第16話 西園寺の懐柔と冷徹なる決断
「少々、強引な集金のようですね」
重厚な鉄扉が乱暴に開け放たれた瞬間、高野清太郎は温和な微笑みを浮かべたまま、静かにそう口にした。
なだれ込んできたのは、揃いのダークスーツに身を包んだ監査部の男たち五名だった。彼らの顔には、上層部からの特命を帯びた者特有の、血の通っていない冷酷な使命感が張り付いている。
「監査部長の命令により、本日付で第8資料管理室は完全封鎖される」
先頭に立った監査部のリーダー格が、有無を言わさぬ声で宣告した。彼らは挨拶もそこそこに室内へ散開し、壁一面を埋め尽くすスチールラックから古いキングファイルを無造作に引き抜き、床に放り投げ始めた。乾いた紙が散乱する音が、淀んだ地下室に響き渡る。
「表向きはオフィスレイアウトの変更と不採算部門の整理だ。だが、お前たちのネットワーク権限はすでに剥奪されている。今からこの部屋にあるすべての紙資料は即時溶解処分とし、端末類は情報システム部の立ち会いのもと物理破壊を行う」
「ずいぶんと手回しが早い。鮫島課長の不祥事の火消しに躍起になるあまり、こんな埃まみれの地下室にまで延焼したというわけですか」
清太郎は動じることなく、デスクの中央に置かれた赤いラベルのファイルを軽く指先で叩いた。
「……それは何だ」
「私の個人的な業務日誌のようなものです。お持ちになりますか?」
監査部の男がひったくるようにファイルを奪い取る。中身は、鮫島健太の架空発注事件に関連する、すでに公になった決裁書類のコピーと、いくつかの無害な過去の数字の羅列に過ぎない。しかし、男はそれを「重要な証拠」とみなし、背後の部下に厳重に保管するよう命じた。
「PCの電源を落とせ。ケーブルを抜け!」
男の指示で、部下たちがクロエのデスクへと向かう。
「ちょっと、触らないで。私の私物よ」
クロエはキャスター付きの椅子を後ろに引き、不快げに眉をひそめた。
「社内への無許可での私物の持ち込みは規定違反だ。これも監査対象として押収し、初期化ののち破壊する」
男たちが無造作にケーブルを引き抜き、彼女の四面のハイエンドモニターとメイン端末を次々とカートに乗せていく。
クロエは腕を組み、冷ややかな視線でその蛮行を眺めていた。彼女の端末のローカルストレージは、直前まで走らせていたスクラブ処理によって、磁気的な痕跡すら残さない完全な『空箱』と化していた。
(大事そうに抜け殻を運んで)
クロエは鼻で笑うのを堪え、清太郎と視線を交わした。清太郎の瞳は、すべてが完璧な計算通りに進行していることを告げていた。
リーダー格の男が、無表情のまま清太郎に向き直る。
「高野清太郎、マクスウェル。西園寺常務からの決定事項を伝える。両名には本日付で、無期限の自宅待機を命じる。以降、会社からの許可なく社屋へ立ち入ることは禁ずる」
無期限の自宅待機。それは、事実上の社内からの追放宣告だった。
清太郎の脳裏に、数日前に地上38階の執務室で西園寺豪と交わした冷徹な応酬が蘇る。自身の直属の特命担当にならないかと甘い待遇を提示して懐柔を試みた西園寺に対し、清太郎は「すべての帳尻を合わせるまで仕事は終わらない」と丁重に拒絶した。
あの日の暗黙の宣戦布告に対する、これが西園寺の明確な回答だった。自身の手足にならないのであれば、会社というシステムから完全に切断し、物理的に消去する。その冷徹なまでの決断の早さに、清太郎は微かな感嘆すら覚えていた。
「承知いたしました。では、失礼いたします」
清太郎はジャケットのフロントボタンを留め直し、散乱した書類を一瞥することもなく、静かに一礼して地下室を後にした。
★★★★★★★★★★★
帝都物産本社ビル、地上38階。
分厚い絨毯が足音を吸い込む静寂の執務室で、西園寺豪は窓枠に手をかけ、眼下に広がる東京の街並みを見下ろしていた。
無駄な調度品が一切ない、徹底して温度と湿度が管理された無菌室のような空間。背後の重厚な扉がノックされ、監査部長が恭しく入室してきた。
「常務。第8資料管理室の封鎖、および端末類の押収を完了いたしました。高野とマクスウェルは、特に抵抗することなく退館しました」
「ご苦労だった」
西園寺は振り返ることなく、短い労いの言葉を投げた。
「紙の資料はすべて溶解炉へ。端末は速やかに物理破壊し、破棄証明書を出させろ。復元可能な状態は一切残すな」
「はっ。直ちに手配いたします」
監査部長が一礼して退出していく。
静寂が戻った執務室で、西園寺は黒曜石のようなデスクに向かい、グラスの水を一口含んだ。冷たい喉越しが、僅かな苛立ちを鎮めていく。
自らの上司の不正を完璧な証拠とともに白日の下に晒した高野清太郎。あの並外れた分析力と手腕を手元に置ければ、強力な手駒になったはずだった。だが、あの男の目には、会社の暗部が映りすぎる。コントロールできない不確定要素は、初期段階で完全に潰すに限る。
西園寺は小さく息を吐き、デスクの上に整然と並べられた決済書類に視線を落とした。
地下室のデータは完全に破壊した。社内ネットワークから締め出し、物理的な居場所も奪った。これで、自身の仕組んだ巨大な資金の動きに繋がる糸は、すべて断ち切られた。
★★★★★★★★★★★
