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迷い子たちの帰還  作者: やす。


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序章 過去…遠い記憶

お話の始まりは、明治の中頃から昭和の初めの頃にかけて、古き良き日本の、どこかの海辺で。

第一節 潮の匂いを分け合った日

 港町の朝は、いつも少し塩辛い。潮の匂いが木造の家々の壁に染み込み、人の記憶にまで入り込んでいる様だった。

 八木太一は、海を背にして歩く癖があった。幼い頃からそうだったが、本人は理由を語らなかった。また、語る必要を感じてもいなかった。浜へと続く道の途中、網を干す男たちの声が聞こえる。笑い声と、怒鳴り声と、諦めの混じった沈黙。この町の男たちは、皆、何かを飲み込んで生きている。

 その日、太一は中島退助と出会った。港の端、古い倉庫の影で、退助は一人、縄を解いていた。結び目は固く、指先には既に赤みが差している。

「手を貸そうか。」

太一が声をかけると、退助は一瞬だけ顔を上げた。目は鋭いが、どこか疲れている。

「……ありがとよ。」

それだけで十分だった。二人は並んで縄を解き、結び直し、無言のまま作業を終えた。沈黙は重苦しく無かった。むしろ、余計な言葉を削ぎ落としたあとに残る、澄んだ空気のような、心地良さが感じられた。

 太一は、退助と言う男を、すぐには理解しなかった。だが、理解が必要とも思わなかった。二人の間に訪れたものは、理解というよりも、共感…に近い感覚だった。

 仕事の合間、港の防波堤に腰を下ろし、二人は煙草を吸った。煙は潮風にほどけ、すぐに消えた。

「海は嫌いか?」

退助がぽつりと訊いた。

「嫌いじゃない。好きでもない。」

太一はそう答えた。退助は短く笑った。

「俺もだ。」

「好きだと言うほど綺麗じゃないし、嫌いだと言うほど、離れられもしない。」

太一は、その言葉を胸の中で反芻した。まるで、海ではなく自分自身の生き方を言い当てられた様だった。

 やがて、二人はそれぞれ家庭を持つことになる。それは自然な流れであり、逆らう理由もなかった。

「正しい男」であること。妻を持ち、子を持ち、町の一員として働くこと。太一は、その役割を受け入れた。退助もまた、同じ道を選んだ。

 だが、ある夜、仕事帰りの薄闇の中で、二人は偶然港の外れで立ち止まった。波の音が、近い。灯りは遠く、言葉は浮かばない。退助が言った。

「もし、違う生き方があったとしても……俺達は、きっと同じ選び方をするんだろうな。」

太一は答えなかった。だが、その沈黙は、否定ではなかった。

 町では、祭りの準備が始まっていた。寄り合いの声、木槌の音、子どもたちのはしゃぎ声。男たちは神輿の担ぎ手として集められ、汗と酒と笑いにまみれながら、身体を慣らしていく。

 祭り当日、太一と退助は褌姿で、肩を並べた。太い梁が、肩に食い込む。掛け声が揃い、群衆の視線が集まる。

 その瞬間、二人は言葉を交わさなかった。だが、肩に伝わる体温と、呼吸のリズムと、神輿の重みの均衡の中で、お互いの存在だけが異様なほど鮮明だった。太一は思った。

「俺はこの重さを、一生忘れないだろう。」

 その年、二人に息子が生まれた。太一は息子を、大助(だいすけ)と名付けた。退助は息子を、太地(たいじ)と名付けた。話し合う事もなく、互いの名から、一字を借りて。誰にも語らなかった。妻にも、町にも、子どもにも。それは、誓いではなく、告白でもなく、ただの祈りだった。

