やってきたもの
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休日である。日曜祝祭日ではない。いわゆる会社の定休日だ。
本来なら、昼過ぎまで寝ているはずである。しかし、こんな日にかぎって朝っぱらから訪問者がある。
前日に酒を飲み、そのまま玄関のすぐそばに位置する応接間で睡眠を取っていたのもいけなかった。チャイムの音がうるさく、目を覚まさざるを得ない。無視することも不可能。敵はしつこい。ピンポーン、ピンポーンと聞こえてくるたびに腹が立つ。
そのうえ、間の悪いことに妻は子供の授業参観へ出掛けていて不在だ。俺が応対するより他にしかたない。
眠い目をこすりながら起き上がり、玄関へと向かう。
ドアを開けると白髪白髭の痩せた老人が突っ立っていた。片腕には唐草模様の風呂敷包み。
老人は俺と目が合ったとたん、にこやかな笑みを浮かべ揉み手を始める。――あきらかに、押し売りだ。
「うちは、押し売りお断りなんですよ。門にもその旨の札を出しているじゃありませんか」俺はふたたび玄関のドアを閉めにかかった。
「ちょっと、待ってくだされ」老人は慌てて、顔を近づけながら言ってくる。
しかし、待つわけがないのである。俺はそんなお人好しじゃない。そのまま腕を引いていく。
「あれっ」あともう少しといったところでドアが動かなくなった。下を見ると、老人の爪先が挟まっている。ぜったいに、ワザとである。「じいさん、足をどけてくれないかなぁ」
「嫌じゃ」老人はキッパリと撥ね付けた。「なにがあっても引き下がれん。そんなことしたら、日本男児の恥じゃ」
「わけの分からないことを言わないでくれよ」俺は渋面を作って見せた。老人への当て付けである。「押し売りなんかする方が、よっぽど恥じゃないか」
ノブを掴んだまましゃがみ込み、老人の爪先に手をやった。えいっ、と押してみる。
ビクともしない。枯れ木のような体のどこにそんな力があるのだろう。
見上げると老人は仁王立ちしていた。
「年寄りだと思って舐めたらいかんぞ」高笑いする。「わははははっ」
俺はちっと舌打ちした。いっしゅんこの老人をぶん殴ってやろうかとも思ったが、さすがにそこまでは出来ない。いくら押し売りとはいえ、殴ってしまえば傷害罪だ。捕まってしまう。
「じいさん素直に帰ってくれよ」俺は怒りの発作を押さえつけ、穏やかな口調で説きふせた。「うちは、何も購入する気はないんだからさ」
「まずは、話しだけでも聞いてくだされ」すかさず老人は切り返す。「それだけなら、いくらもかからんじゃろうに」
「金はかからなくても、時間のムダだ」俺も負けじと言い返す。「気持ちは変わらんよ」
「そうか。気持ちは変わらんか」老人は念をおしてくる。
「ああ、その通り」俺は頑とした態度を示した。「何度も同じことを言わせないでくれよ」
「うむ」老人は顎をさすり、つづいて天を仰いだ。
どうやら、諦めてくれたらしい。――俺はホッと胸を撫でおろした。
次の瞬間である。
「うわあああん」とつぜん老人は泣き出し、その場に崩折れた。「後生じゃ。後生じゃ」
ゴホゴホと咳込み、鼻をすする。
泣き落としである。その証拠に玄関の足はそのままだ。したたかなジジイである。
「たのむよ、じいさん」俺はホトホト困り果てた。「みっともないマネはよしてくれ」
「そんな殺生なことを言わず、せめて話しだけでも」老人は玄関枠とドアのわずかな隙間から手を入れて、俺の足首をつかんだ。「お願いじゃあ」
「そのヒマさえもないんだよ」嘘である。本当はやることなんて何もない。押し売りの相手をしたくないだけだ。俺はぶっきら棒に言い放った。「他をあたってくれ」
「あぁ、そのセリフはやめてくだされ」皺深い老人の顔は涙と鼻水と汗でグショグショに濡れている。「方々で門前払いされてきたんじゃ。それは、決まり文句じゃ」
「なら、うちもお断りということでいいじゃないか」
「よくない」強く頭を振って否定した。涙と鼻水と汗の混じり合った液体が左右に飛び散った。「それは、ぜったいによくない」
