―春の章―
(花よりも 鯉と団子を 愛でる子は)
春も賑わぐ桜が宴の端っこに、鯉が住まうという男がいた。興味本位で声をかけてみたら、男はすっとんきょうな顔をした後、楽しそうに笑って団子をくれた。男が作ったという団子は、少し甘くて桜のように薄く色づいていた。
庭にある桜が咲いた。月の満ちた夜だ。青白い光に照らされた桜は昼とは違った荘厳さを持って、風に花びらを散らしている。感嘆の溜息が静かに聞こえた。隣に居る鯉を肌に纏う男を見上げる。端の欠けた猪口を傾け、夜桜を肴に濁酒を呷っていた。何だか、こんなにも穏やかな夜は久方振りに感じた。
桜が舞い散る季節。男の住まう家には遅咲きの梅が桜に混じって咲き誇っていた。男は梅と桜の花を手に取り、陽に透かすように持ち上げた。物珍しげに男の横顔で泳ぐ鯉が随分と可愛らしかった。
山の中を絵師様と歩く。絵の具の元になるものを探していると言う。言われた石や花や草のある場所へと黙々と向かう。絵師様は時々物珍しそうに立ち止まる。
お前はまるで蝶の様だな。絵師様は何の前触れもなく言う。振り返れば、絵師様は煙管に草を詰め込んでいた。見詰めていたら視線に気付いて此方を見る。花から花へ飛び回る姿がそっくりだ。彼は笑った。
薬採りの日に、男と野遊びをした。菖蒲に蓬を採り、節の頃にだけ食べられる粽を男と分け合う。あらかじめ持っていた酒に蓬を浸せば、男は興味深そうに飲んだ。居鯉は気に食わなさそうに衣の影に潜んでいる。
飴商人から貰った餡蜜を、男は食べ難そうに啜る。味は良いがすぷーんが欲しい、らしい。指で掬い、腕に伝った蜜を舌で舐め上げる姿は村でも良く見るものなのに、酷く目を引き付けられた。
絵師様は野山を駆ける狼の様です。いつかの絵師様を真似て言う。鯉ではないのかと絵師様は笑う。山の中をひっそりとそれでも孤高の存在として立つ背中が似ている。それを伝える事はついぞなかった。
春一番が吹き荒れる。風に煽られはためく袖を抑えて、隣に立つ男を見上げる。心地好さそうに目を細める男の胸元で、風を凌ぐ様に男の皮膚に居る鯉が見え隠れする。ぽつり、と何処からともなく雨が降ってきた。