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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第50話 エピローグ

 帝都物産本社ビル、地上38階。


 分厚い絨毯が足音を吸い込む静寂の廊下を抜け、重厚なオーク材の両開き扉を開けた先にある執務室。かつて大黒龍太郎や西園寺豪といった巨悪たちが権力を誇示したその空間は、今や完全に浄化された、風通しの良い清浄な空気に満ちていた。


 東京のビル群を眼下に一望できる巨大なガラス窓を背に、新たな経営陣のトップとして選出された新社長が、デスク越しに深く頭を下げた。前任の大黒の醜悪な肥満体型とは実に対照的な、無駄な贅肉を削ぎ落とした知的な体躯。完璧に着こなした仕立ての良いチャコールグレーのスーツと、白髪混じりの短髪を端正に整えた彼の穏やかな眼差しには、新生した帝都物産のクリーンな未来が確かに宿っていた。


「高野くん。いや、高野清太郎氏。君の残した功績は、この会社にとって計り知れない。膿を出し切り、帝都物産が再び社会的な信頼を取り戻すための土台を作ってくれたのは、間違いなく君だ」


 新社長の言葉には、一片の虚飾もない心からの敬意が込められていた。


「役員会で全会一致の決議が下りた。特命担当の執行役員として、君を経営陣に迎え入れたい。待遇はもちろん、権限も最大限に付与する。どうか、この会社の新しい数字を作っていくために、力を貸してくれないか」


 巨大商社の役員への就任打診。それは、窓際部署に左遷された一介の社員にとっては、まさに天地がひっくり返るほどの栄転であり、サラリーマンとしての究極の到達点だった。


 しかし、高野清太郎は、相変わらず一切のシワがない安物のネイビースーツを完璧に着こなしたまま、温和な微笑みを崩さなかった。


「過分な評価をいただき、恐縮の極みです」


 清太郎は静かに、しかし一滴の迷いもない声で応じた。


「ですが、お断りいたします」


 新社長が僅かに目を見開く中、清太郎は淀みない所作で頭を下げた。


「私の本質は、どこまでいっても『帳尻を合わせること』にしかありません。ゼロから新しい価値を生み出し、未来の数字を築き上げていくのは、皆様のような経営者の仕事です。私はただ、歪んだ数字をあるべき場所に戻しただけ。……それに」


 清太郎は顔を上げ、窓の外に広がる無限の空へと視線を向けた。


「世の中にはまだ、不自然な端数を抱えたまま平然と回っている計算式が、あまりにも多すぎますので」


 その眼差しの奥に宿る、絶対零度の理知の光。新社長はそれを見て、この男がすでに一つの企業の枠組みに収まるような存在ではないことを、肌で理解した。


「……そうか。引き留めるのは野暮というものだな。君の新しい舞台での活躍を祈っているよ」

「ええ。領収書の精算が必要な際は、いつでもお声がけください」


 清太郎は深く一礼し、自身がかつて愛し、そして完璧に解体してのけた帝都物産のシステムから、静かに立ち去った。


★★★★★★★★★★★


 東京・丸の内の一角。

 古いながらも重厚な造りをしたオフィスビルのワンフロア。ドアには『高野総合データ分析事務所』という、地味で目立たない真鍮のプレートが掲げられている。


 しかし、その扉を開けた先に広がる空間は、表向きの地味な名称とはかけ離れた、異様な熱気と最新鋭のテクノロジー、そして極上の華やかさに満ちていた。


 壁の片面を埋め尽くすように設置されたサーバー群と、従来通り四面で構成されたハイエンドモニター。その前では、クロエ・マクスウェルが足を組みながら、流れるようなタイピングで海外のネットワークを泳いでいる。その隣では、フレイヤ・ヨンスドッティルがソファに寝転がりながらタブレットで暗号資産のチャートを指先で弾いていた。