「なんでだよ」俺はうんざりした。「他では断られても、うちは諦めないのかい」
「そのとおり」老人は固い決意のこもった眼差しを俺に向ける。「もう、なにもせんうちから諦めるわけにはいかん」
「無茶くちゃだ」俺はのけぞって、わめいた。「完全にそっちの都合じゃないか」
「たしかに、返す言葉もない」老人はガックリとうなだれた。それでも足首をつかんだ手はそのままである。
「しかしじゃ、話しを聞いてから判断してもよかろう。そうすれば、おぬしの気は変わるはず」老人は勢いよく顔をあげる。「そして商品購入後も、ぜったいに損はさせん」
「なんだかなぁ」俺は上の空でつぶやいた。
そぞろ、馬鹿バカしくなってきたのである。せっかくの休日にこんな押し売りの老人を相手にする羽目になろうとは、夢にも思わなかった。
老人はもうひと押しとばかりに言ってくる。
「だから」地面に額をつけて土下座した。「この通り」
俺は「ふうぅぅぅっ」と、細長い溜め息をもらした。
老人を見下ろして、少しばかり考え込む。
――この老人、おそらく七十は越えているはず。そんな歳になってまで押し売りとは、よほど生活に困窮しているのだろうか。
しかし、仮にそうだとしても俺にこの老人を助ける義務はない。たしかに哀れな感じもしないではないが、それよりも胡散臭さの方が先に立つ。追っ払ってしまいたい。
だが、近所の目がある。この光景を目撃されるとバツの悪いことおびただしい。か弱い老人をイジメていると勘違いされかねない。
「分かったよ、じいさん。顔をあげてくれないか」俺はやさしく老人に声をかけた。商品を購入する気になったわけではない。話しを聞いてから、追っ払う気になったのだ。話しだけでもいいと言ったのは老人の方でないか。言質はとってある。「さあ、早いとこ商品の説明なり何なりを済ませてくれ」
「おお、やっとその気になってくれたか」老人は一変して喜色をたたえ、立ち上がった。
俺は玄関のドアを広く開けてやる。
「それではじゃなぁ」靴脱ぎ場へ足を踏み入れるやいなや、風呂敷包みをガサゴソとあさり始めた。
四角い箱を取り出し、俺に手渡す。「これじゃ」
「なんですか、これは」俺は老人から受け取った得体の知れない物をためつすがめつ眺めた。
「それはじゃなあ」老人は誇らし気に言う。「ゴキブリ取りじゃ」
「ゴキブリ取り」心底あきれ返り、俺は二の句がつげなかった。
わざわざ平日の朝っぱらからこんなつまらない物を売り付けにくるとは、とんでもないジジイである。
老人はそんな俺の心中などまるで察していない様子で、微笑みを浮かべながら商品の説明を始める。
「そのゴキブリ取り、ただのゴキブリ取りとはわけが違う」俺の手にある商品を指さした。「市販の物とは、比べるべくもない」
「ふぅん。こうして見るかぎり、何がどう違うのかサッパリ」と言いかけた時、老人はくわっと目をむいて大声で怒鳴った。
「違う、ぜんぜん違う」
「ひっ」俺は体をびくりとさせた。「な、何がぜんぜん違うのですか」
「それはわしが苦節十年の月日を費やし、作り上げた物なのじゃ」老人は薄汚れたジャケットの胸ポケットから名刺を抜き出し、オレの手に握らせる。「実はこのワシ、知る人とぞ知る世界的な発明家なのじゃ」
俺は名刺に目を落とした。――名前の上にはこれみよがしに発明家の文字。(世界的な)、まで付いていやがる。
そうとうな用意周到さだ。信用を得るためにわざわざこんな名刺まで作っておくとは。
ちょっと考えればそんな偉い肩書きの人間が押し売りなんてするわけがないと、バレそうなものなのに。
しかし、ここはもう老人に合わせておいた方がよい。非を打てば、話しがこじれ長引くだけなのだ。
感心したフリをする。「いやぁ、そんなお方だとはつゆ知らず、もうしわけありません」
「かしこまらなくとも、よい。非礼はゆるす」老人はやにわに尊大な口調となった。「ワシのことを信じてもらえればな」
「信じます。信じますとも」俺は芝居掛った調子で大きくうなずく。「それにしてもこんな物、いや、そうじゃなくてえっと何と言うか、あっそうそう、このような素晴らしい商品開発のため自らの人生を十年も費やすとは、尊敬に値します」