 語られないまま、胸の奥で静かに脈打つ、小さく、しかし消えない想い。

海の匂いのように、やがて家族の記憶にまで沁み込んでいく事になるとも知らずに。

第二節

秘めた日々と、父になる男たち

 子供が生まれると、時間の流れが変わる。一日は短くなり、人生は静かに狭まっていく。太一は、朝の薄明のうちに起きるようになった。弁当包を手に取り、妻・菊子の寝息を乱さぬよう、戸を閉める。台所には、昨夜の湯気の名残があり、味噌と醤油、米を炊いたときの匂いが、混じっていた。

「行ってきます。」

声は小さく、だが確かだった。それだけで、自分の役割が完結するような気がした。

 仕事は身体を削る。港の荷役。縄の締め直し、重たい木箱、塩に濡れた指先。正午を過ぎる頃には、

背中に汗が張り付き、褌の下まで湿り気が広がる。汗は不快だが、嫌いではなかった。それは「生きている証」の、ようでもあり、「はたらいている言い訳」のようでもあった。

 昼休み、太一は防波堤に腰を下ろし、弁当を広げる。冷めた白飯。梅干し。玉子焼き。少し硬くなった魚。それを噛みしめると、自分が「正しい男」であることを思い出す。

 退助もまた、父になっていた。彼は表情を多く見せない男だったが、家に帰り、子を抱くときだけ、ほんの僅かに目元が緩んだ。

 夜、湯に浸かりながら、退助は自分の胸に浮かぶ感情を、押し流そうとした。湯気の向こうで、妻の声が聞こえる。子どもの泣き声が混じる。

「これでいい。」

「これが、正しい。」

そう言い聞かせながら、胸の奥に沈んだ別の感情には、決して触れなかった。だが、港で太一と顔を会わせる度、その感情は水底から浮かび上がる。

 ある夏の日、二人は川で身体を洗った。仕事の帰り、汗と塩を落とすために、誰に言われるでもなく、並んで川に入った。水は冷たく、筋肉の疲れを静かに締め付ける。

 汗に湿った六尺褌を解き、生まれたままの姿で、川の流れに身を任せる。水面に映る肩。濡れた胸。

滴る髪。互いの身体を、じっと見ないようにしながら、しかし視界の端で、確かに意識していた。

 言葉は無い。だが、沈黙の底には、触れられなかった何かが、確かに横たわっていた。退助が小さく笑った。

「若い頃は、こんな風に並んで川に入るなんて、思ってもみなかったな。」

太一は、

「そうだな。」

とだけ答えた。それ以上の言葉は、どちらにも許されていなかった。

 その年の祭りでも、二人は並んで神輿を担いだ。汗に濡れた褌。擦れ合う肩。荒い息。掛け声の合間、

太一は一瞬だけ退助を見た。同じ疲れ。同じ覚悟。同じ、口に出せない後悔。

「もしも。」

「もしも、別の人生を選べたなら。」

その思いは、胸の奥で燃えかけ、すぐに踏み消された。

 家に帰ると、太一は息子・大助の寝顔を見る。小さな胸の上下。柔らかな手。まだ何も知らない瞳。

「この子には、自分の様な後悔を背負わせたくない。」

だが、その願いの奥底には、決して口に出せない別の祈りが混じっていた。

「それでも、あの男と分かち合った時間は、消えて欲しくない。」

 海の匂いは、今日も町に満ちている。そして、言葉にならなかった想いは、静かに次の世代へと滲み始めていた。

第三節

受け継がれる名と、気づかぬ感情

 子どもは、知らぬうちに親の影を追う。大助と太地は、同じ町で育った。家も近く、学校も同じで気が付けばいつも並んで歩いていた。二人の名には、父達の秘密が潜んでいた。太一の息子、大助(だいすけ)。退助の息子、太地(たいじ)。互いの名から、一文字ずつ受け継いだ事を、子ども達は勿論、知らない。だが、父と母は知っている。そして、母はその意味を、察してもいる。