数日後の、平日の昼下がり。
品川・天王洲アイル。運河沿いに広がるウッドデッキを、心地よい秋の風が吹き抜けていた。古い倉庫街をリノベーションした開放的なエリアは、水辺の風景とモダンな建築が調和し、都心の喧騒から切り離された独特の静けさを持っている。
運河を見渡せるブルワリーレストランのテラス席で、二人の男女が向かい合って座っていた。
「で? 会社から完全に締め出された気分はどう、エリート様?」
クロエ・マクスウェルは、背もたれに深く寄りかかりながら、微かに挑発的な笑みを浮かべた。
今日の彼女は、オーバーサイズのチャコールグレーのニットに、細身のブラックデニムというリラックスしたスタイルだった。手首には大ぶりのシルバージュエリーが光り、無造作に束ねたブロンドの髪が、運河からの風に揺れている。オフィスでの隙のない姿とは違う、彼女本来の年齢に相応しい軽やかさがあった。
「正確には自宅待機命令中ですので、会社員としての身分は保証されていますよ。満員電車に乗らずとも給料が満額支払われるのですから、これ以上の優待はありません」
清太郎はネイビーのカジュアルなセットアップに、白いハイゲージニットを合わせた装いで、穏やかに応じた。彼のグラスには透き通るようなペリエが、クロエのグラスには琥珀色のクラフトビールが注がれている。
「平日の昼間からこんな見晴らしのいいテラスでビールを飲んで作戦会議なんて、日本のサラリーマンらしからぬ身分ね。まあ、奢りなら付き合ってあげるけど」
クロエはふいっと顔を背けつつも、琥珀色の液体を一口含んだ。その口調は、地下室にいる時よりも明らかに弾んでいる。
テーブルには、粗挽きのパティから肉汁が溢れる厚切りのグルメバーガーや、香ばしく揚げられたフライドポテトが並べられていた。
「それで? 物理的にすべてを奪われたわけだけど」
クロエはポテトを一つ指でつまみ、青い瞳を鋭く細めた。
「完全に油断しています。物理的な破壊で蓋をしたことで、自分の秘密は守られたと確信しているようでした。西園寺常務は、私が彼の懐柔を拒絶したあの日の時点で、我々をシステムから完全に排除するシナリオを描いていたのでしょう」
清太郎は、ペリエの入ったグラスの縁を指で静かになぞった。
「しかし、彼らが壊したのはただの空箱です。クロエさん、クラウドの深層に確保したデータは?」
「完璧よ」
クロエは不敵に笑い、グラスを傾けた。
「私が五つの認証プロセスをかけた分散型ストレージに、すべての生データも解析ログも同期してある。彼らが私のローカル端末をいくらハンマーで叩き割ろうが、あの部屋の紙を全部燃やそうが、ネットワークの向こう側にある真実には指一本触れられないわ」
清太郎は、ハンバーガーをペーパーに包み、ゆっくりと口に運んだ。肉汁の深い旨味とスパイスの香りが広がる。彼は決して急がず、咀嚼し、ペリエで喉を潤してから口を開いた。
「彼らが勝利を確信し、完全に安心しきっている今こそが、我々が次の一手を打つ絶好のタイミングです」
「そうね。監査部を動かして私たちを物理的に排除したってことは、逆に言えば、私たちが掴んだあの情報――西園寺が極秘に進める東南アジアへのインフラ事業出資に潜む資金ルート――が『本丸』であると、彼自身が証明してくれたようなものよ」
クロエはテーブルの上に肘をつき、身を乗り出した。
「でも、彼らが構築したあのパイプラインは巨大よ。私一人で完全に解析してすべてのノイズを拾い上げるには、少し手札が足りないかもしれない」
「その点については、すでに手を打ってあります」
清太郎の言葉に、クロエが眉を上げた。
「西園寺常務が動かす巨大な資金の渦。それを完全に解体するためには、デジタルとアナログ、双方の専門家が必要です。私たちには、より深く潜るための強力な協力者がいる」
「協力者?」
「ええ。近く、あなたにも紹介しましょう」
清太郎は穏やかに微笑んだ。その眼差しは、運河の穏やかな水面を通り越し、遥か遠くの標的を正確に捉えているようだった。
「彼らは自らの権力を疑わず、システムを支配していると信じています。しかし、現実の金が動く以上、そこには必ず足跡が残る。彼が残した不協和音を、私は決して聴き逃しはしない」
清太郎はペリエのグラスを静かにテーブルに置いた。氷が微かな音を立てる。
「あとは、彼が自ら築き上げた城の重みで崩れ落ちるのを、特等席で見届けるだけです」
その言葉に、クロエはふっと息を吐いて笑った。ロンドンで彼女を絶望させたような巨大な闇が、今まさに目の前に口を開けている。だが、今の彼女には不思議と恐れはなかった。隣に座る、この底知れぬ男の論理があれば、どんな巨大な権力も解体できるという確信があった。
「本当に、容赦がないわね。いいわ、とことん付き合ってあげる。私の技術で、あいつらが築き上げた虚栄の城の土台ごと、完全に解体してやるわ」
クロエは皮肉めいた笑みを浮かべ、クラフトビールのグラスを持ち上げた。
清太郎は言葉を返さず、自身のグラスを静かに持ち上げる。澄んだガラスが重なり合う微かな音が、運河沿いの静かなテラスに響き、二人の絶対的な共犯関係を秋の空の下で確固たるものにしていた。