「おお、解ってくれるか」老人は両手でガッチリと握手をしてきた。「口さがない同業者たちのなかには、ゴキブリ取りと聞いただけで馬鹿にする奴もいるが。まるで主婦がヒマ潰しにする発明みたいだな、と」
老人の目に殺意が宿り、両手へ物凄い力が込められていく。
「ぎゃあ。痛い痛い」俺は悲鳴をあげた。「そんな奴ら、無視すればいいじゃありませんか。あなた様のなさったことは、まさに世のため人のため。害虫駆除の研究は崇高なものです、間違いありません」
「なんたる心得者」老人は破顔した。両の手から力が抜け、握手したまま俺の腕を上下動させる。「堅物の発明家なんぞより、おぬしの方がはるかに賢いぞ」
「いやぁ、それほどでも」俺は首筋を掻きながら苦笑した。
この老人、少し頭がおかしいのかな、と思い始めたのだ。ここまで自分の嘘話に入り込めるのは異常である。詐病の気があるのかも知れない。あるいはボケているのか。
老人は一気にまくしたてる。「まずゴキブリというものは何の役にも立たん。これは間違いない。利益をもたらすことは皆無。鑑賞にたえ得るものでもなし。むしろヤツらの存在は我ら人間にとってマイナスにしか作用せん。食糧ばかりではなく建築材や紙類、はてはインクまで口にする。なかには人間の体にまでかじり付くヤツもいる。寝てる時に耳や鼻などの穴から入ってくることも。まさに、害虫。害虫の最たるものといっても過言ではなかろう」
「ふんふん」と、俺は相槌を打つ。
話しを真剣に聞いているわけではない。リズムを付けてさっさと説明を終らせるためにだ。
案の定、老人は勢いづいて続ける。「そのうえゴキブリがどれほど人体に悪影響を及ぼす菌をもっていると思う。これはほとんど無限といってもよい。なにせ現存するやつだけではなく、新種のバイ菌さえも媒体するのじゃからな。これはもう自然発生した細菌兵器がそこらじゅうでウロウロしてるのと同じこと。しかもヤツらの生命力は驚異的、水だけで一ヶ月は生き延びるほどじゃ。恐怖を感じて、しかるべきであるぞ」
「ああ、はい」と、ここで早くも俺はつい生返事をしてしまった。老人の言っていることがあまりにも大袈裟に過ぎるからだ。
たしかにゴキブリは害虫である。健康被害等もあるだろう。
しかし、細菌兵器はヒドイ。そんな化け物の如き生物がいたら人類滅亡である。
抗えないほどの数のゴキブリがいるのなら話は別だが、そんなことはない。踏み潰せば死んでしまう。終わりである。
この老人に合わせるのは、大変だ。
しかし、いいかげんな受け答えをするべきではなかった。老人はすぐに突っかかってくる。
「おぬし」俺をギロリとにらみ付けた。「ワシの言うことを疑っとるな」
「めっそうもございません」俺は激しくかぶりを振った。「世界的な発明家たるあなた様の言うことを疑うなんて、そんなのあり得ません」
「そうか」老人は冷ややかな眼差しを俺に向ける。「何やらてきとうに聞き流された気がしたんじゃが」
「ま、まさか」俺は顔面を引きつらせながらも、なんとか老人の話しに興味がある風を装おうとやっきになった。「あ、そうだ。ゴキブリだって生き物ですよね。となると、食物連鎖の中にいるのは間違いありません。それだけで、役に立っていると言えなくはありませんか」
無理やり質問を試みたもんだから、結果的に反論ぽくなってしまった。
しかし、何も言わないのよりはよかったのだろう。
老人は前の調子に戻って俺の言を一蹴した。「それは自然界に生息するものに限ってじゃ。人家に住むゴキブリが、何の役に立つ」
「あ、そうですね。それは確かに」俺は納得の表情を作った。「おっしゃる通りで」
「うむ」老人はうなずき、たずねてくる。「そんな害ばかりしかない生き物を、おぬしはどう思う」
「嫌ですね。いないに越したことはない」
「そうじゃろう」
何がそうじゃろう、だ。ただでさえ嫌らしいゴキブリをさらに悪く誇張して説明したのである。こう答えるより他にしかたがない。――と、ここまで思考して俺はあることに気が付いた。説明という言葉に触発されたのだが、この老人、商品そのものの説明をまるでしていない。のっけから話しは本筋を逸れている。