 フロアの中央に置かれた巨大なミーティングテーブルには、菊池真矢と小松美鈴が広げた最新のドローン機材とタクティカルギアが無造作に積まれている。そのすぐ傍らで、お気に入りの白いフリル首輪をつけた黒猫のルカが、ドローンのプロペラを前足でちょっかいを出そうとしては、美鈴に優しくあしらわれていた。


 そして、窓際のカッシーナのソファでは、山内久美子、西川朋美、西田奈央子という大人の女たちが、持ち込まれた最高級のシャンパンを昼間から傾けながら、優雅に談笑していた。


「ねえ、高野くん。役員の椅子、本当に蹴っちゃったの?」


 久美子がグラスを揺らしながら、キッチンカウンターの奥で作業をしている清太郎に声をかけた。


「ええ。私には過ぎた椅子でしたから」

「もったいない。帝都物産の役員夫人になれるチャンスだったのに」


 奈央子がグラスを傾け、切れ長の瞳をいたずらっぽく細めると、朋美も、漆黒のシックなシルクドレスの襟元に手を添え、楽しげに目を細めた。


「権力という檻の中に彼を閉じ込めておくなんて、少し退屈すぎるかしら?」


 と奈央子が笑うと、朋美もくすくすと笑い声を漏らす。


「いいえ。野に放たれた猛獣の方が、観劇には最適ですわ」


 彼女たちの騒がしくも華やかな会話が飛び交う中、清太郎はアイランドキッチンに立ち、自身の仕事――昼食の準備にひたすら没頭していた。


 彼が向き合っているのは、極限まで磨き上げられた中華鍋と、深型の寸胴鍋だった。


 寸胴鍋の中では、あらかじめ下茹でして血合いを完璧に洗い流した鶏ガラが、ネギの青い部分と生姜と共に、沸騰させないギリギリの弱火でじっくりと煮出されている。数時間をかけて抽出された鶏の純粋なアミノ酸は、深い黄金色の鶏清湯スープへと姿を変えていた。


 清太郎は、よく熱した鉄の中華鍋に大さじ一杯の白絞油を引き、そこに三年熟成のピーシェン豆板醤を投下した。


 ジュワッという音と共に、キッチン全体に暴力的なまでの香ばしさと、鼻腔をくすぐる辛味成分が爆発的に広がる。炎と中華鍋の熱気が交錯し、弱火でじっくりと炒めることで、豆板醤の持つ複雑な旨味と鮮烈な紅い色素を完全に油へと移していく。油が透き通った真紅に染まった絶妙なタイミングで、黄金色の鶏ガラスープを一気に注ぎ入れた。


 鍋の中で真っ赤な油と黄金のスープが激しく対流し、乳化していく。


 そこへ、正確な細切りにされたシイタケと、丁寧に手でほぐされたカニかまを投入する。白磁のスープの中で、真紅と白のコントラストが鮮やかに映える。本物のカニよりもジャンクな甘みを持つそれが、酸辣湯の強い個性と完璧な調和をなすことを、清太郎は計算し尽くしていた。さらに、斜め切りにした白ネギを加え、スープの熱で甘みを引き出していく。


 少量の薄口醤油と微量の砂糖で味の骨格を整え、水溶き片栗粉を少しずつ回し入れていく。お玉の背で静かに混ぜながら、スープに滑らかで絶妙なとろみをつけていく。


 そして、最大の山場。


 清太郎はスープがボコボコと沸騰する直前の対流を見極めると、ボウルで完璧に溶きほぐしておいた卵液を、箸を伝わせて細い細い糸のように流し入れた。


 卵液は熱湯の中で瞬時に固まりながら、スープの対流に乗ってふわりと広がり、まるで中華鍋の中に黄金色の花が咲き乱れたかのような美しい光景を作り出した。一切のダマがなく、羽衣のように柔らかな溶き卵の完成だ。


