事故調査ファイル_地獄の窯⑤
本日は最終話まで一気に公開します。どうぞ最後までお付き合いください。
僅かに走っただけでも肺が軋むように悲鳴をあげる。
防護マスクを被っていても希硫酸の霧は完全に防ぎきることが出来ず、それに加えて吸入出来る酸素量が減少するのだ。
「そっちじゃない、低地へ逃げれば酸の霧と爆風に飲み込まれるぞ!
高台へ逃げるんだ! あの岩山は花崗岩で形成されている!
あそこなら地底の圧力が抜けても、地盤ごと持っていかれることはない!」
清貴が指さしたのはグロッケンフェルスを見下ろすようにそびえ立つ山から突き出す大岩だった。
「じょ、冗談でしょう!? 今から、山登りなんて正気じゃないですよッ! 今すぐ飛空艇を呼び寄せましょう!」
「駄目だ!」
悲鳴をあげるゼノンに清貴が鋭く切って返す。
「ナサニエル、飛空艇に伝えるんだ! 街へ戻るな、そのまま旋回して全速力で離脱させろ!
地下で爆発が始まった今、街の上空は熱風と有毒ガスの巨大な煙突だ。今戻ってくれば、エンジンが止まって墜落する。
飛空艇は隣町との境界線まで退避させろ。
……迎えに来るのは、煙が収まって、私たちが合図を送ってからだ」
「分かったよ、僕の小鳥。どのみちこの揺れじゃあ着陸も不可能だ」
ナサニエルが通信機に指示を投げ、清貴はハザードマップを広げながら走り出した。
避難路を素早く見極めながら、崩壊寸前の街の中を駆け抜ける。
「次の角を左だ、……そこを越えれば、――くそッ!」
角を曲がった瞬間に現われたのは巨大な陥没穴だった。
地獄の蓋が抜けたようにぽっかりと開いた口。その底では炎が地を嘗めている。
立ち上る熱気だけでも肌の表面がピリピリと焼けていくのを感じるほどだ。
「迂回する。三番通りを北上!」
「聖女様、二番通りを進んで川を渡りましょう。あの川はひざ丈ほどまでしかありません」
「駄目だ」
親衛隊長の提案を清貴はすぐさま却下する。
「酸化した湖水が流れ込んでいる可能性が高い。足を踏み入れた途端に大火傷だ。対岸までたどり着くのは不可能だ」
「分かりました」
懸命に足を動かす。
それしか出来ることは残っていない。
しかし、厳しい訓練に耐え抜いた親衛隊であっても肺が焼ける痛みを抱えながらの全力疾走は難しい。
まして清貴やゼノンはもうすでに完全に息があがっている。
「聖女様、……失礼いたします」
「なんだアレ、す、……うぁああおおおおお!!?!」
まるで息を乱す事なく並走していたアレスが、ふいに身を屈めると清貴の身体を持ち上げる。
いとも簡単に横抱きにされた挙句、アレスは身を屈めて跳躍すると、建物の屋根へと飛び乗った。
「ここからの方が、街全体がよく見えます。避難経路を見極めて下さい」
「わ、……分かった」
すでに街の東地区はあちこちで火災が起こっている。
それだけではなかった。黄色い煙が立ち上っている箇所がいくつもある。
「あの黄色い煙を見ろ。あれは地底の硫黄が直接気化して噴き出しているんだ。
煙の中に突っ込めば、防護マスクのフィルターなど数秒で目詰まりして使い物にならなくなる」
「では、五番通りも無理ですね」
「ああ、やはり三番通りしかない。だが、……」
それは遠回りになるルートだった。果たして大爆発までに間に合うだろうか。
「聖女様、二番通りの鐘楼を倒して橋にしては如何でしょうか?」
「鐘楼を?」
清貴は湖に視線を向ける。渦巻く湖の色はまだエメラルドグリーンだった。硫酸の濃度は直接触れれば十分に危険だが、石や金属を即座に溶かすほど濃くはない。
「倒せるのか?」
「王国の親衛隊は剣術だけでなく、魔導士や癒し手など複数の才能に恵まれた者が採用されます」
「……ナサニエル王子!! 親衛隊の中にあの鐘楼を壊せる者は!?」
清貴が声を投げると、即座に親衛隊のうち二名が前に進み出た。
それを見てナサニエルが頷いて返す。