「あのう、すみません」意に添う答えを得られひとり悦に入っている老人へ俺は問いかける。「この商品の方なんですが、市販の物とは違うと」
「おお、すっかり忘れとった」老人はポンと手を打ち鳴らした。「それはじゃなあ、超強力なのじゃ」
「へっ」素頓狂な声をあげて、俺はたたらを踏んだ。「他には、なにもないのですか」
「ない」老人は即答した。
商品の説明だけなら十秒足らずで済んだはず。それを何ゆえこの老人は発明家云々の身の上話をし、ゴキブリの含蓄まで垂れたのであろうか。この二つは俺にとってまったく関係のないことだ。
しかも、この二つについて語ったことの方が商品の説明よりもはるかに長かったのである。無駄な時間の上塗り。腹が立って、しょうがない。
「それだけでは不満か」おそらく感情が顔に出ていたのであろう俺に向かって老人は言った。「効き目があるというのが第一。他は二の次、三の次じゃろうが」
「ええ、まぁそうですが」俺は頭をボリボリ掻いた。
不遜な態度を老人に注意されそうな気もしたが、せめてそれくらいせずにはいられない。腹立ちは治まりそうにもないし、効き目なんてのもどうでもいいことだ。
「さて、それでは」商品が売れると見当違いしているからであろう、老人はそんな俺にまるで頓着せず大威張りで訊いてくる。「いくつ必要かな」
「ひとつもいりません」俺は商品および名刺を老人に突き返した。
不測の事態に、老人の顔が歪んだ。
「今のは、空耳か」名刺の乗っかったゴキブリ取りを大事そうに抱えながら、空いている方の手で俺の肩をガシッと鷲づかむ。「おぬし、何と言った」
「だからぁ」俺は強い口調で言う。「それは、ひとつも購入しません」
「なぜじゃ。ワシの物言いが悪かったのか」俺の肩を揺すぶる。「もしそうなら、謝ってもよいぞ」
「そんなんじゃありません」俺は老人の腰に手をやって、そのまま玄関口へ体を反転させた。「とにかく話は済んだのです。帰って下さい」
「さては市販の物を使っておるな」外へ押し出されながらも老人はがなり立てる。「そんな物、たいして効果はない。ワシのを使え。ワシの言うことを信じると約束したばかりではないか。こっちの商品の方が強力じゃ」
「市販の物とか、あなたの物とかいう問題じゃありません」俺はさらに老人の背中へぐいぐい力を込める。「つまり、我が家にそんな物は必要ないんです」
「ちょっと待った。必要ないとは、どういう意味じゃ」老人はせいいっぱいに俺を振り返った。その顔にありありと現れているのは不満の色。「ゴキブリが一匹もいない訳でもなかろうに」
「まさにその通り、一匹もいないんですよ」俺は平然と見え透いた嘘をついた。
広くはないが二階建ての家である。北海道などの極寒の地ならいざ知らず、ゴキブリはいて当り前。
ただ、こうでもしないと老人は帰ってくれそうにもないのだ。
俺は、老人に引導をわたす。
「まさかそんなところにゴキブリ取りを売りつけたりはしませんよね。偉い発明家さんなんですから」偉い発明家、という部分を強調してやった。
「ううむ」老人は低くうめく。
しぶとくも玄関の上枠を掴みふんばってはいるものの、もはや限界であろう。老人にしては相変わらずの馬鹿力だが、体の半分がたはもはや外に出外れている。
あと、もうひと息だ。――俺は老人に体当たりをかましていった。
ヒョイと、老人は身をかわした。
「わっ」転倒寸前である。勢い余って俺の方が外にまろび出てしまった。
「百歩譲っておぬしの言うことが本当だとしよう」老人は膝に手をついてゼイゼイあえぎながら声を絞り出す。「しかし、これから先もゴキブリが住み着かないとは限らない」
視点を変えての逆襲である。
俺は言葉に詰まった。「うっ。そ、それは」
「ほれ、何も言い返せまい」老人は唇の端をつり上げてニヤリと笑った。「だから、これを」
商品を差し出した。
「いらないと言ってるじゃありませんか」俺は顔をそむける。「その時になってから買えばいい」
「買い置きじゃ」老人は近づいてくる。「これは腐ったりはせんよ。いつまでも持つ」