 夏になると、二人は川へ走った。濡れたシャツを脱ぎ捨て、裸足で水に飛び込む。水しぶき。笑い声。日焼けした肩。

 川岸では太一と退助が、煙草をくゆらせながら、それを眺めている。

「元気だな。」

退助が言う。

「若いってのは、それだけで眩しい。」

太一が応じる。

 だが、その胸の奥では、別の感情が静かに疼いていた。

「俺達が叶えられなかったものを、あの子達は、背負っていくのか。」

それは願いなのか、それとも恐れなのか、二人にも判別がつかなかった。

 大助と太地は、幼馴染という言葉では、足りないほど近かった。一緒に弁当を食べ。一緒に川で泳ぎ。一緒に叱られ。一緒に帰る。転んだときは、いつもお互いに手を差し伸べた。

「おまえ、また無茶したな。」

「おまえこそだろ。」

言い合いながら、互いの膝や肘の泥を払い合う。その指先の距離は、時に不思議なほど近かった。だが二人は、それを特別とは思わない。ただ、自然だと感じているだけだった。

 母親たちは、静かにそれを見守っていた。菊子と、退助の妻・静子は、洗濯物を干しながら、子ども達の

姿を目で追う。

「……あの子達、仲がいいわね。」

菊子が言う。

「ええ。昔のあの人たちみたいに。」

静子が微笑む。その微笑みには、僅かな痛みと、深い理解があった。二人の女は、夫達が背負ってきた沈黙の意味を知っている。

「あの人達は、言わずに生き抜いた。口にせず、家族を守り抜いた。」

だからこそ、息子達には同じ苦しみを、味わって欲しくないと願っていた。

 ある夕暮れ、大助と太地は防波堤に、腰を下ろしていた。潮風が髪を揺らし、海は鈍い光を返している。

「将来さ……。一緒に仕事ができたら良いな。」

大助が言う。

「良いな。ずっと一緒って訳にもいかないだろうけど。」

太地が返す。

「でも、離れる気はしないな。」

と、大助。

「俺もだ。」

笑う太地。

 その言葉には、まだ恋の名も、愛の名も無い。だが父達が、かつて抱いた感情の影が、確かに宿り始めて

いた。

 その夜、太一は一人で酒を飲みながら、遠い記憶を思い返していた。川で並んで泳いだ若い日。褌姿で神輿を担いだ祭り。言えなかった言葉。触れなかった手。そして今、並んで笑う息子達の姿。時代は変わる。だが、想いは形を変えて残る。胸の奥が、僅かに締め付けられた。

第四節

父達の沈黙、息子達の予感

 思春期は、音も無く始まる。大助と太地は、いつの間にか、子どもではなくなっていた。背は伸び、声は低くなり、肩の線には男の輪郭が、宿り始める。

 夏の終り、二人は川で水浴びをしていた。汗に濡れたシャツを脱ぎ、越中褌一枚の姿で、水に入る。水面に反射する日の光。身体に張り付いた薄い木綿の生地に、透ける肌色、濡れた胸元。大助は、ふと太地の横顔を見て、何故か目を逸らした。理由は分からない。だが何故か、胸の奥が微かに、ざわついた。

「……見すぎだぞ。」

太地が冗談めかして言う

「見てねえよ。」

大助は笑いながら否定する。笑いながら、自分の鼓動の速さに戸惑っていた。それは友情なのか。それとも

友情の皮を被った別の何かなのか。二人にはまだ言葉がない。

 町の大人たちは、彼らを「仲の良い若い衆」と呼ぶ。「昔の太一と退助みたいだな。」

そんな声も聞こえる。その度、太一と退助は目を伏せる。過去が、言葉を持たぬまま胸を締め付けるからだ。

 夜、太一は縁側で煙草をくゆらせながら、茶の間で宿題をする大助の背を眺める。

「俺と同じ道を歩ませたくない。だが、止める資格もない。」

胸の内で、二つの願いがせめぎ合う。

 退助もまた、同じ葛藤を抱えていた。息子・太地が笑う度、そこに若い日の太一の影を見る。

「もしも、あの頃に戻れるなら。いや、戻ってはならない。」

後悔は、いつも遅れてやってくる。

 ある秋の日、祭りの準備で町が騒がしくなった。大助と太地は若い衆として、始めて本格的に担ぎ手に加わる。

 倉庫で六尺褌を締めて、晒の腹巻を巻いていく。越中褌とは、明らかに違う布の感触。自分たちも、町の伝統を担う年頃になったんだ、と言う自覚から身体に漲る緊張と、期待に興奮。それが、少年と男との境目。

