでいた。
かつりと石ころを蹴る。いつも遊ぶ子と喧嘩をした。あいつが悪いんだ。そう呟くと、庭にある池の前にいた男が小さく笑う気配がした。男を睨めば、何処か楽しそうにこちらを見る男の目があった。男は何も言わなかった。
さらさらと竹の上を墨に濡れた筆が滑る。珍しい。文字の仕事だろうか。覗き込んだ先には幾匹かの蛇が交わるようにうねっている。学がないから読めやしない。口を尖らせれば、男が頭を撫でてきた。筆を持つ手に鯉は居なかった。
男の薄皮の下を泳ぐ鯉に触れる。少しだけ冷たく感じるけれど、濡れた感触も硬い鱗の感触も感じない。男に聞いても、何も感じはしないと言う。尾鰭が当たった指先は確かに何も感じなかったけど、どうしてか擽ったかった。
絵師様にとって甘露とは何ですか、と聞いてみた。右手で泳ぐ鯉を愛でるように撫でていた男が、お前が何かを訊いてくるのは初めてだな、と言った。お気に触りましたか、と聞くと男は口元に笑みを浮かべて、そんなことはないさ、と頭を撫でてくれた。応えはそれだけで満足だった。
皮膚に住まう鯉と共に生きている男が眠る姿を見たことがない。たまに目を閉じているときがあるが、それもほんの僅かだ。けれど、見たことがあるのだ。男が目を閉じている時、男の心臓の上で鯉もまたひれを休めて眠る姿を。
手のひらを合わせてみた。子どもの手と大人の手だから、当たり前にその差は大きい。節くれだった長い指先を、鯉が泳ぐ。まるで、男の皮膚に住まう鯉を捕まえたようだ。
皮膚に鯉が住んでいる男は、時々聞き慣れない言葉の歌を歌う。もしかしたら、知らない地域の言葉なのかもしれないが、どうもこの国の言葉とは少し違うようにも感じる。故郷の歌なのだろうか。僅かに微笑む口元は随分楽しそうだ。紙には、寂しそうにすすり泣く目玉が描かれていた。
鯉の住み家である男は、紙以外のものにも絵を描く。壁とか畳とか柱とか、あげくの果てには人間の体にも描く。男は絵を描くことにかんしては、結構貪欲だと思う。
男にとって絵とは記憶なのだろうか。分からない。聞いたことはないから。聞けばもしかしたら話してくれるのかもしれない。話してくれないかもしれない。どちらでもいい。どちらにしても、絵を眺めることしかしないのだから。
紙の上を筆が滑る。三つの指だけで支えられたそれは、くるくると色を滲ませていく。じわりと染みるたび、腕で游ぐ鯉が身を翻した。
居鯉の男は滅多に村に降りて来ない。降りて来ても少し離れた場所までしか来ない。その姿を窺いながらも呼ばないのは、村の皆が彼に怖れを感じている事を知っているからだ。表情の見えない横顔で、名残惜しそうに居鯉が揺らいだ。
骨張った腕をぐるぐると廻りながら、鯉は薄い皮の内を泳ぐ。肩を目指し登る姿は、まるで滝を登る龍の様だった。
縁側に身を投げ出し、絵師様は紙で顔を隠して唸る。先程描いていた絵は墨で塗り潰されていた。その足元に座っていると、足に掛かった裾から鯉がちらりと頭を覗かせた。
左右の腕を合わせると、こいつはその間を泳ぐんだ。絵師様が言う。合わさった両腕をゆらゆらと泳ぐ鯉が、腕を渡るたび、水の中にいるように姿を揺らめかせる。
陽が落ちた後も絵師様は灯を燈して絵を描くことがある。油が勿体ない気もするけれど、紙にのめり込む絵師様にそれを言ったことはない。ただ、揺れる灯の影で蠢く居鯉の不気味さだけがある。
膚の下に棲む鯉に触れれば、何かしら動く触りがあるのかと思っていた。男に聞けば、そうでもない、と鯉が居る膚を頬に当ててきた。ただ、ひんやりと冷たかった。
大きくなったら何になりたい。酒を呷り、絵師様が言う。なりたい、なんて思ったこともなかった。当たり前の様に畑を耕して生きていくと思っていたから、暫し言葉の意味すら掴みあぐねた。初めて、絵師様の言葉に何も返せなかった。
村の子供が一人死んだ。病に伏していた子だ。死者の穢れを祓う為木々に囲まれ、それを焼く。もう長くはないだろうと思っていたからか、皆の行動は早かった。絵師様は土に還さないのかと聞いた。あの子は病だったからと言えば、それ以上何も言わなかった。
絵師様は嫁様を召されないのですか。いつか聞いた言葉に絵師様は何も答えず、ただ腕の中の鯉を撫でていた。絵師様が鯉に触れた姿を見たのはそれが最後だった。