「いつまでも持つ、ですって」俺は購入する意思のないことを態度で示そうと、後ろ手を組んだ。「それはまた、言い過ぎだ」
「いいや本当じゃ」老人はその商品を俺の目の前でヒラヒラと振ってみせた。「なんなら検証してみるか。二人で」
とんでもない提案までしてきた。
永遠ではないにしろ未開封のゴキブリ取りなんて何年も持つに決まっている。そんな長い期間、この老人と関係するのは真っ平ごめんだ。
俺は、地団駄を踏んだ。「むちゃくちゃだ。そんなの受け入れられるわけがない」
「ワシはただ信じてもらいただけ。嘘偽りは、一片もないのじゃからな」老人は自信満々である。「もし商品に欠陥があった場合、返品すればよい。代金は一円残らず返してやる」
「連絡先が分からないのじゃ、どうしようもありません」
「ここにすればよい」老人はあの名刺を俺のシャツの胸ポケットに押し込んだ。
確かに電話番号は記載されていた。が、そんなものデタラメに決まっている。なんの意味もないことおびただしい。
俺は強く横柄な態度へ出ることにした。この老人を持ち上げていてもラチがあかない。図に乗るだけだ。ますますアコギになるのを理解した。
「いいかい、じいさん」眉間へ皺を寄せた。「その商品を購入する義務は、私にはない。いらない物は、いらない」
「ほう。言ってくれるではないか」どうやら俺の態度の豹変を自分への挑戦と受け取ったらしい。老人は上唇をゆっくりと舐め、不敵な面がまえをした。「たしかに義務はない。しかし商品を購入しない理由もない」
「理由だって」俺は人指し指を老人に突きつけて応酬した。「いらないから購入しない。これが、理由だ」
「それじゃあスジが通らん」老人は真っ向から否定する。「おぬしはワシを信用すると言った。そしてゴキブリは嫌だ、いないに越したことはないとも。それでいてこの商品を購入せんとはどういう了見じゃ。矛盾ではないか」
なんてことだ。こっちの方がまんまと言質を取られていたのである。
俺はしどろもどろになった。「それはアレだ、あれあれ」
「それでは商品ご購入じゃな」老人は釣り銭の用意なのだろう、懐から財布を取り出した。
「ま、待て。それじゃあ言ってやる」俺は掌で老人のサイフを押さえつけた。「よそで買うことはあっても、あんたから購入する気はないんだよ」
ヤケクソになっての本音暴露である。
しかし、老人は動じない。理詰めで落とす腹を固めたのだろう。淡々と諭すように語りかけてくる。
「なぜ、よそで買う。ワシから買えば手間が省けるし、なにより効き目に関してはこっちの方が強力なんじゃぞ」
「その効き目じたいも疑わしいんだよ」俺は大声で罵った。「どこの馬の骨とも分からん人間の説明を真に受けて、たまるもんか」
本音暴露の第二段。しかも今度は商品と老人の肩書きのふたつについてだ。
ここまでくればこの老人、気分を害して取り乱すに違いない。と、俺は思った。
が、老人はなおも平静さを失わない。とどめとばかりに畳みかけてくる。
「なるほど。あたまからずっとワシのことを疑っとったのか。信じてもらいたかったのじゃが。まあ、しょうがないといえば、しょうがないのかも知れぬ。しかしワシが嘘をついていると証明は出来ぬはず。すべては本当のことなんじゃから」老人は小鼻をポリポリと掻いた。「もう、いいかげん折れたらどうじゃ」
「しつこいしつこい、しつこい」俺は自分の太股をバシバシ叩きまくった。「警察を呼ぶぞ」
「呼べばいいさ」老人は眉ひとつ動かさない。「ワシも訴えたいことがある。あんたに腰を乱暴に押されて、ひどく痛むんじゃ」
「ああ」俺は頭を抱えてうずくまった。「なんてジジイだ」
ついには声に出してのジジイ呼ばわりである。憎たらしくて、しょうがない。
どうしたらこの老人は押し売りを諦めてくれるのだろうか。まず、口では勝てそうもない。体に手をかけたのも悪かった。
あまつさえ、この老人には恥も外聞もない。そのくせ根気だけはありやがる。押し売りとしては最強だ。
「それじゃあ訊くが」老人の手にある商品を顎でクイッとさした。「そのゴキブリ取り値段はいくらなんだ」