「では進路変更! 二番通りを北上、鐘楼を倒して橋代わりにする!」
「聞いたな! 親衛隊、前進!! 破壊要員は先行せよッ!!」
ナサニエルの指示を受け、ただちに二名の騎士が先行する。足を引きずり始めたゼノンを体格の良い騎士が背負って走り出した。
すぐに地響きが聞こえ、鐘楼が砂塵を吐きながら傾くと川をまたぐ形で倒壊する。
「気をつけろ! 水を被った部分は表面が溶けて滑りやすくなっているぞ! 素早く、だが慎重に渡れ!」
親衛隊長を先頭にナサニエルが続き、清貴を担いだままのアレス、騎士に担がれたゼノンが続く。
一列になって橋を渡り終えた頃には、液状化が始まった川底に石材が飲まれつつあった。
「急げッ!」
地面はひっきりなしに揺れており、靴底に伝わる熱は今にも焼け焦げそうなほどに熱かった。
実際、足はすでに火傷を負っているだろう。それでも動けるのは、溢れ出すアドレナリンが痛みを押さえ込んでいるお陰だ。
街を駆け抜け、ようやく山道に差し掛かる。
すでに防護マスクは目詰まりを起こしており、ほとんど空気を取り込めなくなっていた。
「マスクを外して水で濡らした布で口を覆うんだ」
親衛騎士団が名誉の証である白銀のマントを割いてマスクに変える。水筒の水で布を濡らして口を覆うと、皆は黙々と歩き出した。
険しい山道は最早、走ることが難しい。
ただ、爆発が起こる前に逃げきれる事を祈りながら必死に進む以外に道はない。
一歩進むごとに傷ついた肺が悲鳴をあげ、目は涙が止まらない。
清貴はアレスの力強い腕に引かれながら、ただひたすらに足を前へ前へと動かした。
「アレス、あの岩だ。あれが花崗岩だ。あの上によじ登ってロープを投げてくれ」
「お任せ下さい」
アレスは親衛隊から飛空艇の牽引用に持っていたフックつきロープを受け取ると、すぐさま岩壁をよじ登る。
ややあって岩壁を登頂したアレスがロープを投げてきた。
「ナサニエル王子、最初に登ってくれ。お前が行かない限り、親衛騎士団は誰一人動かない」
「……分かったよ、僕の小鳥」
ナサニエルは議論の時間が無駄であると悟ったのか頷いた。
親衛隊がロープの端を輪っかに結び、ナサニエルが腕を絡めるとアレスが勢いよく引きずり上げる。
「次は癒し手だ! 引き上げには負担がかかる。アレスを回復しなければ最後まで持たない」
僅かな躊躇いを見せたものの、癒し手の力をもった親衛騎士は再び降ろされたロープに捕まった。
「次は貴方が行って下さい」
咳き込むゼノンは、口元に撒いた布に赤い血が滲みだしている。
「だが、……」
「駄目です。貴方が先です、清貴様。未来を守ると誓ったのですから、その業を背負う覚悟もしてください。
……大丈夫ですよ。セルジュを置いていく訳にはいきません」
「ゼノン」
言葉に詰まる清貴に、アレスが岩壁から顔を覗かせる。
「二人一緒で大丈夫です。貴方達は軽い!」
その言葉に清貴とアレスは固まった。互いに顔を見合わせた後に、低く呻いてからロープに手をかける。
ロープは最初よりも早いスピードで巻き上げられる。
たどり着いてみればナサニエルも巻き上げに参加しており、それが速度が増した理由だった。
清貴は湖に目を凝らす。
湖面はあちこちで水柱が噴き上げ、中央は渦を巻き、見るからにその水量は減っている。
急速に湖の水が地下坑道へと流れ込んでいるのが見てとれる。
「急げ、急げッ! 時間がないぞ!」
岩盤にあがってきた親衛隊員がロープの牽引に次々と加わり、残る隊員が勢いよく引き上げられていく。
最後の一人が岩場にあがった瞬間、湖の水が一気に湖底へ吸い込まれる。
湖の水が完全に消えた瞬間、耳をつんざくような地鳴りが止み、不気味な静寂が訪れる。
「伏せろッ!!!!」
清貴が叫び、全員がその場に身を伏せた。
アレスは清貴の上へと覆いかぶさり、親衛隊はナサニエルを守る形でその身体を盾にする。
