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居鯉の夢  作者: 茂瀬草太
居鯉の夢
3/9

―夏の章―

(五月雨に 筆を濡らせば 鯉泳ぐ)



山に霞が入り、男の住む庵もあわせて白く染まる。筆が腐りそうだと愚痴ては絵の具を練る男の隣で、湿気に重くなった紙を取る。滲めば味も出ると満足そうに紙を用意したのは男だ。男の腕でくるくると遊ぶ鯉の色だけが、霞む向こうではっきりと見えた。



雨が降る。石にぶつかり弾ける音。草葉に当たり撥ねる音。屋根を伝い流れ落ちる音。雨に紛れて煙草の煙が空に溶ける。見上げた先に、それは穏やかに皮膚の下を泳ぐ。



雨の降る夜。絵師様に誘われ、晩酌に付き合う。月は見えないけれど、雲は薄いのか不思議と暗くはない。時々、水の撥ねる音に合わせて鯉が撥ねていた。



篠突く雨の中、赤い傘をさして歩く。山裾は泥濘み、男の住む家に辿り着く頃には随分と足が重くなっていた。男は縁側で泥を救っては団子を作っていた。童のようだと言えば、皆誰かの童だと男は笑う。羽織のない背中では居鯉が泥を避けるように跳ねている。雨が止んだら、食べられる団子を作ろう。



鯉の住まう男は、今日も絵を描いている。外は雨だ。湿気が酷いな、と男はカビの生えた筆を見て笑っていた。



雨が降っている。どしゃ降りの雨だ。激しく打ち付けてくる雫は、まるで針のように肌を刺し、体温を奪っていく。鼓膜を破らんばかりの轟音の中、ただ見つめるのは霞がかった男の中に住まう鯉ばかり。水に触れて嬉しいのだろうか。鯉は無邪気に男の皮膚を泳いでいる。



山の緑が色濃くなる頃、次第に雨は降らなくなる。男の家へ向かう足は軽くなり、吹き抜ける風から冷たさが消えた。男は黴から解放されるのは嬉しいが湿気た暑さはいただけないと零した。鯉は男の首元で尾だけを揺らした。



畑で採れた瓜を男に持っていく。まだ青さは残るが、この時期に採れる作物の中では一等の瑞々しさを持つ。暑さに不動を見せ始めた絵師様と鯉もきっと元気になるだろう。皮越しに伝わる冷たさに口許が緩む。



少しだけひんやりとする手のひらが、睡魔に引き込まれそうな瞼をおおう。夏場、畑の傍で湧いている湧き水みたいに心地好い。両耳に当てて音を聴けば水の音が聞こえるのだろうか。それとも、鯉の呼吸の音がするのだろうか。その日、鯉と男が眠っている夢を見た。



村中の井戸に蓋がされているのを見て男が首を傾げた。この時期は地も空も毒に満ち、その毒を取り込まない様にああしていると教えれば、ハンゲかと言われた。ハンゲは出歩くだけだろうと言えば、歯痒い顔をされた。



怖い話をした。男の国ではぞんびと言う死体が動き回り人を襲う話が多いらしい。ならば神社を建てたらどうかと聞けば、ぞんびは神ではないと言われた。けれど祟るのだろうと聞けば、祟るからと言って神社は建てないと言われたのにはとても驚いた。



夜の川を照らす蛍を、絵師様の背に隠れて眺める。御霊を背負う虫を絵師様は楽しげに見ていた。ぼんやりと浮かぶ耳元で蛍を追い掛ける鯉が、酷く恐ろしく見えた。



夏特有の肌に纏わり付く空気と目を焼くような陽射しの中、絵師様は一心不乱に絵を描いている。鼓膜を塞ぎたくなる程の蝉の鳴き声。茹だる様な暑さ。絵師様と呟いた筈の声は、自身ですら聞き取れなかった。



背中を見詰める。一体何刻の間そうしていただろうか。蝉の声が耳をつんざく。暑さに朧げな背中が陽炎の様に揺れる。絵師様。呼び掛けた声に答えはない。



夏独特の湿気と暑さに、男は随分参っているらしい。ぐったりと木陰で寝そべり、足を川に浸している。彼の皮膚に住まう鯉も心なしか動きが鈍い。時折、男の足の指の間を泳いで、本物の鯉みたいに水の中でぼやけていた。



出会った頃より伸びた髪を鬱陶しげにかき上げる。それでも尚絵を描き続けるが、次第に集中力が切れたのだろう。苛立たしげに舌を打ち、男が筆を投げた。髪に指を通す度、肌に居座る鯉が波をかき分け泳いでいた。



使わなくなった紐を持って男の元へ行くと、たいそう喜ばれた。村の子供の様に手を鳴らし、頭を撫でて褒めてくれるのはいいが、その少し乱暴な手は痛い。頼まれ結い上げた髪は似合わず、歪に纏めるだけとなったけれど、やはり男は喜んでいた。涼しくなった首元で居鯉が馬鹿にする様に鰭を揺らした。



一面に広がる黄金色と空を繋ぐ赤色。独特な匂いは油が混ざってるからだと男は言う。まだ青い畑も山も、男にはもう秋がきているように見えているのか。指の股をくぐる鯉が、赤の絵の具を鬱陶しげに避ける。



日陰で寝そべる男を方扇(ほうせん)で扇ぐ。暑さに弱いのか白い肌は死に人のそれのようだ。男の肩でじっとしている鯉も暑いのだろう。まるで本物の鯉の様に口をはくはくと開けては閉め、当たる風にゆるりと揺れていた。陽射しはまだ高い。



水の澄んだ大きな池に、鯉を皮膚に住まわせる男を連れてきた。鯉を泳がせるのもいいんじゃないかと誘ったが、思いの外男も此処を気に入ったらしい。もうずっと泳いでいる。そのうち、男も鯉になるのだろうか。それは困る。そうなったら、このお重に入った沢山の稲荷は誰が食べるのか。



サボン玉が夏の木々の間をすり抜けていく。縁側で涼む肌に鯉を泳がせる男は、体を伝う汗を拭っては絵を描いている。風鈴が風に揺れる。暑い。誰が呟いたかは分からない。けれど、男が絵を描き終えたら地下の水で冷えた果実を食べる約束をしたのは確かだ。



祭の囃子が聞こえる。腹の底に響く太鼓の音に頭の中で谺して響き渡る笛の音。夜が来れば圧倒される程大きな花が空に咲き乱れる。その光の中で彼の人の内に在る鯉は何色に見えるのか。それが何より気になった。



祭りで釣った金魚を、金魚鉢に入れて眺める。金魚鉢の向こう側では、鯉の住まう男がひたすら絵を描いていた。絵は全て祭りで見た屋台や見世物屋ばかりだ。たまに知らない人も描いている。金魚すくいの屋台の親父の顔もあった。金魚すくいに失敗した客の絵もあった。



ゆらゆらと煙草の煙が立ち上る。(くゆ)る紫煙の中、霞んだ鯉が男の皮膚の中を泳ぐ。キセルよりもずっと短い煙草は、男の長い指によく馴染んでいた。金魚鉢に金魚はいない。代わりに、いつからか緑の瑞々しい水草が生えている。水面に映る煙が、静かに消えた。

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