べらぼうに高額でなければ一つだけ購入してやろうと決断したのである。それでこの不毛なやり取りから解放されれば、ずいぶんとマシだ。当初の意を曲げたってかまわない。
老人はしばらく手に持った商品を眺めてから値段を告げ、こう付け加えた。「しかしそれでは市販の物と大差ない値段じゃから、サービスで二割引きしよう。めでたくもあるし」
「めでたい、だって」俺は訝しがった。「いったいなにが……。孫でも生まれたのか」
「教えてほしいか」老人は真顔になる。「おぬしが購入の意思を示してくれれば、教えてやるぞ」
「ああ買うよ。その商品、買ってやるよ」それほど教えてほしいとも思わなかったのだが商品が安物と知り、購入することを決めたので、俺は気軽に応じた。「さあ、意思表示は済んだぞ」
「うむ。よろしい」老人は大仰に頷いた。「それはじゃなあ、おぬしが商品購入者第一号ということなんじゃ」
俺はあんぐりと口を開いた。俺の答え如何によっては、めでたくもなんともなかったのである。どおりで購入の意思表示の方が先だったわけだ。
そのうえ、今まで商品がひとつも売れていなかったというのもかなり酷い。方々で断られてきたのは、今日に限ったことではなかったのか。いったいこの老人、いつからこんな無益な押し売りなんぞを続けてきたのだろう。
やっぱり買うの、よそうかな。――と、俺の頭の中をそんな思いがかすめた。が、またぞろこの老人と押し問答するのは死んでも嫌である。そんな気力、残っちゃいない。
「ひとつ、くれ」俺はポケットの小銭とゴキブリ取りを交換した。「さあ、もういいだろう」
手で邪魔者をおっ払う仕草をする。
「まいどおおきに」老人は関西弁でお辞儀をした。
無礼を働かれた腹いせか、俺を馬鹿にしているかだろう。もしかしたら両方かも知れない。
「使用法は箱蓋の裏側に書いてあるぞ。では、ワシはこれで」と、逃げるように帰っていく。
「まったく、とんだ災難だったな」老人の姿が門の外に消えてから、俺はひとり愚痴った。「得体の知れない押し売りに、こんな物を買わされてしまうとは」
購入したばかりのゴキブリ取りを地面へ叩き付けたい衝動に駆られた。
しかし、いくら安物とはいえ金をはたいたことに違いはない。もしこれが不良品だったらあの老人を見つけしだい責めたてることも出来る。――そう考え、俺はぐっと堪えた。
「とりあえず、こいつをセットしてみるか」俺は玄関口から室内へ目をやった。「どこにするかな。いろいろあって、迷うな」
我が家は二階建て。全部で七部屋。それに加えてトイレが二つと風呂場がひとつ、広めの押し入れもある。
そのすべての場所に、ゴキブリが出る。明らかに一般家庭の倍は出る。老人に言ったのは嘘どころか真逆なのだ。
ゴキブリ取りを切らしていたところでもあり、これひとつじゃぜんぜん足りない。
「うむ。やはり台所にしよう」思案した挙げ句の果てに、俺はそう決めた。
なんせそこは他の部屋の三倍はゴキブリが出る。一般家庭の倍×三である。まるで地獄だ。
「なんで我が家には、こんなにもゴギブリが住みつくんだ。まったく」俺はひとりブツブツ不平をたれながら台所へ直行した。
料理用油が染み込んで黒く変色した床の上に、口の結ばれていないゴミ袋が三つ並んでいた。痛んで半分がた溶けてしまった白菜やらパスタの麺、魚の骨など異臭漂う生ゴミが今にも溢れ落ちそうである。
調理場に目を移すとそこも似たような有り様。ガスコンロの周りは米粒や調味料が飛び散っており、カウンターの上にも豚肉の乗ったマナ板が放置してあった。
シンクの三角コーナーも雑多な種類のゴミの体積。
「冷静になって観察すると、ヒドイなこりゃ」俺は嘆息した。「慣れっこになって気がつかなかっただけか。ゴギブリが住みつく道理だ」
やれやれといった感じで頭を振りながら調理場の下にかがみ込む。そこにも様々な生ゴミが散乱していたが掃除をする気は毛頭ない。それは妻の仕事だ。俺はゴギブリ取りをセットするだけでじゅうぶん。家がこんな状態なのは、妻のせいである。