 太地が小さく笑う。

「なんか、大人になった気がするな。」

大助も笑うが、視線は無意識に、太地の腰の線を追っていた。

 汗が滲み、布が肌に食い込む。肉体の近さ。息の距離。触れそうで、触れない腕。神輿が持ち上がり、掛け声が町に響く。その騒音の中で、二人は、お互いの鼓動を、確かに強く感じていた。

 祭りの夜、川辺で一息ついた二人は、並んで腰を下ろした。褌姿のまま、汗を拭きながら夜風に身を晒す。

「俺さ……。」

大助が言いかけて、言葉を飲み込む。

「何だよ。」

太地が促す。

「いや……おまえと居ると、落ち着くなって思っただけだ。」

太地は一瞬黙り、それから静かに笑った。

「俺もだよ。」

その瞬間、二人の間には確かに「何か」が通った。

 父たちが、若い日に確かに感じていたもの。言葉にできず、生涯胸に残したもの。だが息子達の時代は、少しだけ違う風を帯び始めていた。

 その夜、菊子と静子は、灯りの下で静かに語り合う。

「あの子たち……。」

菊子が言葉を選ぶ。

「ええ。でも、あの人達の様には、させたくないわね。」

静子の声には、夫への深い敬意と、同時に静かな哀しみがあった。「言えなかった男たち。」「言わずに耐えた人生。」その重さを、息子達には背負わせたくない。それは、夫たちへの感謝であり、愛であり、そして祈りでもあった。遠くで、潮の音が鳴っている。

 父たちの沈黙は、子どもたちの胸に、まだ名のない予感として芽生え始めていた。

第五節

別れの兆しと、それでも選ぶ道

 進む道は、ある日突然。目の前に現れる。

 太地と大助は、もう少年ではなかった。町の仕事を手伝い、家族を背負うことを、意識し始める年頃になっていた。港での労働は相変わらず厳しく、朝は冷え、昼は汗にまみれ、夕方には腕も腰も重くなる。

 褌の下に溜まる汗。潮と油に汚れた手。疲労で鈍くなる感覚。それでも二人は並んで働き、並んで休み、並んでタバコの煙を空へ吐いた。

「この町を出るかもしれない。」

ある日、太地がぽつりと言った。大助の胸が、僅かに沈む。

「仕事の口があるって?」

「親戚を頼ればな……。ずっとここに居るのも、悪くは無いけど。」

沈黙が落ちる。潮騒だけが、二人の間を満たす。大助は、「離れたくない理由」を持ちながら、それを言葉にできない。父たちがそうであったように。

 その頃、太一と退助は、息子達の成長を静かに見守っていた。太一は、太地の背中を見る度に、若い日の退助の影を思い出す。退助は、大助の笑顔に、若い日の太一の面影を重ねる。

「俺達の様にはなるな。だが、俺達の様に、誰かを大切に思える男であれ。」

相反する願いが、胸の奥で、折り重なっていた。

 やがて、大助には縁談の話が舞い込む。堅実で、良い家の娘で、「正しい人生」の象徴の様な話だった。夜、大助は太地と、港の端に腰を下ろす。

「……縁談がある。」

「そうか。」

太地は驚きを隠しながら、無理に笑った。

「めでたいじゃないか。」

その笑顔の裏で、胸の奥が静かに裂ける。大助もまた、同じ痛みを抱えている。

「言えない。言ってしまえば、何もかもが壊れる。」

父たちの沈黙は、確実に息子達の中にも流れていた。

 結婚。別れ。新しい家庭。大助は妻を迎え、太地もやがて別の道を選ぶ。それぞれが、「正しい男」として生きる選択をした。だが、心の奥に残った「もしも」は、決して消える事がなかった。