 火を止める直前。彼は中国江蘇省産の黒酢を、鍋肌から素早く回し入れた。


 熱で酸味の角が飛び、黒酢特有の深くまろやかなコクと芳醇な香りが立ち昇る。最後に純正のごま油を数滴垂らし、香りのレイヤーを完璧なものへと仕上げた。


 隣のコンロでは、たっぷりの湯の中で泳がせるように茹で上げられた特注の細ストレート麺が、平ザルでチャッ、チャッ、とリズミカルに湯切りされている。水分を極限まで切られた麺が深みのある白磁の丼に滑り落ち、その上から、熱々でとろみのある四川風スープがたっぷりと注がれた。


「……お待たせしました。特製の酸辣湯麺です」


 清太郎がダイニングテーブルに七つの丼を並べると、部屋中に充満した黒酢の酸味と豆板醤の香ばしい匂いに、全員が作業の手を止めて吸い寄せられてきた。


「……信じられないわね。手に入りやすい食材の組み合わせだけで、ここまで完璧に旨味のレイヤーを構築するなんて。あなたの味覚の演算回路はどうなっているのよ」


 クロエが青い瞳を見開いてため息をつく。


「熱ッ! でも美味い! このスープ、とろみのおかげで麺にめちゃくちゃ絡む!」


 真矢が火傷しそうになりながら麺を啜り、美鈴も無言でフーフーと息を吹きかけながらカニかまの旨味を堪能している。


「酸味と辛味のバランスが芸術的ね。黒酢の深いコクが、豆板醤のトゲを完全に包み込んでいるわ」


 奈央子が大人の余裕を感じさせる所作でレンゲを口に運び、満足げに微笑んだ。


 徹夜明けの脳に糖質を補給する者、次の仕事への活力を満たす者。七人の才覚が、清太郎の作り出した完璧な一杯の丼の前で、束の間の穏やかな時間を共有していた。


 清太郎自身も静かに箸を進めながら、その騒がしくも心地よい風景を、特段表情を変えることなく見守っていた。


 食事が終わり、淹れ立ての凍頂烏龍茶の爽やかな香りがテーブルに漂い始めた頃。


「さて、極上のランチをご馳走になったんだから、仕事の時間よ」


 久美子が、自身のエルメスのバッグから分厚いキングファイルを一つ取り出し、ドン、とテーブルの中央に置いた。


 その瞬間、七人の女たちの空気が一変した。弛緩していた表情が引き締まり、それぞれの領域のプロフェッショナルとしての鋭い眼差しがファイルへと注がれる。


「今朝、私の古いツテを通じて持ち込まれた案件よ。相手は、東証プライム上場のゼネコン。表向きは優良企業だけど、ここ数年の下請けへの異常な発注額の偏りと、政治家絡みのペーパーカンパニーへの不自然な資金流入の噂が絶えないわ」


 久美子の言葉に、クロエが不敵な笑みを浮かべてラップトップを引き寄せた。フレイヤもタブレットの画面を切り替え、真矢は首を鳴らして準備運動を始める。


 清太郎は、温かい烏龍茶の入った茶器を静かに置き、テーブルの中央に置かれたその分厚いファイルを引き寄せた。


 表紙をめくり、最初の数ページに視線を落とす。


 何十万、何百万という無機質な数字の羅列。


 通常の人間には決して読み解けない、インクで印字されただけの無味乾燥な記号の海。


 しかし、清太郎の特異な共感覚は、すでにそのページの中から、微小なインクの滲み、不自然な端数処理、そして人間の欲が作り出した耳障りな不協和音(ノイズ)を、的確に拾い上げ始めていた。


 数字の並びが、彼の脳内で立体的なパズルとして組み上がり、巨大な不正の輪郭が赤黒い染みとなって浮かび上がる。


「……なるほど」


 清太郎の口元に、冷徹で、美しく、そして絶対的な自信に満ちた三日月の微笑みが浮かんだ。


 彼を取り囲む七人の女神たちが、その次の一言を待ちわびるように、息を呑んで彼を見つめている。


 清太郎は、分厚いファイルを両手で優雅に広げた。


「さあ……領収書、拝見します」


 歪んだ数字を正すための、果てしない精算劇が、再び幕を開けた。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


現在予約受付中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告/近況ノートをご覧ください。

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