「悪妻をもらっちまったな。不潔を当たり前だとでも勘違いしているのか」先程の老人に対する怒りが妻へ移ってしまった。
歯ぎしりしながら箱を開ける。
「蓋の裏側に、いろいろ書いてあるなぁ。老人の言っていたのはこれか。なになに念のため本品をセット後はすみやかに遠くへ避難して下さい、だと」俺は声に出して読んでから鼻でふんと笑い飛ばした。「なんのこっちゃ。たかだかゴキブリ取りごときで。爆弾じゃあるまいし」
空き箱を捨て、本体を組み立ててから床に置く。
「これでよしと」俺は両手をパンパンと叩き合わせ、立ち上がった。「明日の朝までにどのくらい掛っているのか、楽しみだな」
くるりと踵を返す。こんどは応接間ではなく二階の自室に戻ってもうひと眠りしよう、そう思ったのである。
が、踏み出してまだ宙ぶらりんになっている足の裏を一匹のゴキブリが走り抜け、俺はあやうく尻餅をつきかけた。
振り返ってみると、そのゴキブリはあの例の商品に突っ込んでいく。
「なっ、なんだ。今、仕掛けたばかりだぞ」俺は上擦った声で言う。「そうだ、偶然だ。ただの偶然だ」
自分自身を納得させ、ふたたび台所の出入り口へと顔を向ける。
「ぎゃあああああああ」この世のものとも思えない大絶叫を発し、今度こそ本当に尻餅をついた。
台所の出入り口のみならず天井や床の隙間等、あらゆる所から黒い物体、つまりはゴキブリがわらわらと這い出してきているではないか。
「こ、これは悪夢か幻か」俺はそのゴキブリたちの動きに目を合わせた。
またしても振り返ることとなった。そして二度目の大絶叫。「ぎょええええええ」
後ろもゴキブリの大群だったのである。しかもそのすべてのゴキブリがあの例の商品に突進していく。
「老人が言っていた通り、商品は強力だった」俺は脱力して阿呆のように呟いた。「しかしこりゃあ、あんまりだ。いくらなんでも、まさか我が家にこれほどゴキブリが住みついていたとは想像の範囲外だ」
俺はその光景を唖然と眺めた。
あきれたことに、商品へ入りきれないゴキブリたちは外紙にかじりついて次々と同類の上へと折り重なっていく。
「逃げよう」俺は正気づいた。「この事態が収まるまで、外へ避難だ」
ゴキブリで溢れ返った床のわずかな安全地帯を見つけては爪先立ちで玄関を目指す。 背筋が凍るような悪感と激烈な嘔吐感に堪えながらもなんとかそこへ辿りつき、傘立てから傘を一本取りあげた。カーテンの開けられた窓ガラス越しに曇り空が広がっていたからだ。
玄関のドアを開ける。
「ひっ」いっしゅん、気を失いかけた。
辺り一帯のゴキブリが黒波となって我が家へ押し寄せてきているではないか。
「くそう。いくら我が家にゴキブリがたくさん住み着いているとしても、あんなにヒドイわけはなかったんだ。外のゴキブリまで、わざわざ誘き寄せていやがる」俺は体勢を崩し前に一歩つんのめった。
何匹かのゴキブリがぶちゅと、音を立てて靴の下で潰れた。
「それにしてもあの老人はいったい何者だったんだ。状況から判断すると、言葉に嘘はなかったのかも知れない。だとしたら、なぜ世界的な発明家が押し売りなんかを……。あっ」膝をパシリと叩く。「金を儲ける以外にも、実験の意味があったんだな。我が家はそれになっちまったってことか」
俺はこの推測が間違いないことを確信した。
そして、今まで雨雲だとばかり思っていたものの正体を知って驚愕した。それは空一面をびっしりと覆いつくしたゴキブリだったのである。
やがて、そのゴキブリの大群は地表を目がけ下降を始めた。
「もう、おしまいだ」俺は諦めの境地に至り、傘を放り投げた。
あの老人があれからどこへ行ったのかは分からないが、ついさっき別れたばかりである。そう遠くへは行けてまい。あの老人も、道づれだ。
それはあの老人の犯したミスであり、まさに自業自得。みずからの発明品がこれほどまでに強力だとは、作った本人にも予測できなかったことだろう。
もはや、この国は人間の住めるところではなくなってしまったのだ。
空から放射能雨の如く降りそそぐ無数のゴキブリ。――その中に、俺は見てしまったのである。
明らかに、日本には生息しないもの達の姿までもを。
-了-