 時は流れ、太一と退助は老いていく。腰は曲がり、手は震え、若い日の労働の爪痕が、骨の奥に残る。それでも二人は、時々並んで海を眺める。言葉は少なくなったが、沈黙の中には若い日の感情が、まだ確かに息づいている。言えなかった愛。選ばなかった人生。それでも、共に歩んだ時間。

 やがて、退助が病に伏す。太一は、何度も見舞いに通う。病室の薄暗い光の中、退助の胸は静かに上下する。

「……太一。」

かすれた声。

「ここに居る。」

それだけで、言葉は足りていた。握った手は、かつて触れられなかった温もりを持っている。遅すぎた。だが、無駄ではなかった。

 二人は、最後の瞬間まで言葉にせず、それでも確かに「分かり合って」いた。

第六節

海の記憶

 ある晴れた昼下がり、病室の窓から遠くに、海が見えた。退助の胸は浅く上下し、呼吸は細く、潮の満ち引きの様に揺れている。太一は、枕元の椅子に腰を下ろし、その痩せた手を握っていた。

 かつて神輿を担い、褌姿で笑い合い、汗と疲労にまみれて並んで歩いた男の手。今は細く、軽く、まるで別人の様だ。だが、その温もりだけは、確かに昔のままだった。

「……海は…静かか?」

退助が、掠れた声で呟く。

「ああ。今日は波も穏やかだ。」

太一の声は、いつもより低く、柔らかい。

「……覚えてるか。」

「何をだ。」

「…海水浴の…事。あの年の…旅。」

太一の胸が、きゅっと締め付けられる。

 今よりも、少し若かった頃、息子たちが独り立ちした頃合いに、二人の半生に対して家族より贈られた、労いの旅。褌を締め、潮に身を浸し、笑いながら並んで泳いだ、あの日。

 海水に濡れた肩。日に焼けた背中。言葉を持たないまま、確かに「通じ合っていた」瞬間。

「あのとき……。」

「俺は……お前と…一緒に居られて…嬉しかった…。」

それだけの言葉だった。だが、太一の胸には、生涯抑え続けた感情が、一気に溢れかける。

「……俺もだ。」

たったそれだけ。告白ではない。だが、それで十分だった。二人は、遂に言葉にせず、それでも最後の最後で確かに「確かめ合って」いた。

 夜が深まるにつれ、退助の息はさらに弱くなっていく。太一は、その手を握りながら、心の中で何度も呼びかける。若い日の俺たち。祭りの夜。汗と煙草と弁当の匂い。海の光。川の冷たさ。全てが、一つの波となって押し寄せる。

 退助の目が、ゆっくりと閉じる。

「……ありがとう。」

最後の言葉は、風のように軽かった。そして、静かに息が止まった。

 葬儀の日も、町は潮の匂いに包まれていた。喪服姿の太一は、俯いて焼香を済ませる。退助の息子・太地が、深く頭を下げる。

「……父は、あなたの事を大切に思っていました。」

太一の胸が、張り裂けそうになる。

「……ああ、俺もだ。」

それ以上は言えない。だが、言う必要も無い。

 それからの日々、退助の居ない世界は静かに、太一の日常を侵食していく。朝の港。並ぶはずの影。煙草の煙。全てが、1人分だけ足りない。家では、妻・菊子と息子・大助が、変わらぬ日常を守ってくれる。それは、太一にとって確かな救いだった。だが、胸の奥から、退助の存在が消える事は無い。

 太地……退助の息子が笑う度、若い日の退助の面影が重なる。海を見れば、あの旅の記憶が胸を締め付ける。それでも太一は、「正しい男」として生き続ける。家族を守り、孫の手を引き、静かに歳を重ねていく。愛した男に先立たれた痛み。だが、家族という光がある。それでも、あの想いは消えない。

