《97》
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八月下旬のある日、海辺の科学館、スターシップMINATOでは、陰気臭い空気が漂っていた。
一人の人間のまとう負のオーラがその源だった。
例えば、いつも陽気に過ごす若い女性職員などが、同僚と和気藹々と高い声でおしゃべりしながら通路を歩いているとしても、そのオーラをまとった者を一目見るだけで、彼女は同情と不快感に襲われて沈黙させられ、くさくさしてくるのであった。
天国宙が例の国立天文台の採用試験に不合格になったことは、個人情報保護の意識から公表されることはなかったが、噂があっという間に伝播して、結局科学館のほとんど隅々にまで伝わった。
ハワイが懸かった勝負に、宙はあえなく破れてしまったのだった。
結果の通知だけあって、採用されなかった原因は詳らかにはされていないが、本人においては、やはり苦手としていた英語が災いしたのだろうという推論が立っていた。募集された望遠鏡の技師に必要だったのは、天文学の知識よりは、むしろ機械の整備に対しての明るさや、勤務地であるハワイの人々とのやり取りに欠かすことの出来ない語学能力なのだった。
通知は書面にて天国家まで送付され、陽子がまず手にし、宙に渡され、彼女は胸が張り裂けるほどの動悸と、合格していればいいという期待と共に開封してみたが、不採用を知らせる文面の冷徹さに、卒然と血の気が引くようだった。陽子の「どうだった?」という問いに、宙は平気と装って「落ちた」と返したが、陽子はその失望が推知され、いたたまれない気持ちになった。
「まぁ、いいじゃん。アンタ、失うものないんだし、行けたらラッキーっていう感じだったんでしょ」
陽子は宙に対する同情に押しつぶされないよう、努めて明るい声でそのように慰めたが、宙は茫然自失といった具合で、しばらくそっとしておかざるを得なかった。
通知を受け取った後の出勤日の朝、宙は館長のデスクまで行き、通知を見せて、「ダメでした」と呟くように言った。
館長は通知を確かめると、特に同情などせず、淡泊に「そうか」、と答えた。「残念だったな。だが、我々としてはむしろ喜ばしいことさ。何せ君がここで勤続してくれることが決まったんだからな。これからもよろしく頼むよ」
宙は引き下がり、始業時間になると普段のプラネタリアンの職務に従事したが、周りの者は、その時はまだ彼女の不運を知らないので、嫌に落ち込んでいるその様子が妙に思われた。だが、段々と噂が広がって宙の不合格が知られてくると、彼等は、彼女に対する配慮から、あまり多くの仕事を与えないように、その負担にならないように、彼女が早く帰れるように、取り計らってやった。
宙にはその配慮が察せられ、感謝したが、同時にそういう風に気遣われる自分が惨めで仕方なかった。
三時の休憩時、古川が喫煙しにデッキに来てみると、すでに宙がいたので奇異の念に打たれた。来るとしても、決まって古川の後なのに。
彼女は白いプラスチックのガーデンチェアに座り、ひどい猫背で、海原に向かってぼんやり遠くを見ているようだった。
その日は八月の残暑が厳しかったが、晴天に恵まれ、デッキからの眺望は素晴らしいものだった。まばゆい光輝が波立つ水面に照り付け、デッキの天井まで反射していた。
古川がそばまで来ると、宙はチラッと彼を瞥見するだけで沈んだ様子は特に変わらなかった。
「あんまり落ち込むなよ」、と古川がライターで煙草に火を着けて励ます。「そういう風にガックリ落ち込まれると、こっちまで萎えてくる」
「ハァ」、と宙はため息する。「たった一回のチャンスを逃したショックは大きいですよ。この海くらい」
「そりゃ、広大だなぁ」
古川はしみじみ共感するように言い、紫煙の昇る煙草を咥えて、喫煙した。
「やっぱり英語かなぁ」
宙が自問すると、古川は口の煙草を離した。
「運が悪かっただけさ」、と彼。「そう思っときゃ、いいって」
だが、宙が納得する素振りはなく、古川はその様子を見て続けた。
「過ぎたことはさっさと忘れちまうこった。お前、何か趣味とかなかったか?」
「天体観測以外、特にないです」、と宙。「それで旅行を趣味にしようとして、今回ハワイに行ければと思って求人に応募してみれば、このザマです」
すっかり気落ちしている風に宙は言った。古川は肩をすくめてやれやれという感じだった。
「花火でも観に行きゃ、いいじゃないか」
「花火」、と宙は呟いた。
「聞くところよると、近く花火大会があるみたいだぜ。隣町だけどさ」
古川の言う花火大会とは、きっと、ショッピングモールのエスカレーターのそばの柱にポスターの掲示で春頃から早々と宣伝されていたものに違いなかった。宙においては、何度か欧華との会話で出てきたが、それぞれ同じように思っていても、なぜかいっしょに見に行こうという言葉が出てこず、ギリギリまで至ってしまった。すでに花火大会は目前だ。
宙は自分が技師の試験に落ちてハワイに行けなくなったことを、プライドのせいで中々欧華に知らせられずにおり、彼女は何となく、欧華がすでに知っている気がしていた。(その妄想が、別に知らせなくていいとの判断に繋がっていた。)
欧華は九月から新しい生活に入る予定であり、彼女と予定を繰り合わせて遊んだりするのなら、残り少ない八月中しかなかった。
古川の提案した花火大会で、宙は顧みるべきことをハッと思い出し、その追憶のお陰で、彼女の精神的沈滞は、いくぶんか解消されたようだった。
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