伏せた背中を、圧し潰すように衝撃破が駆け抜ける。頭上の大気が悲鳴をあげ、岩山の表面が衝撃で細かく砕け散った。
吹き飛ばされかけたゼノンの腕を、アレスがぎりぎりで捕まえる。
「まだだ、次は吹き戻しが来る。岩の隙間に掴まれッ!」
爆発によって空白地帯となった場所に、周囲の空気が引き戻される。
「離すなッ!! 絶対に離すなッ! 次は火災サージと噴石が来るぞッ! 魔導士はバリアを張れ!!」
親衛隊の数名が呻き声を上げながら身を起こし、周囲の騎士がその体を支えるために縋りつく。
岩壁の合間に剣を突き立て、強烈な吸い込みに逆らいながら、魔導兵はバリアを展開する。
雨あられと焼けた石の礫が降り注ぎ、数百度にも達する熱の霧が駆け抜ける。
バリアの中であっても、それは蒸し焼きになりそうなほどの熱だった。
バリアを維持している魔導兵が吐血し、慌てて癒し手が回復する。
清貴は必死に身を伏せていた。
濡れた布で口を塞ぎ、高温が過ぎるのを耐え忍ぶ。
永遠とも思えるその時間。
やがて降り注ぐ石礫がバリアに弾かれる音の間隔が増していく。
清貴は唸りながらなんとか身を起こした。
鼓膜が損傷を受けたのか、周囲の音がぼやけている。視界も定まらず、ぐらぐらと未だ地震のように揺れている。
「……皆、生きているか?」
自分の出した声がどれほどの大きさか分からない。
声を出した瞬間に咳き込んで、血と煤の混じった黒い唾液を吐き出した。
「ああ、……大丈夫だ。全員、生きているよ」
肩を叩いたのはナサニエルで、その麗しい容貌も今は煤塗れになっている。
「そら、……良かった、……」
「大丈夫かい、僕の小鳥、すぐに回復を――」
「いい、……僕の負傷度に緊急性はない。重傷者から回復させてくれ」
「……承知した。飛空艇を呼び寄せても大丈夫かな?」
「二次爆発の可能性はあるが、……逃げるなら今しか機会はない。風上から接近させ、着陸はさせるな」
親衛隊員たちは、負傷し、疲弊しきった状況ながら、黙々と仕事を進めていく。
隊長とアレスはまるで疲れた様子もみせず、負傷者を励まし、岩陰に運び水を飲ませている。
やがて重傷者の回復を終えた癒し手が清貴にも回復を施した。視界が開け、周囲の音が戻ってくる。
息をするたびに焼けそうに痛んだ肺も見る間に治療されていく。
大きく吸い込んだ空気は相変わらず硫黄と様々な化合物の臭いを含んでいたものの、それでも今までで一番美味しいと思えたほどだった。
飛空艇から救助梯子を降ろせるように、隊員たちは岩陰へと避難する。
やがて空を震わせながら、白銀の翼が近づいてくるのが目に入る。
煙と灰に包まれた大気の中でも光り輝く飛空艇はまさしく救いの翼だった。
「僕の小鳥、悪いが王国旗をもって岩盤の上に飛空艇を誘導してくれないかい?」
流石に疲弊した様子のナサニエルの声に、清貴は即座に頷いた。
親衛隊から受け取った旗は、煤と熱に焼かれ、かつての鮮やかな意匠を失いかけていた。
清貴はそれを杖代わりにするようにして、一歩、また一歩と、震える足で剥き出しの花崗岩の上を進んでいく。
そうして、まだ熱を帯びた岩の亀裂へ、渾身の力を込めて旗竿を突き立てた。
その瞬間、天空から降りてきた白銀の翼が猛烈な風を巻き起こす。
プロペラが叩きつける凄まじい風を受け、王国旗が千切れんばかりに空へと翻った。
それは暗雲の下で、唯一、意志を持って羽ばたく、――鳥のようにも見えた。
清貴の背後では、グロッケンフェルスの街が、……その歴史のすべてが、巨大な陥没穴となって音もなく暗黒へと滑り落ちていた。
かつて命を育んだ湖は見る影もなく干上がり、亀裂からは地底の劫火が呪詛のように赤黒い光を放っている。
時計塔が、屋根が、そして昨日までそこにあった人々の営みが消えていく。
それは目を奪われるような、一つの終焉の形だった。