 夕暮れの海を前に、太一は一人、腰を下ろす。風が褌の感触を思い出させ、遠い潮騒が胸を揺らす。

「……まだ、俺は生きてるぞ…退助。」

返事は無い。だが、波音の奥に、確かにあの笑い声が、混じっている気がした。

第七節

息子世代の未来

 晩秋の朝は、骨の奥まで冷える。太一は縁側に座り、ひざ掛けを掛けたまま海を眺めていた。若い頃に担いだ荷の重みが、今も骨の奥に残っている。手は細くなり、背中は丸まり、息は少し浅い。

 だが、潮の匂いを吸い込むときだけは、若い日の感覚が胸の奥に蘇る。汗。褌。煙草。祭り。海水浴の旅。そして、退助。あの男の笑い声は、今も波の音に紛れて聞こえる気がする。

 息子・大助が、湯呑を運んでくる。

「無理するなよ、親父。」

「……無理は、もう出来ん歳だ。」

苦笑する声には、長い年月の疲れと、それでも生き延びた誇りが混じっている。庭では孫が遊び、太地…退助の息子が、訪ねて来る事もある。彼の横顔に太一は何度も、若き日の退助を見る。

 胸が締めつけられる。それでも目を逸らさない。消えはしない。だが、背負って生きる。それが、自分の選んだ道だった。

 夜、布団の中で、太一は静かに目を閉じる。妻・菊子の寝息が隣にある。家族の温もりが、最後の支えとなっている。

 だが意識が薄れていく中で、浮かぶのはやはり、退助の姿だった。褌を締め、汗に濡れ、肩を並べて神輿を担いだ日。

 川で身体を洗い、海で並んで泳いだ、言葉にならなかった、若き日。

「言えなかった。」

「選べなかった。」

「それでも、確かに愛していた。」

心の中で、初めてその言葉を許す。

「愛していた。」

それは誰にも聞かれず、誰も傷つけず、ただ波の音に…溶けて消える。

「……退助。」

そのまま太一の呼吸は、まるで潮が引いて行くかのように、ゆっくりと、やがて静かに…止まった。

 葬儀の日、海は穏やかだった。大助と太地は並んで立ち、父たち世代の影を胸に抱いている。二人はかつての父ほど、悲しい沈黙を背負ってはいない。

 時代は変わり、選択肢は増え、言葉にできる未来もある。だが、胸の奥には確かに残っている。

「名に込められた想い。」「語られなかった愛。」「潮に染みた友情。」それを「呪い」にするか、「灯」にするかは、彼らの世代に委ねられている。

 夕暮れ、大助と太地は海を見下ろす。

「親父たち…俺達より、ずっと不器用だったんだろうな。」

「……でも…でもとても…真っ直ぐだった気がする。」

沈黙が落ちる。だがそれは、父たちの沈黙ほど痛ましくない。波は寄せ、そして引いていく。

 想いは、形を変えながら、次の世代へと受け継がれていく。

終節

海はすべてを覚えている

太一と退助は、「正しい男」として生きた。家族を守り、言葉を飲み込み、胸の奥に恋を閉じ込めたまま、人生を全うした。

 救いは、決して完全ではなかった。だが、彼らの沈黙は、次の世代に「少しだけ自由な未来」を残した。

 潮は満ち、そして潮は引き、繰り返される日常と、紡がれていく次の時代。海だけが、全てを覚えている。褌の感触も、汗の匂いも、言えなかった愛も、看取りの手の温もりも。

 そして今日も、波の音のどこかに、二人の笑い声が微かに、混じっている。

 終わらないのは、悲しみではなく、記憶なのだ。

 

長い物語の中に、序章として組み込まれたこのエピソードは最初、一本の独立したお話でした。ちょっと切なすぎる結末になってしまったので、その読後感を「もうちょっと」柔らかくするために、この後の展開を考えました。まぁ、気楽にいきましょう。

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